ことばとこころ

2008年8月12日 (火)

戦後否定された戦前までの日本の中に、未来があったのではないか、という作業仮説

 昔から、日本民族は「胎教」を大切にしてきた。

 ところが、戦争に負けて、「胎教」など迷信だ、ということになって、欧米流の子育て論がはやった。

 子供がおかしくなってきた。

 原因はわからない。色々な議論だけがむなしく繰り返されるだけだ。母親はおろおろするばかり、果ては生まれてきた赤ちゃんを次々と殺してしまうという陰惨な事件までおきた。つい最近のことだ。

 欧米では、「胎教」が大切だと、気がついた。

 でも日本では、欧米では遅れた「科学的」な知識の毒がなかなか抜けない。

 欧米から教えてもらうまでもなく、「胎教」はずっと日本の子育ての基本だった。それでうまくいっていたのだ。

 戦前否定の思い込みが、そういう記憶を思い出す邪魔をしているのかもしれない。

 親が変われば子供が変わる。

 親と子供は、目に見えない深い絆で結ばれている。

 「愛」という絆で結ばれている。

 それを、断ち切るようなまねはしないで欲しい。

 世界でもっとも大切な宝が、昔の日本にはあった。

 それを取り戻すことが出来れば、「未来」が開けるのではないだろうか。

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2008年6月16日 (月)

言葉のまやかし

 聖書ヨハネ伝は、「はじめに言葉あり、言葉は神なりき、よろずのものこれによりてなり、これによらでならざるはなし」という文句から始まっています。

 ゲーテは、「ファウスト」の中で、この「言葉」というところを、色々に思い巡らすファウスト博士の姿が描かれていますが、それはさておき、ここで私が強調したいのは、「き」の一言です。

 日本語訳の聖書は、やはり文語体のものが一番リズムもあってよいと思われます。翻訳につきものの正確であるか否かという面はありますが、旧約聖書はヘブライ語、新約聖書は古代ギリシャ語がカノンだと言われているわけであり、ラテン語だろうが、ドイツ語だろうが、フランス語だろうが、英語だろうが、翻訳であることに変りはありません。勿論、語族の上では先祖と子孫のような関係にあるのでしょうが、宗教改革が、聖書の各国語訳から始まったことを考えれば、日本語訳が、日本語として格調の高い言葉で綴られることが最重要課題であることは間違いないでしょう。

 日本のキリスト教徒が、口語訳では相当に分かりにくい、調子も悪い言葉で翻訳してくれているので、これ以上、キリスト教が広まらないのは、私から言わせれば「幸いなるかな」であります。

 それはさておき、なぜ、「き」なのかといえば、過去形であるということです。

 つまり、言葉が神であったのは、過去のことだということです。

 現代は、偽りの言葉が支配する時代であり、言葉にはまやかしがあるということです。

 マルキシズムが、正に言語魔術をよく使っていました。彼らがいった「民主主義」とは、「民主集中制」のことで、「人民独裁」のことでした。「人民」とは抽象概念であり、結局は、共産党の権力者の独裁であったわけです。

 「独裁」といえば、今の共産党政府支配下の中国も独裁国家です。三権分立を正面から否定している国連安保理常任理事国は、シナ共産党政府だけでしょう。

 「多文化共生国家」「日本型移民国家」などという、言葉で語られた「1000万移民構想」は、言葉のまやかしに満ちています。

 世界中の国が、移民問題で苦悩しているのは周知のことであり、アフリカのルワンダでは、フツ族とツチ族で血で血を洗う抗争を続けていることはよく知られています。中国における東トルキスタン、チベット問題はどうなのか。今回の地震でも、少数民族は切捨てられているのではないのか。ボスニア・ヘルツェゴヴィナはどうなのか。ヨーロッパ各国は、移民政策を推進した結果どうなったのか。アメリカでさえ、ヒスパニックの流入に苦しんでいる。

 アジアでは、マレーシアが、植民地支配下にイギリスによって進められた移民政策によって、人口の3割が中国系、1割がインド系、もともとのマレー人は6割だが、経済も教育も圧倒的に中国系が強い。民族間の衝突は常にくすぶっている。インドネシアでは、人口の3%の華僑が経済の7割を握っているといわれている。
 
 提言には、ご丁寧にも「人種差別撤廃条約」の趣旨を生かした民族差別禁止法を制定して対応するらしい。

 つまり、これは、日本土人よ、移民様に文句をつけたら、罰するぞ、というものである。

 長野で、たった4000名の中国人留学生が動員されただけで、長野市は占拠状態になり、警察も彼等の暴行を見て見ぬふりをするしかなかった。

 留学生30万人計画などという形で、既に動き出しているわけであり、不法就労者はうなぎのぼりだ。

 一方において、「ゆとり教育」世代は、自分が置かれている立場に気付かず、刹那主義的に、ニートだフリーターだと甘え放題。このまま行けば、彼らは、間違いなく、日本国内において最下層民化することになる。

 親のすねかじりをしていられるのは、あと数十年の間だけで、その間に、働き口も何もかも、移民たちの手に落ちてしまうのだ。

 今朝、公園のベンチでねっころがっている7~8名の10代後半から20代前半位の男女の若いのがいた。どこでなにをしていたのか知らないが、今はまだ帰るところがあっても、これからはそうはいかなくなるのだ。そして、犯罪者予備軍となっていく。基本的に「豊かな」社会で、「人権」だ何だと甘やかされてきた彼らは、修羅場をくぐってきた移民たちに太刀打ちできるわけがない。

 イヤになれば逃げる。叱られたら辞める。そんなことを続けていて、気付いたら、最早誰からも相手にされなくなり、野垂れ死にするしかない。それもこれも、みんな社会が悪いのだと、ほざくのが落ちだ。

 真っ当な日本人も、こうしたお荷物を背負っていかなければならないのだから、大変である。


 経済界というのは、金勘定の論理だけで、女性を家庭から引きずり出して、家庭崩壊を進めた。そして少子化が進む原因を作っておいて、今度は少子化で、人口減少社会に転じたからといって、移民を進めようとする。

 場当たり的というか、目先のことしか考えていないというか、そういう意味では、刹那主義的な生き方しか出来ない若い連中と、根は一緒だということなのだろう。こんな日本に、誰がしたのか。

 今、国籍が狙われている。国籍のたががはずされて、希望すれば誰もが「日本人」を名乗れるようになる。

 すると、「日本国憲法」が適用され、「文化的最低限の生活」が保障される。食うや食わずで日本に来ても、移民申請が通り、「日本人」となれば、「生活保護」の対象となるだろう。

 「日本型」移民国家、などという言葉で騙されてはいけない。ありえない話しなのだ。日本は、移民国家ではないのだから、「日本型」というのは、これから政策を考える連中が頭の中で作り出すへ理屈に過ぎないのだ。

 日本解体のための移民国家政策、というなら、わかるし、それが実態だが、そうは言わない。だから、「言語魔術」であり、まやかしだというのだ。

 なぜ、差別がいけない、人権尊重などということが、ひたすら強調され、刷り込まれてきたのか。

 それは、この「移民」政策が実施されたときに、皮膚感覚でおかしいと感じても、それは「差別」感情ではないか、「人権」侵害ではないか、と自己規制させるためであったのだ。

 それは、いわば「精神的武装解除」といってよいだろう。

 その逆は、恐らく野放しににされるのだ。日本人がどんどん追い込まれ、虐待されることになる。

 その犠牲の上に、ごく一握りの連中が、あぶく銭を稼ぎ、世界のどこにも在る、貧困と差別と特権階級のうごめく国となるのだ。

 その頃には、もう、日本の「国体」など、完全に解体されていることだろう。

 そんな日を迎えさせることは、断じてあってはならない。

 人権擁護法案も、外国人参政権も、この移民1000万計画によって完成する、日本解体のための一里塚なのである。

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2008年6月12日 (木)

1000万人移民計画に思ふ~日本は日本人の国だ~

 一瞬、耳を疑つた。

 今後50年間で、1000万人の移民を促進する。そのため移民庁をつくる。移民に言葉や就労の為の訓練のサービスを行ふ。

 政権与党の議員連盟が出した政策案だ。

 ネットで調べたら、2003年に、民主党の議員有志が、同じような提案をまとめてVOICEで対談してゐた。

 狂気の沙汰である。

 人口が減つたら、活力が落ちる、経済力が落ちる、だから、移民を入れて、人口を維持する、だと。

 人間を、頭数でしか考へることの出来ない、恐るべき野蛮。

 よしんば、経済力を維持できたとしやう。それを享受するのは一体誰なのか。

 100年後には4000万人人口が減るといふ試算をしているのだそうだ。

 では、50年後までに移入された1000万人は、100年後にはどれだけになるといふのだ。

 一億人の人口を維持するといふのだから、3000万人といふことか。

 やがて、純粋な日本人は少数民族となるだらう。

 そして、ネパールと同じやうに、日本人民党毛沢東主義派が、第一党となり、天皇制廃止を打ち出すのだ。

 神社などは過去の遺物として、鎮守の森は全て切り倒されるだらう。

 日本語は、劣等言語として差別され、中国語が公用語にされるのだ。

 日本女性は、中国人男性との結婚のみ許され、日本男児と中国人女性の結婚は禁止である。

 厳密な一人っ子政策が採られ、日本民族絶滅政策はかくて完遂されるのだ。

 これが、1000万人移民計画に隠れた、本当の意思である。そう断言してよい。

 裏に、中国や北朝鮮、また、解放同盟の陰がちらついている。

 なるほど、これが彼等の切り札か。全ての反日運動が、ここに収斂されているのだ。

 国籍取得要件を緩和させ、日本人の枠組みを曖昧にする。

 人権擁護法を通し、こうした動きに反対する国民の声を全て圧殺する。

 日本人愚民化政策たる、教育政策を推進する。

 日本人のアイデンティティを解体するため、歴史への攻撃、皇室への攻撃を徹底する。

 性モラルを崩壊させ、人間性崩壊を促進する。

 こうした徹底した日本民族劣化・絶滅計画をすすめるのだ。

 これが、自民党、民主党の一部議員が推進しようとしている1000万人移民計画の、本当の意図である、と直感する。

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2008年3月20日 (木)

しきしまの道の師、逝く、嗚呼

「2008/03/19-19:45 夜久正雄氏死去(亜細亜大名誉教授・国文学)
 夜久 正雄氏(やく・まさお=亜細亜大名誉教授・国文学)19日午前8時56分、肺炎のため東京都武蔵野市の病院で死去、92歳。東京都出身。自宅は同市桜堤1の3の24の206。告別式は23日午前11時から三鷹市上連雀2の5の13の法専寺で。喪主は長男竹夫(たけお)氏。(了)」

 夜久正雄先生が、今日、逝去された。数へ年94歳であったという。

 実は、昨日の夜、ある会合で、「しきしまの道について」という題で90分話しをさせて頂いた。

 依頼を受けてから2ヶ月時間があったが、常に頭の片隅で考え続けているような状況で、昨日何とか話終えたところでほっと肩の荷を下ろしたような気持ちになった。この間一貫して私を導いてくれたテキストこそ、夜久正雄先生の『しきしまの道研究』であった。そのほか、『短歌のすすめ』『短歌のあゆみ』『和歌と日本文化』『万葉集その漲るいのち』『明治天皇御集』『今上天皇御歌解説』等等である。
 そしてまた、『古今集』『新古今和歌集』『神皇正統記』『古事記』『万葉集』『古事記傳』『うひ山踏み』『本居宣長』等等。挙げていけば枚挙に暇がない。

 本当に久しぶりに、「しきしまの道」といふ学びを分け入ったのである。

 その翌日、夜久先生の訃報に遭はうとは、何か、運命といつたものを感じるといったら、大袈裟になるだろうか。
生前一面識ものが、をこがましくも。

 しかし、このしきしまの道についての学びが、今まで以上に抜き差しならぬ意味を持ってきたことを感じる。

    寄道述懐
 「白雲のよそに求むな世の人のまことの道ぞしきしまの道」(明治三十七年御製)

    道
 「ひろくなり狭くなりつつ神代よりたえせぬものは敷島の道」(明治三十九年)

    道
 「いとまあらばふみわけて見よ千早ぶる神代ながらの敷島の道」(明治四十年)

    寄道述懐
 「ふむことのなどかたからむ早くより神のひらきし敷島の道」(明治四十二年)

 先生が、「敷島の道」といふ言葉をめぐつて、といふ研究ノートの中で紹介された 明治天皇の御製である。

 夜久先生は、三井甲之先生や、川出麻須美先生ら、正岡子規から、アカネ、そして人生と表現に連なる学統の流れに位置する方でもある。

 文芸に偏した「アララギ」と異なり、日本人が踏み行うべき道としての「しきしまの道」の在処を求めて、明治・大正・昭和を貫き、道を切り拓いていかれた先達である。

 「日本主義時代の古層」という研究所を昨年書店で見つけたとき、思わず「やった」と思った。それは、全てではないが、この道統についてそれなりに真面目な研究書がはじめて出た、という思いからである。更に、「日本主義的学生思想運動資料集成」といふ膨大な資料集が遂に刊行されたのである。これには本当に驚きかつ喜びが沸いてきたのである。

 「学問浪人」という言葉を冠されたことがある。

 近代の我が国の歴史の中で底流に根強く存しながら、軽佻浮薄な知識人が支配する大学やマスメディアという遊園地からは、はじき出されざるを得ない、真面目で地道な、わが民族の魂の在り処を探求する学問である。

 和歌というものが、単なる一文芸ではなく、日本人が踏み行うべき道として捉えられたときに「しきしまの道」と言うのである。

 昨日話を聞いてくれた方は十指に満たない方々であった。しかも和歌に興味のある人など殆どいなかった。この方々にどうしたら伝わるのか。結果として、しきしまの道に興味を持って頂くことが出来た。ある方からメールを頂いた。帰り道に一首作ってみようと思ったが、まだ出来なかった。また話しを聴きたい、と書いて下さっていた。

 夜久先生の御霊前に、頭を垂れつつ、「しきしまの道」の道統を守り伝へる一人たらんことをお誓い申し上げたい。

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2008年1月10日 (木)

小学生高学年から中学生にかけての読書は人生の基礎をつくる、と思う

 産経新聞の正論で、曽野綾子さんが「何より怖いのは、子供たちが本を読まないことだ」と指摘している。

 この「怖い」という感覚は鋭い、と思う。

 自分自身、憑かれたように本を読んだ時期というのは、実は小学生から中学生にかけての時期だった。勿論他愛もないものもあったが、今読み返そうと思っても中々難しいような科学書まであった。

 司馬遼太郎が大阪のある図書館にある本を全部読んだという話がある。勿論、「話」ではあろうが、あらゆる本の背表紙を眺め、大部分の本を引っ張り出してパラパラと眺めたことがある、とするなら、自分にも体験があるとはいえる。

 知的好奇心というのか、活字の面白さというのか、自分の活字中毒の始まりは存外に早かった。

 父から何度か読書についてコメントをもらったことがある。断片的な言葉なのだが忘れられないものである。高校に入ってすぐの頃だったか、父が好きな本を買ってよいと言われたので書店で何冊も物色したが、2冊、と限定されたので、「本居宣長補記」と「孫子・呉氏・六韜・三略」の2冊にした。「本居宣長補記」は、小林秀雄という人物を知っていたための選択ではなく、とにかく昔、国学とやらをまとめあげた大変な学者に本居宣長という人がいるそうな、少し知ってみたいものだ、という程度の思いだったのだが、「本居宣長」はなく、「補記」があったのでそれにした、というまあいい加減なものだ。そのため、小林秀雄の本居宣長を読むのはかなりあとのことになった。その少し後に、山本七平氏の「小林秀雄の流儀」だっただろうか、本居宣長は補記の方が面白い、などとコメントしていたのをかじって、その面白い方なんだな、と思ったりした。いきなり、本居宣長とソクラテスの比較から入るのだが、学校では絶対にお目にかかれない取り合わせにワクワクしたものだ。

 御多分に漏れず、高校の数学で躓いて、理系の道はなくなったのだが、思春期の読書がブルーブックスなどの科学書に偏っていたせいもあって馴染みは深いものがある。

 日本史は高校までまともに勉強しなかった。大学受験は世界史だった。世界史をやると、何でせせこましく日本史などやれるか、という気にもなる。それで日本史を勉強したのは大学に入ってからしかも殆ど独学に近かった。今では日本史の素晴らしさが分かるようになったが、もう少し早い時期から勉強しておきたかった、とは思う。

 平泉澄博士の「少年日本史」が、講談社学術文庫で「物語日本史」上中下で出ているが、それが通史としての国史を実感する上で最上の手引きとなった。小林秀雄氏が、通史を書くには大歴史家の手腕が要る、という意味のことを言っていたのを思い出すが、下手なやつではどうにもならないものにしかならないのだろう。

 話があちこちしているが、読書という体験がなければ、今の自分は間違いなく存在しない。それは断言できる。

 様々なメディアは、読書の代替には決してならない。人間は「言葉」によって生きるのであり、「言葉」なくして人間足り得ない、というのが自分の持論であるが、活字離れの怖さは、人非人の増加への恐怖でもある。

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2007年6月24日 (日)

沖縄 ~若夏の島~

 沖縄の心を思へば胸迫り戦世の事ひたに思はゆ

 鉄の雨嵐となりて吹き荒び数多の生命奪ひしかの日々

 若夏の島を訪なふ時にしも国守らしし御霊ら偲ばゆ

 ハイビスカスの花の盛りに照りつける陽射しの遥か青き海見む

 靖国の宮に学徒の御霊をば祀りし先師忘ら得ぬかも

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2007年5月 1日 (火)

言葉を喪いつつある日本の若い世代

 産経新聞の4月30日付で、「大丈夫か日本語 上 意味が通じない 」という記事が掲載された。

 やはり、という思いも強いが、記事の冒頭に述べられている「ついに、ここまできたか」という言葉が胸をえぐる。

 もう、語彙力がない、というレベルではなく、更にメルトダウンしているとしかいえない。短大生が、「まごまごする、ってどういう状態?」などと真顔で聞いてくるというのである。小学校からやり直せといいたいところだが、考えて見れば、彼らは一度は小学校から中学、高校を経てきたはずなのである。

 今の学校は一体何をしているのか。

 歴史の教科書は問題になって多くの議論がなされてきたが、実は、家庭科の教科書や国語の教科書の方のダメージが実は深刻なのではないかと思われるのである。

 特に、国語の破壊は凄まじい猛威を振るっているといえる。古典がどんどん削られ、現代文も、生徒の作文が主になるという状況、自由でのびのびと書きなさい、などという。何の素養もない中で、どうやって自由に書くことが出来るというのだろう。

 言葉を舐めているとしか思えない。言っちゃ悪いが、言葉という道具は人類の歴史と共に古いものではあるが、祖先から継承してきたものである。それを断ち切って、自由になどと言っても意味を成さない。

 言葉は学ばなければ身に付かないものである。

 しかし、今の現象は、そんなレベルではないような気がする。おそらく、ゼロ歳児保育などで幼少時から母親から引き離されたことによって、最も基本的な言語の習得の機会を奪われていることによるのではなかろうか。

 勿論、若い母親の言語能力も低下の一途を辿っているという側面もあるだろう。美しい日本語を話せる女性は大変貴重な存在である。

 MOTHER TONGUE と英語でも言うように、言葉は母親から口移しで伝えられるものである。赤ちゃんは無心で母親が語りかける口元と懐かしいその声の響きを通して、言葉を覚えていくのである。

 親として、赤ちゃんが始めて言葉を発し始めたら、かつての家庭なら例外なく心から喜んで、もっといってご覧と言って、「パパ」とか「ママ」(これも問題だが)と何度も言わせただろう。話せば喜ばれるという原体験が、言語能力を飛躍的に伸ばす源であるということは、したりげな学者先生のご高説を待つまでもなく(彼らはしばしば非常識なことを言うが)当然のことだったのだ。

 既に実害が出始めている。企業でも支持をしてもきちっと的確に受け止めることの出来ないものが増えているという。「敬語が使えない」「違和感ある言葉遣い」といったレベルではないというのである。

 はっきり言うが、言葉の正確な意味において、最早、日本語が使えなくなりつつある彼らは「日本人」ではない。モドキに過ぎない。彼らの頭の中には、母国語の能力が育っていないのである。はっきり言うが、彼らが英語を学ぼうとしても、「Often」の訳語を調べさせても「しばしば」という言葉も「頻繁に」という言葉も、理解できないというのである。「よく~する」ではどうかといえば、「よく」を「good」の意味でしか認識していない学生もいるというのである。よく生きてきたものと思う。

 最近、レストランのチェーン店などでウェイトレスの女の子の言葉を聞いていてどうもぎこちないので、留学生かなと思って名札を見ても日本名であるので首を傾げることが多くなった。ちょっとしたことがわからないようなのだ。悪気はなくても、結果として大いに不愉快な思いをすることが一再ではない。

 きちんと日本語を学んでいる留学生の方がよほどきれいな日本語を話す。彼らは母国語でも高度な能力を持っていることは間違いない。これで国際間の競争にまともに戦って勝てるはずがない。せめて母国語の能力を培っておかなければ。

 幕末維新の志士たちの中で、外国語を学んだものもいたが、その時間を惜しんで実践活動に突入していったものもたくさんいた。先見の明があるとかないとかの問題ではない、選んだ道が違ったに過ぎない。彼らの母国語の能力はいうまでもなく高い水準にあったと見て間違いない。

 現在、青少年の無気力の現状は、この言語能力の著しい低下と無関係ではなかろう。言葉がつたなければ思考する力も脆弱となる。 考える力なくして将来の夢を描くことは不可能である。感覚的な刺激を求めるだけの、動物的な生活に安住することを選ぶだろう。

 言葉は魂の翼なのである。その翼を捥ぎ取ってきたものが一体何であるのか。

 如何にすれば、かの無明の魂にともし火を灯すことが出来るのか。

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2006年11月25日 (土)

私の母の句と歌を  ~こんな母を持って、私は幸せです~

 母から時折メールが来ます。

 今日は2通のメールが届きました。

 「合掌

  懐に孫の足入れ暖を取る      (※ふところに まごのあしいれ だんをとる)

  幸せは重きものよと孫を負う    (※しあわせは おもきものよと まごをおう)

  孫に観ゆ天使のごとき微笑みを  (※まごにみゆ てんしのごとき ほほえみを)」

 ※の読みは私がつけました。

 「善悪を越えて現す神の道、昨日も今日も明日も生きつつ。

  見えぬとも描きて観つつ真なる内なる仏尊くもかな。

  人人の心の奥に声を聴く、君よ生きよ我も生くると。  合掌」

 AUは2台で1台よりも安くなる割引制度があるので、機種変更のときにもう一台契約した分を、当時携帯を持っていなかった母にプレゼントしたのが一年前。代金はこちらもちなので、厳しい発信規制(口頭)をしていますが、その分メールのやり方を覚えて結構上手くなっています。

 写真の添付は控えてもらってますが、結構呑込みが早く使いこなしているもよう。ただし、よく置き忘れるらしいことと、充電を忘れることがあって肝心なときに連絡がつかなかったりするのが玉にキズ。それもご愛嬌。

 妹の長男のお守りを押し付けられて、この間少しこぼしていたけれど、今回の句を見て安心しました。

 母にとっては、16人目の孫になるはずですが、それでも可愛さは一入のようです。

 悠仁親王殿下と同学年になるはずなので、今から学習院大学をめざしてもらい、殿下の御側にて御守りする志を立てて貰いたい、などと勝手なことを思う伯父です。天真爛漫な妹の性格、義弟の真面目さと気さくさを受け継いでくれればよいのだが、などと思います。

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2006年10月21日 (土)

「本居宣長補記」を読み返して

 昨日、高速バスで移動する時間が往復で4時間以上あつたので、小林秀雄全集(昭和58年頃刊行)別巻1を持参しました。最新の全集ではなく、一つ前のもので、その巻を持ち出したのは特に理由があつてのことではありませんでした。

 最初に収録されてゐたのが「本居宣長補記」でした。何度も読んでいるはずなのですが、今回久しぶりに読み返して、何も読み取れていなかつたことに気付きました。

 さわりは、プラトンの第7書簡の話や、昔のエジプトの文字を発明した神様の話、ソクラテスの話などですが、主要部分は、「本居宣長」では触れなかった「眞暦考」についての話でした。

 この話、ぼやつと理解してゐたつもりだつたのですが、全く理解していなかつたことに気付きました。

 大陸から暦が入つて来る以前にも、古代人は暦を持つてゐたといふことについてなのですが、その証拠は、「暦」といふ漢字を「こよみ」と訓読みしたことで明らかだといふ訳です。

 その古代人の「暦」を、「眞暦」と宣長は言つたわけです。

 大陸から入つた暦は太陰暦で、四季の運行と月の巡りをあわせるために、閏月などが何年かに一度入るなどの特徴があります。眞暦はそのような不完全なものではなかつた、といふのです。

 絶対に狂はない暦、それが眞暦である、といふこと。

 このことの意味を、これまで良く分かつていなかつたことに気付いたのでした。

 現在使用されている太陽暦であるグレゴリウス暦も、四年に一度2月29日があるなどの調整が必要で、決して完全なものとはいえません。しかし、眞暦は狂はない、といふことはどういふことなのだらうか。

 これは、文字以前の言葉と、文字以後の言葉との関係のやうなものであることが、冒頭に何故文字以前についての話があるのか、分かります。

 自分の外にあるものとしての言葉、それが文字で綴られた言葉ですが、文字以前にあつた言葉は、全て自分の内にあるものであつた訳ですね。暦も同じだといふ事なのです。古代人は、四季の巡りと、月の巡りは別のものであるといふ事を認識してゐた、と。それを無理矢理合理的な説明をしやうとしたところに伝来の暦の様々な不具合が生じたといふ指摘はなるほどと思はれました。

 そして、古代人の認識は、現代の最新の科学にも繋がるやうなところがあるのだといふ指摘も面白いものです。

 人間の頭で捻り出した理屈などは、素直に大自然に直面してゐた古代人の認識に、到底及ばない。

 今、人間の頭でこねくり回す理屈が社会を支配しています。ジェンダーフリーや人権擁護法案などはその最たるものだと思はれます。それは言語魔術であり、中世の暗黒と少しも変はらないといつてよいのだと思はれます。

 人は誰しも古代人と同じ自己本然の姿を持つてゐるのだといふこと。そのことをよくよく考へねばならぬと思はされました。

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2006年8月25日 (金)

「修身教授録」を読む~「人身享け難し」といふこと ~その4~

森先生は、更に生徒に分かりやすいように、具体的に如何に人間として生を得たことが稀有のことであるのかを生徒に自覚させるため、次のように注意を向けます。

「諸君試みに寄宿舎の庭に立つて諸君の周圍を飛翔匍匐する動物は暫く措くとしても、せめてそこらに見らるる植物の數だけでも数へてごらんなさい。恐らく諸君は正確にはその數を數へ得ないでありませう。けだしその數は諸君の幾十百倍あるか知れないからである。成程大樹の數となれば極めて少ないでせうが、もし雑草の一々を數へたとしたならば、恐らく全庭の植物の総數は本校生徒の幾十百倍をも超えることでありませう。沿んや更に動物をも勘定に入れて、その邊にゐるくも、みみず、あぶ、はへ、地蟲等迄數へたとしたならば、實に際限なきことでありませう。しかるにお互に今それ等動植物の一つとして生まれないで、此處に特に人間の一人として生まれ出たことに對して何人かその資格ありと言ひ得る者があるでせうか。牛馬犬猫蛇蛙、更にはうぢ蟲などに生まれなかつた事に對して、何か當然の理由乃至資格ありといひ得る者があるでせうか。洵に地上の生物の數は、人間のそれに比して如何程多いか實に測り難いことであります。しかもお互いにそれらの何れでもなくして、此處に人間として生まれ得た事が何ら我が力によらざる事に思ひ及べば、何人も、享け難き人身を享け得た事に對してしみじみと感謝の心が湧き出づる筈であります。」

この地上には、様々な生命体が満ち溢れています。そのなかには大樹もあれば雑草もある、馬や牛、犬や猫もいれば地蟲もいる。そうした動植物の数は、人間の何百倍にもなることは生徒にも容易に理解されます。そしてそのような動植物に生まれずに、人間として生を享けたこと、そこに当然の理由や資格があると断言できるものが生徒諸君、否人間のなかにいるであろうか、と。そして、人間として生まれ得たことに対してしみじみとした感謝の念を感じせしめるよう導いていきます。きめ細やかな指導であると思います。

しかして、「感謝の念」を持つことは中々難しいこととて、信仰薄い現代人の特性にも説き及びながら、人として生まれ得たことへの「感謝の念」の大切なことを生徒の心に刻み込んでいかれるのです。

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2006年8月20日 (日)

「人身享け難し」といふこと ~その3~ 森信三先生、「修身教授録」より

さて、「修身教授録」の「人身享け難し」の紹介を始めて3回目となります。
授業の記録ということもあって、繰り返し「人身享け難し」という言葉を発し、生徒の心を発奮せしめながらしかも押し付けるようなところのない、見事な語り口であります。

「否ひとりそれのみでない。我々は此の世に生を享け得た後と雖(いえども)、相當永い間、自分が此の世に人間として生まれ出た事を気付くことなくして過し来たつたのであります。そもそも我々人間は、何人も厳密には自己の生年月日とその生誕の場所とを知らないのであります。かく申せば諸君は定めし私の此の言を怪しむでもありませう。併し乍ら、諸君の知れりとする自らの生年月日は、實は御両親より教へ聞かされた結果に外ならぬのであつて、我々は直接自己の生年月日乃至生誕の場所を知り得るものではありません。否それのみでない。恐らく諸君は自分のお尻に褓襁(おむつ)のついけられてゐた事さへ之を記憶してゐる人はないでせう。即ち我々人間は、ひとり自己の生年月日を知らないのみならず、更には褓襁のとれる年頃までも、自己の成長について殆んど何等知る處がないのであります。それ故私は常にこの事を以て、我々人間の根本的無知の一事例と考へてゐるのであります。かかる有様でありますから、諸君にしても今日生後二十ケ年に垂んとしつつしかも生を人間として享け得たことに対して、しみじみとその辱(かたじけな)さを感ずることが出来ないのである。否二十年どころか、うつかりすると私のやうに四十の声を聞くやうな年頃になる迄ついひに心の眼が開かれずして了るのであります。即ち我々人間は、うつかりすると我が子を持つ年頃に至つても尚且つ深くこの人生の根本問題に想ひ到らぬといふやうな愚かさにもなるのであります。」

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2006年8月13日 (日)

「人身享け難し」といふこと その2

 修身教授録2に掲載されている森信三先生の言葉の続きを紹介していきたい。

 「斯様な次第でありますから、今諸君に対して斯くの如き人生の根本問題についてお話してみても、恐らくは諸君の充分なる共鳴は得られないかも知れません。この事は、よしさうだとしましても、我が身の過去を顧みて全く無理のないことと思ふのです。即ちかく言ふ私自身が、諸君の年頃にはかういふ人生の大問題に対しては、うかうかとぼんやりして過して来たからです。が然るにも拘らず私は、今此処に諸君と相見え、互いに修養の第一歩を踏み出さんとするにあたつては、諸君が之を受容ると否とにかかはらず、どうしても先づこの根本問題から出発せずにはゐられないのです。少なくとも現在の私としては、この問題から出発する以外に真の出発点は見出し難いのであります。」

 たたみかけるように、述べていく言葉には力がこもります。それは、「修養の第一歩を踏み出す」ために「どうしても先ずこの根本問題から出発せずにはいられ」ず、「この問題から出発する以外に真の出発点は見出し難い」からに他ならないからです。この出発点を確認し、次のステップへと生徒を導きます。

「けだし我々人間にとつては、その真の根本的修養といはれるものは、結局人として生をこの世に享け得た真意義を実現すること以外いはないからであります。即ち又真に生き甲斐あり生まれ甲斐ある生涯を送るといふこと以外にないからであります。然るにその為には、私共は何よりも先づこの自分自身といふものについて深く知らなければならぬ。換言すれば、我々はそもそも如何なる力によつてかくは人間としての生を享け得たのであるか、我々は先づ此の根本問題に対して、改めて深く思ひを致さなければならぬと思ふのであります。」

 「人として生をこの世に受け得た真意義を実現すること」が「真に生き甲斐あり、生まれ甲斐ある生涯を送るといふこと」であると、森信三先生は断言されます。
 何で生まれてきたのか、何のために生きるのか、生きていることの意味は何か、こうした問いから森先生は一歩踏み込んで、人間として生まれ得たのはなぜであるか、と詰め寄っていきます。

 「さて今日多くの人々は、自分が人間として生を此の世に享け得た事に対し、格別に有難いとも思はずに過してゐるやうであります。現にかく申す私自身にしましても、お恥ずかしい事ながら、この六七年前迄はやはりその一人だつたのであります。恐らく諸君にしても、先づ大体は同様でないかと思ふのです。」

 人は自分が人間として生まれ得たことに対して、感謝の念を持っていないという「事実」を指摘しています。当たり前と思ってゐるところに踏み込み、次のように続けられます。

「併しながら翻つて考ふるに、そもそも我々のうち、果たして何人が自分は人間として生まれるのが当然だと云ひ得るやうな、特別の権利と資格とを持つてゐるものがあるでせう。そもそも私どもは、その生れ出づる以前において決して人間として生まれむことを希望し、乃至はかくと決意して生れて来た訳ではないのであります。況んや人間として生まれ出づるに値ひするやうな努力功績を積んだが為めに、今日ここに人間としての生命を享け得たわけではありません。げに我々の此の世に生を享けるや、全く自己の関はり与らない事であつて、全く自己を超えた大いなる力に催し出されてのことであります。」

 人として生まれ得るに足る、何か特別の権利や資格があるのだろうか、功績があって人として生まれることができたのか、と畳み掛け、人間として生まれ得たことが、「全く自己を超えた大いなる力」によるものであるとしか考えられないことであると断言されます。
 人が生まれるのは、単にセックスの結果であって、偶然の産物である、などとする現在のいわゆる「科学的」(これは決して科学そのものではない)認識とはまったく月とすっぽんくらい違います。これは余談ですが。(続)

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2006年8月 5日 (土)

「人身享け難し」といふこと  その1

 森信三先生の戦前における代表的な著作ともいえるであろう「修身教授録」には、一稿一稿珠玉の文章が掲載されている。

 「修身」とはいふまでもなく、戦後占領軍によって禁止された教科であり、歴史や地理と違って占領解除後も復活することのなかった科目である。

 「道徳」と「修身」は何処が違うのか、判然と説明することには力が及ばないが、「修身」がどのようなものであったかは、伺うことが可能かと思われる。

 修身教授録は、師範学校の生徒に対してなされた授業の講義録であり、生徒が筆記したものをまとめたものである。師範学校でなされていた修身に関する授業がどのようなものであったのかを伺うにはこれ以上の資料はないと思われる。そしてまた、教師をめざす生徒たちに対して、「修身」がどのようなものとして教えられていたのかについても、これ以上の現場証言はないであろう。

 「人身享け難し」も、その一つである。

 「諸君の大部分の人は大体今年十八歳前後のやうであります。してみると諸君はこの地上に生を人間として享けてから、大体先づ十六七年の歳月を過ごしたわけであります。さてそれにつけても諸君は、自分は如何なる力によつてかくは人間としてその生を享け得たのであるか、その事について果たして今日まで自ら深く考へた事がありますか。私の推察にして誤りなくんば、恐らく諸君のうちにはこの大問題に対して深刻に考へた人は少なからうと思ふのであります。斯様に、一々諸君にお尋ねもしないで断定するといふことは、一面からは甚だ礼を失した事とも思ひますが、しかし私は自分自身の過去を顧みて先づ大体さうではないかと思ふのであす。と申しますのは、私自身諸君位の年頃には、一向その様な大問題に対して深く考へたことはなかつたからであります。さうして今や人生の四十の峠を越しかけた昨今に到つて、やうやく斯様な人生の大問題が自己の魂の問題となりかけた次第であります。従つて諸君の年頃には、仮令斯様な人生の大問題について教へられたとしても、謂はばうはのそらで聞き過したに相違ないのであります。」

 やわらかく、しかし確固として語りかけるその口調には、ぐいぐいと引き込まれる力がある。生徒からすれば、先生にして四十歳を超えてようやくわかりかけてきたものなら、自分は先生に負けずに今こそ自分の問題として受け止められるように、と集中して聞き入っていくのではないか。

 果たして、人間として生を享け得たのは何ゆえであるか、このような問題に答えがないのは自明のことだ。しかし、そこに答えを見出していく過程の中にこそ、人間としてよりよく生きていくためのヒントが隠されているのではないか。生徒をしてそのような思索に導いていくことはさりげないようでも、全身全霊の力が込められているように思はれる。(続)

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2006年6月 7日 (水)

写生と反省

 「反省」とは、ありのままに過去を記録すること、ということを書いた。

 正岡子規が「写生」ということを提唱したことを思い出した。

 子規の俳句を継いだ人はいる。短歌を継いだ人もいる。しかし、写生文を継いだ人はいない、ということを読んだ記憶がある。あるいは記憶違いかも知れないが、少なくとも子規の「病床六尺」などに匹敵するような、赤裸々な写生文、精神の記録は、絶後であると言ってもよいだろう。

 子規の強靭なリアリズムを文学史上に言うのは容易い。しかし、その強靭なリアリズムが忘れられて、舶来の「自然主義」や「プロレタリア文学」によって伏流水になってしまったことの意味を考えるのは難しい。

 日記を書いている人なら、自分の考えを書くのが如何に容易な業であり、たとえ昨日の事でも、事実をありのままに記すことが如何に難しいかは、身に染みている筈である。染みていないとすれば、恐らく自分の考えだけの世界に生きて、何も外物を見ていないのであろう。

 事実を、ありのままに記録する、ということが真に反省であるならば、写生文を書くことは真の反省に直結するはずである。そして、真の反省は真に強靭な精神を生むことになるだろう。事実をありのままに書く、ということは、実は不可能なことなのである。言葉そのものの持つ制約があるからである。その不可能ごとに挑戦するということは言葉の持つ手応えを感じるということでもあり、その感触は不思議と伝わるものなのである。この過程を経た言葉には「空想」が入り込むことは出来ない。少なくとも「空想」は最小限にまで排除されることになる。

 しかし、得てして人は「空想」に逃げ込み、真の「反省」から遠ざかる。楽をしたいのもまた人間の習性の一つなのだ。

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2006年4月22日 (土)

「あたまことば」と「こころことば」そして、愛国心教育

 むかし、日本の文化や伝統について勉強を始めたころ、気をつけなければならないと、よく先輩方が言われていたことが、この「あたまことば」と「こころことば」の違いについてだった。

 「あたまことば」とは、簡単に言えば理屈のことだといえよう。頭の中で理屈を捏ね回して観念の遊戯をする。その論理が如何に精緻であっても、そのようなものでものごとの本質は捉えることは出来ない。

 「こころことば」とは、実感に即した言葉、「切れば血の出るような」言葉である。腹のそこからの言葉、心のそこからの言葉、定義すること自体が難しいが、理論理屈のことではない。歎異抄で親鸞が法然上人に騙されて地獄に堕ちてもよい、と言い切ったような、言葉だ。

 保守VS革新という構図が意味を成さなくなり、今や世を挙げての「革新」の時代である。

 「おやっ」と思う人もあるかもしれないが、小泉内閣のスローガンを見れば「改革を止めるな」であるし、今や、古きよき日本を守れ、という政治勢力は消滅したといってよい。その意味で戦後60年が経過して、ついに日本は革命派が天下を取ったのである。

 勿論、「革新的保守」というカテゴリーも考えることが出来るし、米英流の保守主義思想には学ぶべき点が多々あることも事実である。

 しかし、肝心の「日本」そのものに依拠した政治勢力がなくなったということは、何と表現したらよいのか、奈落の暗闇を覗き込むような恐ろしさがある。

 「保守」を標榜する人々の中にも、「共和派」がいる。それは、自民党内に伏在していた、アメリカ主義者たちである。この人々は反共ではあったかもしれないが、尊皇ではなかった。

 あたまだけで考える人々は、その内容が保守的言論であろうと左派的言論であろうと、「革命派」であることに違いはない。あたまで理解しようとしたって、「天皇」はわかりっこないのだ。

 教育基本法改正法案の与党協議で、愛国心が排除され、国を愛する「態度」を養うのだという。「心」はどうでもよいというのが透けて見える。しみじみとした情感は既に枯れ果てているのだ。これが、戦後政治のなれの果てかと思うと、日本人が戦後「心」を失ってきた総決算を見るようである。

 国を憎む人々は、「良心の自由」をたてに、愛国心を否定する。愛国心を押し付けるな、という。その論理は公明党も一緒なのだが、彼らの「心」とは、国を憎むところに存在するのであって、国を憎む心の自由を国に保障しろといっているのだ。そして、教育の中では国をバカにし、ないがしろにし、憎悪する心を助長することは野放しになっている。「愛国心」を養う自由は完全に抑圧されているのだ。

 特に反日イデオロギーに凝り固まった人でなくても、「愛国心」など教育で押し付けるべきではない、としたり顔をする人もいる。自分が所属しているカテゴリーに対する親近感というものはそれなりに自然と芽生えるものではあるだろう。しかしそれを深め、意義付け、正しく導くということは、野放図にして育つものではない。
 敗戦後、アメリカという国は知っていても、日本という国の名すら知らない子供たちがいたことを、平泉澄博士は書き残している。その子供たちに日本の国の歴史の話をしたときのエピソードは、涙なくしては読めないものがある。亡国の教育を施しつづけて60年。日本はようやく本当に国を失おうとしている。

 「国はどこにあるのか」

 乃木大将が、学習院院長をされていた晩年、生徒たちに質問した。「心の中にあるのだよ」と院長先生はやさしくさとされたという。同じことを、森信三先生も書き残している。「国は心の中にある」その国を豊かにする教育を、今の言葉で言えば愛国心教育となるのではなかろうか。

 今、心の中に、「日本」を持っている人がどれだけいるだろうか。「日本」という国号を耳にして「日本」が心の中に躍動する人々は、まだまだ多いに違いない。しかし、なぜ躍動するのだろうか。「日本」とは何か。どんな国なのか。それを明快に語れる人は少ない。ましてやしみじみと語れる人をや。心の中で、「日本」が滅びはじめている。そして、心の中から「日本」がなくなる日こそ、日本という国がなくなる日なのだ。あとには、元日本人であった人々の子孫の形骸だけが残り、その中身はアメリカ文明か、朝鮮か、中国か、何れにせよそれらの亜流にしかならないだろう。

 「日本」とは何か。教えられないならまだしも、「日本」という言葉の内実が実に貶められている昨今である。

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2006年4月 4日 (火)

敗戦で失われたもの~河村幹雄博士の場合~

 大正から昭和初年にかけて、とりわけ教育問題に熱心に取り組まれ、著名であった方の一人に、河村幹雄博士がおられる。

 氏は明治十九年に、北海道石狩に生まれ、明治44年に東京帝国大学を卒業された。その後直ぐに九州帝国大学の講師を嘱託せられ、翌年には九州帝国大学工学科大学助教授に任ぜられた。大正8年には九州帝国大学教授に任ぜられ、同年理学博士の学位を受けられた。昭和5年斯道塾を福岡市に開かれたが、翌昭和6年12月27日、永眠された。享年46歳。

 短い生涯であったと言わねばならないが、「遺稿集」の編集後記に切々と述べられる言葉は、博士の遺徳を偲ぶに十分であろう。

「「私が亡くなったら書遺したものは皆焼いて灰にしてくれよ」とかねてより言い置いて博士は逝かれた。それにも拘らず今、ここに遺稿を編纂・刊行するに到つたことは、博士の心を知らない背命の所業である。我々はかかる背命の恐るべきを思はなかつたのではない。然し何人かよく直ちにこの命に従ひ得たであらう。博士を知る人にして、片々たる草稿と雖もこれを愛惜し保存すべきを力説高調しない人はなかつたのである。」

「博士の本領は、寧ろ、その行住坐臥の間、実践に於て体現され、或は講演に、或は講義に、或は座談に、そしてその公私の生活の裡に直接表現されたのである。それ故にその筆録されたものが如何に勝れてゐるにもせよ、その一部分を輯めて遺稿として刊行することは必ずや博士の偉大なる生命に外的な限定を加へることとなるであらう。時にふれ折に際し、豊かなる情意と透徹したる識見とを以てすべての者を蘇らせすべての者に力を與へられた博士の生命の全貌をここに現すことはできないからである。偉大なる生命は却つてこれに直接触れた人々を通じて無限の展開をなし、隠微の間におのづから結晶して何等かの形となるであらう。遺稿を求める我々の心は畢竟これ愚凡の迷執であるに違ひない。」

「然しながら日本は今意味深き歴史の刻々を経過しつつある。世界歴史の中心が日本に於て渦巻いてゐる。『重き悩みの近づき来るに』と博士の歌はれたその時が正に我が民族の目前に到来してゐる。この重き悩みを擔ひ了せ、歴史をして永遠の栄光に輝かしめる為には、高邁なる人生観に基く確固たる精神力と明晰なる洞察力とを有たなければならない。博士の思想は必らずこの力を我が同胞に與へるであらう。」

「かくして、遺稿に伴う必然的制約は博士を損ふこと頗る大であるとしても、遺稿が晦迷の中に陥らうとする我々の心に光を與へ、普く同胞に革新の原動力を與へるとするならば、背命の所業は寧ろ缺くべからずと思ふに到つたのである。」

 この遺稿集が編集されたのは昭和8年。全国から応募者があったという。その後、この10センチもある遺稿集をより精選して出版されたのが「名も無き民のこころ」である。これは戦後も版を重ね、読み継がれてきた。自分も戦前の版のものと昭和40年代に出版されたもの2冊を持っている。

 最近、ふとしたことをきっかけに、漫然と調べていたら、何と、最近「日米不戦論」という著書が復刊されたいたのに驚いた。博士は過去の人ではなく、今現在もなお、読み継がれ、また伝えようとする人々がいるのだということに感銘を受けた。

 そして調べてみると、「河村幹雄全集」が刊行されたことを知った。第一巻のみであるが奥付を見ると昭和20年6月20日に4000部第一版が出版されている。髪質も装丁も「遺稿集」に比べて遥かに劣るのは、戦争末期のわが国の状況を反映したものと思われ痛ましい。全4巻で計画されていたらしいが、2~4巻が見当たらないのは、やはり敗戦後の混乱期に、この試みが放擲されてしまったということなのだろうか、と推測するの他はない。もしそうだとするならば、きわめて残念なことであり、敗戦という政治軍事上の一時がもたらした、人文への痛手のひとつだと思わないわけにいかない。

 るる述べてきたのだが、本当は、次の一文を紹介したいが為に書き始めたものであった。これは、復刊した「日米不戦論」には掲載されていないらしい。女子教育にも心を砕いた博士の、女性教育論であり、今もなおまったく古びていない、貴重な一文であると思われるのだ。大正から昭和にかけての世相と、現在の世相がよく似ているということを思わないわけにいかない。それは、その頃にも「女権拡張論者」の耳障りな掛け声が世間を騒がしていたという一事のことをさしていうのである。今の世にないのは、博士のように、全人格を持って国民全体に感化を及ぼすような碩学の存在である。せめて、博士の言葉を、人として生きる道のよすがとして、紹介したいと思うのである。

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2006年1月 7日 (土)

「こころ」「ことば」「こと」

昨年、このブログを立ち上げてから折々に拙い雑文を書いてきました。
雑文はいくら書いても雑文の域を出ません。スケッチ的な思いつきばかりで、中途半端なものばかりですが、その時々の思いつきも、何かの種として保存することは、必ずしも無意味なことばかりではないと思い、続けていきたいと思います。

なるべく触れずにおきたいと思っていた時事的な問題への感想や意見なども継続して書いてみたいと思います。

「徒然草」百五十七段には次のように書かれています。

筆を執れば物書かれ、楽器を取れば音をたてんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、骰子(サイ)を取れば攤(だ)うたん事を思ふ。心は必ず事に触れて来る。かりにも不善の戯れをなすべからず

この「心は必ず事に触れて来る」の一言は、実に含蓄のある言葉だと思います。心は形がありませんが、事に触れて形を現す、ということですが、その触れる事により、心もまた影響を受けるということです。

心と言葉と事の関係は、「こころ」「ことば」「こと」という音にもあるように深い結びつきがありますが、兼好法師はここで「心」と「事」の関係について述べているわけです。

人は自分が生きている時代から自由ではない。日々生まれてくる「事」が、自らの「心」に影響を与え、「言葉」によって表されていく。そしてまた「言葉」が「心」に影響を与えて、次なる「事」が生まれてくる。人が人として生きている限り、その時代を無視して生きることが出来ないことはあまりにも明白な事実であるにも関わらず、なかなかそれに気付こうとしないものなのでしょう。

しかしまた、人は「言葉」によって、時代の制約を超えて、「現在」を見ることも可能になります。日々生じる「事」を、「言葉」によって把握するとき、その「言葉」は、時代を写すとともに、時代を超えたものでもあるからです。時代を超えて、先人の言葉に触れ、それにより現代を見ることが出来る。人の「心」は常に全歴史を抱くことが可能なのだと思われます。

いわゆる「反時代的考察」などというものも、この「言葉」の本質的な働きなくしては不可能なのでしょう。

今年も、「こころ」「ことば」「こと」の3つをキーワードとして、手探りを続けて参りたいと存じます。

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2005年11月24日 (木)

「言葉がなければ思考も記憶もない」

最近読んだ本から・・・

以下、要約して引用。

1801年、南フランスで狼に育てられていた少年が発見された。救出された当時およそ12歳位だったという。あり医師が育てたが、当初、精神の発達が著しく遅れ、医療、教育はほとんど不可能であったという。その姿は、背中が丸くなって、髪は伸び放題、野原を走り回る様子は、髪の長い事を除けば、ほとんど他の狼と区別できないような様子であったという。

その医師は、その後6年にわたって、この野生児の詳細な記録をつけた。

それによると、同じ年齢の普通の子供のようにはならなかったが、感覚機能や社会性は著しく発達し、知的な面でも、基本的概念や文字の学習は身についた。音声言語は使えるようにはならなかったが、文字が書けるのでコミュニケーションを図ることは可能である。

世界中から、動物学者、心理学者が駆けつけ、野生児に「狼時代」の話を聞きだそうとしたという。

「狼のお母さんは優しかったですか」「狼の兄弟たちとは仲良くできましたか」「たまには、けんかもしましたか」「どんな物を食べていたのですか」「何が一番おいしかったのですか」

ところが、この「狼少年」は、何一つ覚えてはいなかった。

いや、記憶がまったくなかったわけではない。ごく僅かなことを彼は記憶していた。だが調べてみると、それは彼が人間に保護された後、僅かながら文字言語を覚え始めた時期からであったという。

記憶でさえ言語によって媒介されている。言葉がなければ記憶さえない。

この事実に、学者たちは驚嘆すると共に、言語の持つ驚くべき力に大きな感銘を受けた。

引用以上。

狼少年、狼少女の実例は世界で何例か報告されている。古代でも、ローマ建国の父、ロムルスとレムルスも母狼に育てられたという伝説は有名である。

言語を習得するまで、人間は動物と何ら変わらない存在なのである。言語を習得するにつれて、人間は、人間になっていくのだ。

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2005年3月 9日 (水)

英語の勉強をはじめて思うこと

TOEICの試験を受けます。
英語は昔から苦手で、大学受験の時も、英語が大きなネックになりました。
苦手意識が先に立って、コンプレックスみたいになっていました。

最近、物を考える上でも、とにかく英語の論文や資料などを読んで情報を取ることが出来たらどれほど世界が広がるだろうか、ということをつくづく思うようになりました。

それで、昨年末からぼちぼち英語の勉強を始めました。直接のきっかけは、シュリーマンの「古代への情熱」を読んだことでした。この語学の天才の熱気に中てられたような感じです。

とにかく、今の自分の英語力を試すのには、TOEICが一番いいということで、受けることに致しました。3月27日に開催される分です。730点以上が海外勤務条件というような基準もあるようですが、恐らく、僕の今の実力は200点〜300点取れればいい方だろうと思います。とにかく先ずは500点クリアを目指し、ゆくゆくは800点台をきちっと取れるようになりたいと思っております。

英語をやるということは、一つにはものを考える別の視点が欲しいということもありました。これは、晴山さんという方が述べていたことでもありますが、考える道具としての英語、という受け止め方です。例えば、論語にしても、英語の翻訳で読むと、漢文の書き下し文やその現代語訳とはまた一味違った感じがあるということに気付かされるということです。恐らくは、様々な言語で、少しづつ違った見え方があるのだろうと思われます。

それらも全て国語力を高めるために収斂させて行くことによって、明治に正岡子規が短歌革新をやった基本的な動機である、国語の力を高める、という目的にもつながってくるのだと思います。

勿論、子規のように、その後の国語の展開に基本的なインパクトを与えた偉大な先人に自らをなぞらえるような不遜は犯すことは出来ませんが、子規の志は、国語を愛し、国語の生命力を信じ、その中に生きる全ての人々が等しく持ち合っているものであってもおかしくはないと思い、その驥尾に付して、志だけは持ち続けたいと思う次第です。

ここで、「国語」と言った場合には、Mother Tange という意味で、母国語の事を指します。日本人の母国語は当然のことながら日本語ですが、「日本語」という外から見た形で形容するのは、客観的なようでその実、最も大切な「内なる感覚」を喪ってしまうのではないかと思われ、「国語」という、その言葉の中に生きるものにのみ許された言葉を使いたいと思うわけです。

今、義務教育の学校において、「国語」ではなく「日本語」と表記していることが判明して問題になったことがあります。単なる言い方の違いではないように思います。大学においても、かつては「国文学科」であったものが「日本文学科」となったりしているようです。「国文学」と言った場合には近代以前のもののみをさすようなニュアンスを持ったりするようです。確かに、外国人による日本語の作品が増えつつある中、必ずしも日本語を母国語としない人の文学が日本文学の世界に入ってきているのかも知れません。しかし、その大部分は直接日本語で書かれたというよりもまだまだ翻訳されたものであることが多いように思います。翻訳されたものであっても例えばラフカディホ・ハーンのように既に明治日本の文学を語る上で独特な地位を占めている人もあります。現代でも例えばC・W・ニコル氏は「勇魚」などの作品で日本人を主人公にした大作を著しています。そういうことをひっくるめて考えても、やはり現代文学も含め「国文学」というべきではないかと思います。そう呼べるのは、日本語を母国語とする国民だけなのですから。

これは、発展させれば「国家論」につながっていきます。先年、若くして亡くなられた碩学、坂本多加雄氏は、「国家学のすすめ」において「国家とは、ともすれば想定されているように、私たちの「外側」にあるものではなく、私たちの「内側」に「実在」するものだということである」と、指摘しています。晩年の乃木大将が、学習院の生徒たちに対して、「日本の国はどこにあるか」と質問したときに、色々な答えがあるのを聞いた後、「日本の国は心の中にあるのだよ」と諭されたというエピソードがありますが、「国家」を考える上で、忘れてはならない視点が、この「内なる国家」というものであると思われます。

「国語」もその通りで、自らのうちにあるものとして、つまり生命としての言葉を実感するとき、そこに「国語の生命」というものもまた発現するのではないか、そう思われてなりません。

符牒としての言葉というものは確かにあると思われますが、生命としての言葉というものがその根底になければ、言葉そのものに対する信頼というものも持つことは出来ないのではなかろうかと思われます。このセオリーは、普遍的なものとして論ずることも可能でしょう。キリスト教圏においては、ヨハネによる福音書の冒頭に「始めに言葉あり、言葉は神なりき、よろずのものこれによりてなり、これによらでなるものなし、これに命あり、これは人の光なりき」とあることによっても確認できるでしょう。イエスは「口より入るものは、あなた方を汚すことはできません。口から出るもの(即ち言葉)が、あなた方を汚すのです」と述べました。イスラム教においては、聖典であるコーラン(クラーン)は、アラビア語のもののみが本物であり、各国語訳は参考書に過ぎないことを明確にしています。これも、アッラーの言葉がアラビア語で書かれたそのことによるわけで、翻訳では神の真意は伝わらないということなのでしょう。仏教でも、その例を挙げることは難しくないでしょう。

つらつらと書いてしまいましたが、要するに今、日本人自身の国語の力が大変衰弱していると感じているわけです。

それに反して、英語は国際語として、隆盛を極めています。勿論、他の国際語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、(ロシア語)、(中国語)などの世界も厳然として存在します。
それらの言葉に匹敵する力を秘めていると思われます。日本語はその連続性、その受容性など極めて柔軟で生命力に富んだ言語であると思うのです。そして、そこには偉大な価値が秘められていると思うのです。韓国人の呉善花氏は、日本文化を巡る評論活動で活躍されていますが、彼女は直接日本語で示唆に富んだ論文を次々と生み出しています。「日本の文化はアジアとも違うし、欧米とも違う。独特な要素を抱えていて、日本はそこに根を持って一個の自立した文明を展開してきた国」であるという指摘をされていますが、ハンチントンの「文明の衝突」の中でも、日本文明は、西欧文明や中国文明などと対等の独立した一個の文明として論じられており、ある意味、日本人自身が一番日本文明の独自性や特性について無自覚なのかもしれないわけです。

日本文明の核にあるものは言葉であると思われます。その意味でも、国語の生命力を回復せしめることが大きな意義があると思うのです。
そのためにも、他言語、特に世界を席捲している英語というものを知ることは必要であり、また不可欠なことのように思われるのです。

単なる英語の勉強を始めた程度で、何を大げさな、と、10人いれば10人からの非難の声が聞こえてきそうです。
しかし、決して単に与太を述べたつもりはありません。僕という存在の小さなチャレンジについては憫笑して頂き、しかし、国語の生命力の回復という問題提起については、どこか心の隅においておいて頂きたいと思う次第です。

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