心と体

2008年8月12日 (火)

戦後否定された戦前までの日本の中に、未来があったのではないか、という作業仮説

 昔から、日本民族は「胎教」を大切にしてきた。

 ところが、戦争に負けて、「胎教」など迷信だ、ということになって、欧米流の子育て論がはやった。

 子供がおかしくなってきた。

 原因はわからない。色々な議論だけがむなしく繰り返されるだけだ。母親はおろおろするばかり、果ては生まれてきた赤ちゃんを次々と殺してしまうという陰惨な事件までおきた。つい最近のことだ。

 欧米では、「胎教」が大切だと、気がついた。

 でも日本では、欧米では遅れた「科学的」な知識の毒がなかなか抜けない。

 欧米から教えてもらうまでもなく、「胎教」はずっと日本の子育ての基本だった。それでうまくいっていたのだ。

 戦前否定の思い込みが、そういう記憶を思い出す邪魔をしているのかもしれない。

 親が変われば子供が変わる。

 親と子供は、目に見えない深い絆で結ばれている。

 「愛」という絆で結ばれている。

 それを、断ち切るようなまねはしないで欲しい。

 世界でもっとも大切な宝が、昔の日本にはあった。

 それを取り戻すことが出来れば、「未来」が開けるのではないだろうか。

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2008年5月21日 (水)

生命の誕生を巡る混迷~ 300日規定/産科の受難/モンスター・ハズバンド

 戸籍がない母親が、赤ちゃんの戸籍を取れなくて困っている、という趣旨の報道があり、かなり驚いた。

300日規定:無戸籍の女性「子に同じ思いイヤ」 毎日新聞

 これは何としても解決しなければならない問題である、と思う。

 しかし、一方で、これをもって「300日規定」撤廃を推進する具にしてはならないと思う。

 「戸籍」というものの重み、これは、社会に、1人の国民として認知されることでもある。

 現代社会においてさえ、この枠組みからこぼれてしまうことが有り得るのだということは、一つの驚きでもあった。

 
 新しい生命の誕生は、常に喜ばしいことである。

 生まれたばかりの赤ちゃんを抱いてその顔を見詰めている母親の顔ほど、この世に美しいものはない、とさえ言いたい。

 この新しい命を、守り育むこと、これは本当に根源的なテーマである。

 

 生命の誕生には、男女の営みの介在が不可欠である。野生の動物ならば、本能に従って、誕生から死に到るまで、規定されているのだろう。常に夭折と隣り合わせの中で、生き延びたものが次の生命をつないでいく、その輪廻を繰り返すのだ。

 しかし人間は、「本能の壊れた動物」という規定をする学者もあるくらい、本能そのままで生きるのではなく、本能をベースとしながらも、そこから「文化」「文明」を築き上げていく知能を持っているのである。人間のみが、自分とは何者であるかを考える。そして、生きる意味ということを考える。自分の生まれてきた所以であるところの、父母を、生命の根源として尊重するのも、この自覚の働きである。それを更に演繹することによって、「先祖」という概念に行き着く。祖先崇拝という認識の誕生である。そして、生きていくためには、自然の恵みを受けなければならない。自分という存在を生かしてくれるもの、そして時にはその猛威によっていとも簡単に命を奪うもの、その自然の力、ここに自分を越えた大いなる力というものを認識しした。自然崇拝の誕生である。

 この二つの人類の始原にある認識というものが、分ちがたく絡み合いながら、最も根源的な宗教感情を育て、人間性を作り上げていったのだと、思う。その結晶として、日本においては、「神道」があるわけだ。

 
 明治期に作られた法律が、万能であるとは思われない。欧米列強に併呑されないためには、彼等の文明を一刻も早く移入する必要があったから、様々な歪も生まれたと思われる。しかし、それなくしては、自由と独立を保つことは出来なかった。また、知ったものを知らないときに戻すことは出来ない。

 己は何者であるか。

 この明瞭な問いに、明瞭にこたえることが出来なくなり、大枠だけでなく、マニュアル的に全て把握されなければどうにもならなくなっていった。

 不文法というものが、歴史の古い国には必ず存在する。

 近代化の中にあっても、それは生き続けていた。

 それを、寸断していったのが、「進歩」を標榜する人々だった。その「進歩」の達成が、多くの問題を生み出した。
 
離婚「300日」規定の苦悩 読売新聞


 この300日規定が、なぜいま問題とされるようになったのか。

 美麗字句で、「生き方が多様になったから」というのが通り相場だが、違うだろう。「生き方が崩れたからだ」

 なぜ、最も大切な配偶者選びで失敗するのか。いまや、生命体としての本性に反してまで、逃避するのか。

 頭で考えすぎた結果だ。


 <産婦人科>「モンスターハズバンド」が急増 妻に付き添い暴力・暴言


産科の受難がこれほどひどいとは思わなかった。

生命の誕生の現場は、ここまで来ているということ。


産婦人科医師不足と医療崩壊


このレポートに、深刻さを改めて実感した。


背後にあるのは、人間として生きるということの型を喪失した、つまり文化を喪失したことによる、自己破壊なのである。

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2006年4月14日 (金)

自主性尊重の美名に逃げる親たち

 この間、滅多に見ないテレビを偶々見ていた時、昨今の青少年の性の事情について、番組がやっていた。

 産婦人科医の院長先生のところに、17歳の女子高校生が相談にやってくる。20代後半の会社員という彼氏も一緒にだ。妊娠していることが分かり、親と相談してくるように言う。二度目にも彼氏と二人でやってきた。親の姿はない。親は自分のやった行動の結果なんだから、自分で責任を取りなさい。産んだ方がよい、と言ったという。しかし、産んでも育てられる自信がないと彼女は言う。当然だるう。3度目にやってきた時、堕胎することに決めたという。今度も彼氏と二人である。親の姿はない。手術の当日にも、親はやってこなかった。

 この先生は言う。「子供の自主性に任せる、という親は物分りが良いのではなく、子供から逃げているに過ぎない。」と。

 その通りだと思った。今、このような無責任な親が増えているという。

 大体、20代後半の彼氏という男性は、相手が17歳の高校生であり、もし妊娠しても産み育てることが難しいこと位分からないはずはない。女子供を守ることも出来ないこの弱弱しい男は一体何なんだと思った。昔ならば、先ず第一にこの男の責任が問われただろう。自分が親なら断じて許さない。

 ヒニンすればいい、などと安易なことを言う手合いは多い。学校の性教育もそちらの方向に向かっている。しかし、何かずれている。

 昔、岡潔博士が、女児の初潮年齢が低下する傾向があることについて、人間が獣化しているのだ、と指摘したことがある。博士が指摘した時代よりも更に低下しているし、欲望に歯止めをかける訓練さえ怠り、性の乱れなどという言葉でさえ生易しいほどの目を覆わんばかりの惨状である。

 性は神聖なものである、という考え方は嘲笑の対象でしかなく、コミュニケーションとしての性などということばが教科書にまで登場するようになっている。国を挙げて気が違っているとしか思えない。

 自主性尊重の美名。その裏で深く傷ついていく子供たち。大人の責任放棄。この悪循環。

 子供から逃げている親は、自分自身の人生にも決して真正面から向き合っていない。この延長線上に、今の悲惨な世相があるのだ。地獄への道は善意に満ち満ちている。子供たちを地獄へ突き落とすのは、善意に満ち満ちた大人たちなのだ。その偽善に隠れた冷酷な心で、それとは知らずに犯す深い深い罪が、あとどれだけ重ねられるのだろうか。 

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