以前、この問題についてまとめてみようと思って書いたメモの一部です。考えが熟すこともないようなので、アップしてみます。大方のご批判を賜れば幸い。
性に関する論考1
遊女幻想
現代日本社会の病理の根源
日本において、性は歴史的、文化的にいかなる地位を占めてきたのであろうか。日本の歴史は社会史的に見て、幾つかの大きな転換期がある。第一は神話的古代社会から中国文明の影響を受け入れた律令国家への変換。次には律令制の崩壊・変容が進行したいわゆる平安末期から足利後期にいたる中世。そして戦国・安土桃山時代を経て迎える近世。そして幕末維新を経た近代、そして敗戦から今に至る現代である。
こうした流れの中で、性がどのように扱われてきたのかは、日本人がどのような性愛観念を抱いてきたのかという問題でもある。
女性差別をなくすという、ひとつの政治的な運動の視点から、女性差別の淵源を、売春という、性を鬻ぐ女たちの存在が、社会的・文化的に強制されたという、前提を立てて、批判的に見ていくというやり方がなされていった場合、それは歪められずにありのままの姿を現すことになるのだろうか。
現在の問題から考えを起こして行きたいと思うのだが、殆ど性交奨励教育と化している現在の過激性教育の問題は、いわば、ウーマンリブ運動による女性解放の極北として捉えられる。
野放図と化した性の氾濫の中で、性被害にあわないためにという予防的な措置であると主張されながら、それが却って性への意識づけになるということにつながっている。
鶏と卵の論になりそうだが、ことはそう簡単ではない。
単純に、あるいは善意によって、性教育を推進しなければならないと信じている知識階級の女性は多いやに見受けられる。
しかし、極めて近視眼的な対処療法的性教育がなされることによって、それが必要となる性の氾濫が一層加速化されるという事態が引き起こされる。これを単に悪循環と言えるだろうか。
性教育をしなければ、望まない妊娠や、性病罹患という最悪の結果が子供たちにもたらされると主張する。
では、一律になされる性教育は、性の氾濫という現実を前提としてなされることによって、一層その前提とされた性の氾濫という事態を普遍化するのに役立つということになるのである。
性は極めて根源的な人間の営みであり、それぞれの文化の中でさまざまに捉えられている。
女性差別が、売春という、性を売り物にするところから発すると考えた場合、売春を「悪」として捉えることになる。確かに売春が道徳的に「善」として捉えられたことはなかったかもしれない。
売春は、人類の発生と共に生まれた職業である、といわれるほど根源的な営みである。ここで食い物にされているのは、果たして女なのか。あるいは、なけなしの金を一夜の情交によって巻き上げられる男なのか。
売春婦は、社会的に底辺の身分とされたことは間違いないが、そうとばかりも言い切れないことは、社交界において上流階級へのステップになることも有り得たケースが洋の東西を問わず、実に多くの例があることからも知られる。
ことはそれほど単純には行かない。
人間にとって、性の営みとは一体どのような意味を持つものであろうか。
それは大きく二つに分けられる。一つは子孫を残すための営みである。もう一つはそれによって得られる快楽を得るための営みである。
快楽とは何か。身体と分かち難いこの人間にとっての根本的な属性は、性行為によってのみ得られるものと、それ以外のものとがあるかもしれない。
人間の基本的な本能は性欲、食欲、睡眠欲であるとされる。
人間は食べなければ生きていけない。眠らなければ生きていけない。
また性交をしなければ、次の世代を生み出すことは出来ない。しかし、こればかりは一人では出来ないことである。
遠大なテーマである。
性は、一個人の問題であると同時に、人類全体の問題でもある。
最も私的な問題であると同時に、最も公のものである。
これに向き合うに如何にすべきなのか。
これを難問題として受け取る必要もなく、生きている人がいるならば、それはある意味羨むべき存在である。と同時に、詰まらない存在である。
これを知的に捉えようとすることには、無理があるのかもしれない。
人間の心の営みの総合力が試される場であるのかもしれない。
いや、あるいは即物的な問題であるのかもしれない。
人間同士は永遠に分かり合えないという、観念。それに耐えられずに、神というものを作り出した。
しかし、神話はそのようなものではない。
神話にある、大らかな、神々の営みこそ、人間の理想ではなかろうか。
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