日本のこころ

2011年7月20日 (水)

黙祷のたびに

なでしこジャパンが米チームを下して優勝した。

東日本大震災の被災者に勇気を与えたいと頑張ったやまとなでしこたちに、心からおめでとうを言いたい。


それにしても、あの大震災の日から、犠牲者の方々に黙祷を捧げる機会が何度もある。


そのたびに、大変強い霊力というのか、合掌をすれば指先に、また眉間の間に、電気の走るような感じを受けるのである。


戦後初めて万の単位で犠牲が出たこの大災害は、深いところで日本人の心を揺さぶっている。


犠牲になられた方々の御霊は、この国の有様をどのように見ておられるのだろうか。


日常があっという間に押し流されてしまう。ありうべき明日がもうない。このことを飲み下すことは、できない。


それでも、後ろを振り向いたら前に進めないと、今、とにかく前に進もうとしているのが、被災者の方々であるし、心を同じくする日本人である。


柳田国男が示した、この国における死者の魂の行方についてであるが、この国の死者は、この国にとどまって、草葉の陰から、子孫を見守っている。


亡くなった方々の御霊は、生き残った家族のもとに帰ってきて、見守っているのである。そしてそれは今の日本全体を見守っておられるのだと感じる。黙祷のたびに感じる強い霊的な磁場は、その証ではないのか。


この国に、何度でも生まれ変わってきたい。それが、この国人の切なる願いである。


古く長い民族の伝統。死者とともなる生。それを見失っていた時代が劇的に終わったのだと思う。

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2010年11月21日 (日)

三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼40年の秋を迎へて

    辞世                      三島由紀夫

 ますらをが たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾年耐へて 今日の初霜

 散るを嫌ふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

                             森田必勝
 今日にかけて かねて誓ひし わが胸の 思ひを知るは 野分のみかは


 毎年、11月25日を迎へるたびに、この両烈士の辞世が浮かんでくる。そして、戦後日本の欺瞞と偽善を刺し貫き、憲法に体をぶつけて死んだ両烈士の、悲しい孤独な思ひを、噛み締めるのである。


 檄文を、幾度繰り返して拝読したか分からない。40年といふ歳月は決してその死を色褪せさせていない。


 ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを

 三井甲之先生は歌い上げた。この歌は挽歌であったが、時代を替えて、両烈士を悼む言葉にも聴こへる。

 しかし、三島さんの自決は、本当に孤独なものだったように感じる。

 森田さんという若人が、共に決起して自決したこと。忘れてはならない犠牲だと思ふ。


 

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2010年11月11日 (木)

胸迫る、止むに已まれぬ思い ~海上保安庁第5管区の保安官~

かくすれば かくなるものと 知りながら 止むにやまれぬ 大和魂

 尖閣海域における中国漁船による領海侵犯・体当たり事件についての記録ビデオが、政府がひた隠しにしようとする中、真相を国民に知らせるために敢えて公開した人物が明らかになった。

 その人物は、海上保安庁第5管区保安官であった。その思いつめた行動、その胸中が思われ、表記の歌が浮かんできた。吉田松陰先生が、下田からペリーの黒船に乗り込もうとして失敗し、幕府に捕えられた時に詠んだ歌である。

 海上保安庁に「止むに已まれぬ大和魂」が生きていて、海の守りについておられることが判り、感動した。

 責任逃れに終始し、本来厳正に法に基づいて処分すべき中国漁船船長は保釈し、自らの不始末を覆い隠すため真実を証明するビデオの公開を渋り、ごまかしと糊塗の思惑が破られると怒りに駆られて事の本質をすり替えようとする、どぶねずみのような顔をした官房長官の醜悪極まりない面貌を思うと、この一保安官の存在の潔さが余計に印象深く感じられるのである。


 本来国民が共有し、国際社会に対して訴えるべき証拠である、日本の正当性を映した記録ビデオを政治権力によって隠蔽しようとした菅・仙石政権の情報操作・隠蔽工作こそが問題なのである。余りにもお粗末極まりなく、かつまた誠意のかけらも感じさせない国会答弁が、「権力を握れば独裁政権と同じである」という、誤った認識に基づく政権運営の本質を垣間見せたものである。その雰囲気は、中国共産党や北朝鮮といった独裁国家に瓜二つであり、情報統制をして国民を分断し、国家をほしいままにする、許されざる存在である。

 国家公務員法の守秘義務違反だという。

 だとするならば、自治労が年金問題の内部資料をリークして、民主党の国会議員に質問させたことは守秘義務違反ではなかったのか。あの内部情報のリークの「犯人」を追及して「真相究明」を、民主党はしたのか。してはいまい。

 自治労は、自ら犯した犯罪的な年金事務の不祥事を逆手に取って、政権を追及する道具とした。

 そして、それによって自治労は民主党に政権を取らせる道筋の少なくとも一つの柱は提供したのである。


 内容は全く違うが、内部情報を漏らしたという点では同じである。最も違うのは、志である。


 自治労の情報リークは、民主党の政権奪取のために利用するという「私心」のためであり、その内容は自分たちが犯してきた恥部なのである。最低最悪のやり方だと思われる。


 方や、海上保安庁保安官一個人の、記録ビデオの公開は、「公心」であり「義」のためであった。真相がうやむやになれば、国民の生命・財産の安全を守るための活動に著しい支障がきたす可能性が高い。何より、領海侵犯・違法操業を繰り返す中国漁船の存在と、海上保安庁の巡視船に体当たりという明白な攻撃行為を行ってきたことは、広く国民が知らなければならない情報であったということ。正に「義を見てせざれば勇なきなり」を地で行く行為であった。


 幕末維新の歴史において、幕府の法に触れて捕えられた志士たちは数多く存在した。

 しかし、幕府の非道に対して抗議し、日本が進むべき道を指し示して、行動していった志士たちが存在したからこそ、日本は欧米列強に蚕食されずに独立を守り抜くことが出来たのである。

 現政権は、幕府よりも粗悪なもののように感じられる。井伊大老は桜田門外で切られたが、井伊自身は国学を収めた人物でもあり、国を思う心を持っていたことは間違いない。今の菅・仙石は、国を思う心自体が感じられない。

 止むぬやまれぬ行動に出た、海上保安庁第5管区の保安官の方は、軽微とはいえ国法に触れる行為をした以上、処分はやむを得ないかもしれない。しかしながら、その処分のありようは、先の自治労の連中が自らの私利私益の為に情報漏洩をしたことに対するものとの整合性がなければならない。

 そしてまた、厳格に法の手続きを執行するのであれば、一方において、処分保留のまま保釈した中国漁船の船長の処分を明確にし、厳正に法に則って処断するプロセスに入ることを明確にした上ですべきことは当然のことである。

 それが出来ないなら、さっさと辞めてしまえ。

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2010年11月 2日 (火)

森を破壊した戦後日本

今日の、森の話しをきいた。戦後日本の森林破壊が動物たちの生きる現場を奪ってしまったこと、その結果里に下りてきた動物たちを殺していること、「生命尊重」を至上価値としてきた戦後の時代の逆説的な光景には唖然とさせられます。

森のことで思いつくことは、終戦までは、帝室林野局が深山奥山は管轄していました。

その時代に、森の動物が餓えて里に下りてきて殺されるというようなことはなかったわけですね。

ところが、終戦後、GHQの皇室財産解体の流の中で、廃止され農林省に移管されます。

その時、昭和天皇は次の御製を詠まれています。

「伐(こ)りて世に 出だしはすれど 美しく 守れ森をば 村の長たち」

皇室から切り離されて、森林を含む国土は荒廃に向かった、という感じがしてなりません。
深山幽谷は誰のものでもなく、強いて言えば天皇の土地とされていました。天皇の土地であったとき、森は守られていた、というように思われます。

戦後の林野行政は失敗だったと、国土を荒廃させてしまったと、9割以上の林野庁の役人は認識しているといっ
ていました。ところが、公式には認めていないそうです。

なぜなら、責任追及が怖いからです。

誰も責任を取りたくない。役人も、政治家も、マスコミも。

そして、国民も。

その付けは、国民自身に帰ってくるわけです。

今度こともあろうに総理大臣に就任予定の(まだ親任式をおえていないようなので「予定」としておきます)菅という政治家は、さらに森林を荒廃させる政策にゴーサインを出しているということです。

脱官僚政治、政治主導、政官業の癒着からの脱却、色々なフレーズがありますが、非常に虚しく響きます。

「環境を守れ」と叫ぶその拳を振り上げる姿は、やがて環境を絞め殺す方向に向かってしまった、という感じが致します。政治スローガンがいかに虚しいものか。

日本熊森協会の活動に心から声援を送ります。(勿論、声だけではいけません!小さな実践をはじめよう!)

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2009年9月10日 (木)

「祈り 美智子皇后」 宮原安春著 文春文庫

 読了して、感動が胸に湛えられるのを感じる。胸が一杯という状態である。

 「人間 皇后」にこだわったと言うが、もしそうであるなら、「人間」とは何と言う崇高な存在足り得るのだろうか、という感慨が湧いてくる。

 神か人間か、というような俗耳に入りやすい対立項ではなく、人間の極みとしての神々しさとでもいうものを、皇后陛下のお姿を通して感じ取ることができるのである。「人間」というありのままの姿を伝えようとした結果がこれなのだから、誰も文句のつけようがないだろう。

 明治、大正、昭和、そして平成の皇室の変遷は、時代の相の移り変わりに沿ってその様相は変わっても本質に流れるものは一貫しているのだと思われる。

 皇后陛下は、恐らく当代一流の知識人であり芸術家であり歌人でもある。そして平成の天皇陛下の第一の臣下である。 皇室と国民の架け橋であり、日本の母である。

 「全てがそのあるべき姿にあるようにと祈り続けること」

 皇室の役割をこのように表現される皇后陛下。

 「常に国民の関心の対象になっているというよりも、国の大切な折々にこの国に皇室があってよかった、と、国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたい」

 皇室のあり方をこのように表現される皇后陛下。

 読後感を表現しようとしても、うまく言葉にならない。

 今の日本にとって、奇跡のような存在、それが 美智子皇后である。

 125代連綿と伝えられてきた天皇の御位。天皇陛下を最もお傍で支えられ、また陛下の大御心が国民に伝わるように祈り続ける存在。

 どうもうまく言葉にならない。

 皇室について、まったく知らないことだらけなのだと、改めて思った。

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しばらく前に書いたものを、アップしてみました。

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天皇陛下御即位二十年奉祝記念写真パネル展示会の開催 広島

天皇陛下御即位20年奉祝広島県委員会が開催した

「両陛下 写真パネル展示会」 平成21年8月24日~26日 の様子が、YOU TUBE にアップされていた。

広島県下の全部の市町で巡回していくということなので、是非ご覧頂きたいものだ。



スクリーンに大写しになっている映画も上映されている。

今は、神石高原町と府中町で開催中  (~13日(日))とのこと、来週は、庄原市と海田町。

スケジュールは、奉祝委員会のHPでお知らせしている。

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2009年8月18日 (火)

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その3

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その3

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2009年8月17日 (月)

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その2

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その2


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8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その1

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その1

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2009年8月13日 (木)

お盆 ~祖霊との邂逅~

 地獄の釜の開く日、というイメージはともかく、祖霊が家に戻ってくるという信仰、というよりも生活実感は、おそらくは日本民族始まって以来のことなのだろうと思う。

 祖霊との一体感が、日本民族を日本民族たらしめている核心であると思われる。新興宗教でも、拝み屋でも、祖霊にまつわる教義のないところはないといっていいだろう。そして、確かに、祖霊は子孫を見守っているのである。

 正月も、春秋のお彼岸も、祖霊が家に帰るお祭りだった。

 祖先を通じて神に通ずる、という観念は、決して一朝一夕の思いつきではない。

 親が子を思う情、子が親を慕う情がまず基本にあって、縦のつながりの中で、最も始原的なところ、生命の源泉、つまりは神なるものへつながっていくのだ。

 このような信仰を保持する日本民族には、西洋的な意味での個人主義は決して根付かない、というよりも無理やり根付かせようとすれば生き方に歪みが生じ、社会的な混乱が派生するだろう。戦後、教育でやってきたことはまさにこれであり、昭和までは考えられないような事件が多発する背景にも、こうした宗教レベルの問題があるのだと思われる。

 祖霊と一体という観念は、すべてのものから切り離された単位としての「個」というものの存立を考えることはできない。自分は自分一人で生きているのではない、ということがごく自然に受容される社会が日本の社会であった。おかげさま、世間、人間、人は、人と人の間にあってはじめて人足り得ているということをごく自然に受容していたのである。

 西洋的な意味での個人主義はその前提に、全知全能の絶対神が想定されなければならない。神と人とが直接交わりその間に何の介在も許さないのが個人主義の前提である。これは極めて純粋な信仰のあり方だと思う。神と人とが直接交流するという信仰は大きなバックボーンを形成するであろう。

 これは、丁度、日蓮宗的な、法華経信者にも通じるような強さがあるように思われる。

 しかしまた、すべては弥陀の本願にすがるとする、浄土真宗的なあり方にも通じるように思われる。

 
 宗教とは何か。


 人間とは何か。


 今、生きている自分とは、何か。

 父と母がいて、自分がある、ということ。


 父母未生以前の自己、という禅の公案のような、


 ほろほろと 山鳥の啼く 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ

 という、奈良の大仏建立に力のあった行基菩薩の歌のような、はるかなかなしさをかみしめてみることは、悪くないと思う。


 ほんの数代前でさえ、顔さえ知らない方々がいて、自分がいる。直近の祖先である父と母がいて、自分がいる。


 もとは他人同士である妻と自分がいて、子供がいる。


 いのちのつながりの不思議さに思いをいたして、祖霊を迎える。


 目に見えぬ 神の心に 通ふこそ 人のまことの はじめなりけれ (明治天皇)


 人は死んでも死なぬ。魂は永遠に生きとおして、輪廻転生を繰り返し無限向上の道を歩んでいくのである。


 そう観念した方が、よりよく生きられるのならば、そう信じることに何の不都合があろうか。


 祖霊とのつながりの中で、しみじみとした情の世界を体感できるなら、祖霊との邂逅を信じることに、何の不合理があろうか。

 唯物論が人間を不幸にするゆえんは、こうした信仰を破壊するからに他らなない。


 現代日本に蔓延する、「目に見えるものしか信じない」、物神論=唯物論は、「目に見えない祖霊」を感じる心を麻痺させ、しみじみとした情感や、愛情さえも無価値なものとして打ち捨ててしまう。

 快楽はあふれかえっても幸福は遠く、腹は満たされても心はもとより空虚である。渇いた咽喉をアルコールで潤せば、ますます渇きは深まり、その空虚さを、薬物で満たそうとすれば、待っているものは破滅でしかない。

 すべては、唯物論のなせる業である。共産主義にも資本主義にも共通するこの唯物論を打破し、目に見えないものを大切にする価値観を取り戻すこと、お盆を迎えて、目に見えない祖霊と静かに心のうちで対話をしつつ、議論ではなく、実感として取り戻していければ、それこそが日本の再生につながるのだと思う。


 できちゃった結婚が多くなっているという。覚悟のない結婚が増えているともいえるのかもしれない。「ご先祖様になる」という覚悟。いのちの縦のつながりをしみじみと感じていたら、そう簡単に快楽追及ばかりをこととすることもできないだろう。生まれてくる命への責任も、単なる二人だけのものでないということを、感じとることができるだろう。

 酒井法子さんのことが、大きく報じられているが、背後にある荒漠たる戦後の日本の精神の風景に思いを致すことがなければ、これもまた一つのエピソードとされ、次々と同じことが更に深刻な形で繰り返されるばかりとなるだろう。これはひとつの業である。

 

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