地獄の釜の開く日、というイメージはともかく、祖霊が家に戻ってくるという信仰、というよりも生活実感は、おそらくは日本民族始まって以来のことなのだろうと思う。
祖霊との一体感が、日本民族を日本民族たらしめている核心であると思われる。新興宗教でも、拝み屋でも、祖霊にまつわる教義のないところはないといっていいだろう。そして、確かに、祖霊は子孫を見守っているのである。
正月も、春秋のお彼岸も、祖霊が家に帰るお祭りだった。
祖先を通じて神に通ずる、という観念は、決して一朝一夕の思いつきではない。
親が子を思う情、子が親を慕う情がまず基本にあって、縦のつながりの中で、最も始原的なところ、生命の源泉、つまりは神なるものへつながっていくのだ。
このような信仰を保持する日本民族には、西洋的な意味での個人主義は決して根付かない、というよりも無理やり根付かせようとすれば生き方に歪みが生じ、社会的な混乱が派生するだろう。戦後、教育でやってきたことはまさにこれであり、昭和までは考えられないような事件が多発する背景にも、こうした宗教レベルの問題があるのだと思われる。
祖霊と一体という観念は、すべてのものから切り離された単位としての「個」というものの存立を考えることはできない。自分は自分一人で生きているのではない、ということがごく自然に受容される社会が日本の社会であった。おかげさま、世間、人間、人は、人と人の間にあってはじめて人足り得ているということをごく自然に受容していたのである。
西洋的な意味での個人主義はその前提に、全知全能の絶対神が想定されなければならない。神と人とが直接交わりその間に何の介在も許さないのが個人主義の前提である。これは極めて純粋な信仰のあり方だと思う。神と人とが直接交流するという信仰は大きなバックボーンを形成するであろう。
これは、丁度、日蓮宗的な、法華経信者にも通じるような強さがあるように思われる。
しかしまた、すべては弥陀の本願にすがるとする、浄土真宗的なあり方にも通じるように思われる。
宗教とは何か。
人間とは何か。
今、生きている自分とは、何か。
父と母がいて、自分がある、ということ。
父母未生以前の自己、という禅の公案のような、
ほろほろと 山鳥の啼く 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ
という、奈良の大仏建立に力のあった行基菩薩の歌のような、はるかなかなしさをかみしめてみることは、悪くないと思う。
ほんの数代前でさえ、顔さえ知らない方々がいて、自分がいる。直近の祖先である父と母がいて、自分がいる。
もとは他人同士である妻と自分がいて、子供がいる。
いのちのつながりの不思議さに思いをいたして、祖霊を迎える。
目に見えぬ 神の心に 通ふこそ 人のまことの はじめなりけれ (明治天皇)
人は死んでも死なぬ。魂は永遠に生きとおして、輪廻転生を繰り返し無限向上の道を歩んでいくのである。
そう観念した方が、よりよく生きられるのならば、そう信じることに何の不都合があろうか。
祖霊とのつながりの中で、しみじみとした情の世界を体感できるなら、祖霊との邂逅を信じることに、何の不合理があろうか。
唯物論が人間を不幸にするゆえんは、こうした信仰を破壊するからに他らなない。
現代日本に蔓延する、「目に見えるものしか信じない」、物神論=唯物論は、「目に見えない祖霊」を感じる心を麻痺させ、しみじみとした情感や、愛情さえも無価値なものとして打ち捨ててしまう。
快楽はあふれかえっても幸福は遠く、腹は満たされても心はもとより空虚である。渇いた咽喉をアルコールで潤せば、ますます渇きは深まり、その空虚さを、薬物で満たそうとすれば、待っているものは破滅でしかない。
すべては、唯物論のなせる業である。共産主義にも資本主義にも共通するこの唯物論を打破し、目に見えないものを大切にする価値観を取り戻すこと、お盆を迎えて、目に見えない祖霊と静かに心のうちで対話をしつつ、議論ではなく、実感として取り戻していければ、それこそが日本の再生につながるのだと思う。
できちゃった結婚が多くなっているという。覚悟のない結婚が増えているともいえるのかもしれない。「ご先祖様になる」という覚悟。いのちの縦のつながりをしみじみと感じていたら、そう簡単に快楽追及ばかりをこととすることもできないだろう。生まれてくる命への責任も、単なる二人だけのものでないということを、感じとることができるだろう。
酒井法子さんのことが、大きく報じられているが、背後にある荒漠たる戦後の日本の精神の風景に思いを致すことがなければ、これもまた一つのエピソードとされ、次々と同じことが更に深刻な形で繰り返されるばかりとなるだろう。これはひとつの業である。
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