書籍・雑誌

2011年8月 2日 (火)

カエサルの箴言

ローマ人の物語を、久々に読み返している。

読みやすい文章なので、頭の中のごちゃごちゃから逃れるには大変いい。

まさに物語で、小難しい理屈ではなく、RES GESTE (所行)が語られているので、描写に目方があり、心も落ち着いてくるのだ。

この間は、風呂の中で読んでいたら、誤って風呂桶の中に落としてしまい、2日間程乾かしてからまた読んだ。

カエサルというローマ人は、代表的ローマ人の筆頭に挙げられる人物であることは間違いない。

今読んでいるところはガリアでの戦いであるが、ガリア人の性情について記した言葉が紹介されている。


「人間とは噂の奴隷であり、しかもそれを、自分で望ましいと思う色をつけた形で信じてしまう」


この言葉から2000年以上が経過しているが、人間というものは、なるほど変わらないものだと思う。


だからこそ、歴史を学ぶ意味があるのだが。

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2011年1月23日 (日)

「愛国消費~欲しいのは日本文化と日本への誇り~」という本

 「下流社会」という本がベストセラーになったことがあって、その著者が三浦展という人物だ、ということも、この本を読んで知る位、あまり興味の範疇に入らない人だった。


 この本を手に取ってみたのは、「愛国消費」の愛国の文字と「景気回復の鍵は「ニッポン」だ!」という帯にある「ニッポン」の文字だと言ってしまえば、何とまあ、単純なと言われても仕方がない。


 実は、表紙を見てというのが本当のところなのだが。笑顔の女性がベンチに座っていて、その頭の上に「欲しいのは日本文化と日本への誇り」とある。


 それで、読んでみた。


 さまざまなデータや統計を駆使しての分析から積み上げていく論考は面白い。


 「日本人としてのアイデンティティや誇り」が求められる時代を今迎えているということなのだが、その過程分析はなるほどとうなづかせられる。


 高度成長期のめざせ「経済大国」という「大きな物語」の時代が終わり、「経済大国」という現実の中で、いかに一人ひとりが生きていくのかという「自分らしさ」探しの時代に移行した1970年代(昭和45年~)。そこからけっきょく「自分らしさ」というものがわからずに、マニュアル化に走っていったのが80年代(昭和55年~)。ところがマニュアル通りに生きるのはしんどいので、本当の「自分さがし」が始まったのが90年代(平成2年~)、という時代の流れを描いてみせる。


 なるほど、と思う。

 面白いな、と思った指摘は「海外高級ブランドには日本人としての「誇り」は持てない」というものだ。

 自分らしさがわからず「海外高級ブランド」を身につけることでそれを担保しようとするのだが、いくら高級ブランドを買っても誰からも「感謝されない」という問題にぶつかる。

 そして、「人は、個性化、多様化と言いながら、他方では画一化、同質化を求めているのである。特に現在のように、不況が長期化し、先行きが不透明になると、人はより画一的な格好をして、不安を解消しようとするのではないだろうか。」個性的に画一化している「流行」の格好をする人々を見ているような感じがする。たしかにどこか不安な気配が漂っている。つづいて「では、多くの日本人が安心して同一化でき、かつ自分らしさも否定しないですむものは何か。それは「日本」なのだ。ここに、「自分さがし」が「日本志向」に反転する理由がある。」との指摘は成るほどと思わせられる。

 まとめて「近年の和風傾向、日本志向的な現象が、日本人が今「日本」という大きな物語を欲しているために生まれているということ、その「日本探し」の潮流が、過去40年ほどの間の「自分探し」との関わりで生まれているということ、そして、近年のグローバリゼーションによる日本の社会、企業の流動化が、日本人にふたたび「日本」という永続的な価値、誇り、正統性を求めさせていることを述べた」としている。


「手段的」「自己拡張的」日本志向から、「自己充足的」「自己肯定的」日本志向へ、という指摘もなるほどとうなづかせられる。


 「愛国」がトレンドになる。

 今やそうした時代を迎えている。

 しかし、それは単に旧態依然としたものの復活ではない。

 日本という大きな物語と、日本人であるというアイデンティティと、自分という個性が一つに貫かれて生きることの肯定ではないだろうか。

 しかし、どうもフワフワした印象が拭えない。それは、どこかに日本を語ることへの引け目があるように思えるのだ。


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2010年12月 1日 (水)

「核がなくならない7つの理由」を斜め読み

 「核兵器の廃絶は夢物語」

 田母神元航空幕僚長が8月6日広島における講演会でも述べた言葉だ。


 「右派・保守派」とか、「右翼・保守」などと、「右翼」と「保守」を並べて書く論者が、この「核がなくならない7つの理由」の著者も含めて目に付く。外交官であり、いわゆるA級戦犯にされた東郷茂徳の孫に当たる東郷和彦氏が著した「戦後日本が失ったもの」の中でも、同様の言葉づかいがなされている。

 「左翼・リベラル」という言い方があるので、それに対地する言い方なのかも知れないが、悪意ある印象操作、という感覚を持つのである。

 時々「保守リベラル」という言い方をする人がいるので、笑ってしまうこともあるが、「保守反動」「右翼」などという言葉は明らかにある特定の印象を与えようとする意図があるであろう。

 戦前においては「革新右翼」という存在が確かにあった。

 「反資本主義」は左翼の専売特許ではなかったのである。


 さて、前置きはさておき、「核がなくならない7つの理由」の目次を紹介したい。

序章 核テロの恐怖が米国を変えた

理由1 「恐怖の均衡」は核でしかつくれない

理由2 核があれば「大物扱い」される

理由3 「核の傘」は安くて便利な安全保障

理由4 オバマに面従腹背する核大国

理由5 絶対信用できない国が「隣」にあるから

理由6 「緩い核」×「汚い爆弾」の危機が迫る

理由7 クリーン・エネルギーを隠れ蓑にした核拡散


 中々整理されていて分かりやすいものだった。

 注意しておいてよいのは、著者は「核兵器廃絶」を否定しているわけではない。しかし、「情緒的に対応しているばかりでは「核なき世界」の実現などいつまでも不可能のままだ」という認識を示している。それはアメリカにおいて「ワシントン・インサイダー」の人々にインタビューしてきた結果の実感なのである。

「核兵器は本当にこの地球上からすぐにでも無くなるものなのだろうか。恐らく、答えは否である。」

と自問自答した後に、

「では、核廃絶は人類にとって未来永劫、不可能なことなのだろうか。その答えはまだよくわからない。」

と再度自問自答している。

その上で、

「だからこそ、核廃絶の意味とその手段を今、考えなければならない」

と述べているのである。

誠実の態度であると、思う。

現在の「核廃絶」論の盛り上がりは、明らかにアメリカのオバマ大統領のプラハ演説に起因している。

「現時点で言えることはただ一つ。世界最強の核大国である米国がその気にならなければ、核廃絶はいつまでたっても夢物語に過ぎないということだ」

とする著者が、プラハ演説を「画期的な出来事」と述べるのは当然であろう。

しかし、更にその「真の理由」についても冷静に次のように述べている。

「それはもちろん、個人的な信条を実現するためでも、究極的な世界平和を達成しようという理想主義でもない。21世紀の米国が直面している現実、つまり世界的な核兵器の拡散とそれに伴う「核テロ」がもたらす脅威に対抗するためである。」

ここから話をはじめていることは、「ヒロシマ」でよく見かける「ヒバクシャ」の言説とは天と地の差があることを確認できるだろう。


ただし、あとがきで著者はこのように述べている。

「(ペリー氏にとって)日本という存在は世界における核拡散に歯止めをかけられる数少ない国の一つと映っていた。にもかかわらず、日本では忘れたころに右派・保守派から核武装論が跳梁跋扈し、一方でリベラル派からは戦略なき「核廃絶論」が唱えられるばかりで、現実的な対応姿勢を見せられないでいた。」


自国については、冷静客観的な認識が鈍るものなのだろうか。

1「右派・保守派から」

2「核武装論が」

3「跳梁跋扈し」

という言葉は、頂けないし、正確でもない。

1については、具体的にどのような括りを考えているのか分かりにくい。それらの論客がいることも確かだが、左派の中にも核武装容認論者はいる。被爆者の中にも少なくない核武装論者はいるのである。また、政治的な性向のない人々の中にも「核武装」を論じる人々はけっして少なくない。一方、自分などもその一人だが、「保守派」であっても、短絡的に「核武装すべき」とは考えていない人々もいる。安易な符牒による、安易なレッテル張りに過ぎないだろう。「理由5」で詳細に論じているにも関わらず、日本人一般の反応が、インド・パキスタンやイスラエルとの連関で捉えられていないことはこの本の持つ本質的な(つまり、日本が唯一の被爆国(という誤った認識)による特権意識)誤謬を含んでいるといえるだろう。足元の見えない議論は、砂上の楼閣ではなかろうか。

2については、例えば冒頭の田母神氏の「核武装論」と言われるものは、非核三原則の「もちこませず」を削除し、ニュークリアー・シェアリングというドイツなど欧州において現実に行われている核の傘の実効性を高める方策の提唱なのであり、それほど突飛なものとは思えない。おそらく著者は、田母神氏の議論など目を通してはいないのであろう。これは現状を大きく踏み出すものとは言えない。日本の主体性が強まるだけのことである。

3については、最早、著者が批判する「感情論」的な言葉の使い方である。跳梁跋扈しているのは、むしろ「感情的な核アレルギー」であり、むしろ日本にとって危険なのはこちらの方であるにもかかわらず、このような言葉の使い方しか出来ない著者は、その程度の認識のレベルにとどまっているといえるだろう。


そうはいっても、

「(「核なき世界」の実現を阻む多くの)それらの理由を一つづつ解き明かし、それぞれに見合った対応策を丹念に探っていかなければ、この世界から核がなくなる日は決して来ないだろう。」

という言葉はその通りである。


世界の現実は圧倒的な「不可能論」であると思われる。

米国の本音も、「核廃絶」ではなく、自国に都合のよい「核兵器削減」(リストラ)にすぎないことは著者が書いているとおりだ。「核不拡散」と「核廃絶」の間には大きな溝がある。それは、「核なき世界」と「平和な世界」の間にある深い溝よりも尚深いかもしれない。


いずれにせよ、このようなアプローチの著書が、日本人の「感情的な核アレルギー」を治すために役立つことにつながるものと期待した。

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2010年11月26日 (金)

注目記事!「実は反日運動家は全世界に1000人もいない/慌てず騒がず虚偽は否定し、後は無視しろ」

「兵は詭道なり」とは孫子の兵法の有名な言葉である。

 たった1000人足らずの反日活動分子によって、「国際世論」なるものをでっち上げられ、それに右往左往しては国益を害するという、我が国政府の体たらくを、見事に抉り出している一文である。

 とはいえ、1000人のプロの活動家が、中国の国益のために、国際社会で暗躍し、その結果、我が国政府の政策を誤らしめ、世界に向けて日本を貶める策謀が一定の成果を上げていることは、逆の立場から言えば大したものだと言う気がする。

 それに単純に乗せられているとすれば、これほどの屈辱はないだろう。

 この論文にある認識を広めていきたいものだ。

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デモに過剰反応は相手の思うつぼ。巧妙な世論操作に騙されるな

実は反日運動家は全世界に1000人もいない 慌てず騒がず虚偽は否定し、後は無視しろ (SAPIO 2010年11月10日号掲載) 2010年11月22日(月)配信

文=江崎道朗(日本会議専任研究員)

 今回もまた起こった反日運動。抗議デモも、ネットの過激な書き込みもお馴染みのパターンだが、その裏では中国政府のさまざまな思惑がある。

 今回の尖閣問題で最も活発に反日運動を展開しているのは香港を拠点とする「保釣行動委員会」である。過去に尖閣諸島に上陸しようとし、船からメンバーの1人が転落、死亡するという事故を起こした団体だ。今回は香港で大規模な抗議デモを行なった。2004年3月に尖閣諸島に上陸した、北京を拠点とする「中国民間保衛釣魚島連合会」(以下、保釣連合会)とも水面下で連携を取っている。

 保釣行動委員会は「世界抗日戦争史実維護連合会」(GA=Global Alliance for Pre-serving the History of World War 2 in Asia)の中核団体の1つ。GAとはアメリカを中心にグローバルに展開する反日ネットワークだ。

 この源流は1987年にまで遡る。日本の戦争責任を蒸し返し、改めて日本に謝罪と補償を求める中国系組織「対日索賠中華同胞会」がアメリカで結成された。

 さらに91年、南京大虐殺を広く世界に知らしめ、「日本政府から正式な謝罪と賠償を引き出すこと」を目的とした「紀念南京大屠殺受難同胞連合会」が結成された。92年にはカリフォルニアで「日本が再び不当な侵略行動を開始することを阻止するため」、過去の日本の侵略に対する国際世論の批判を高めることを目的とした「抗日戦争史実維護会」が結成される。

 いずれも華人たちによって組織されている。その後、アメリカ、カナダ、香港などで雨後の筍のように発足していった反日団体は約30にのぼり、94年にこれらの連合体としてGAは結成された。

 現在、世界で展開される反日運動、反日ロビー活動の多くにこのGAが関係している。

(以下はHPでご覧ください)

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2010年2月 6日 (土)

「ローマ人の物語」の中で、一番不気味で、心に残った言葉

 最近、思い当たることだらけなのだが、塩野七生氏の大著「ローマ人の物語」の中で、一番不気味で、心に残った言葉は、初代皇帝アウグストゥスを評した言葉だ。

●一つ一つは完全に合法でも、それを積み重ねていくと、共和制ローマからは、違法としか言いようのない、帝政となる

というものである。

 ローマ史というのは、以後の世界の歴史の中で、様々な素材を提供した歴史であるが、共和制から帝政への移行がいかになされたか、ということについても、興味深い史実を提供してくれるといえるだろう。

●人は、見たいと思う現実しか見ないもの

という言葉も、至言であろう。


さて、外国人地方参政権付与法案の問題であるが、現状のままでいけば、成立してしまう可能性は高い。

何と言っても、衆議院において多数を占める政権与党の民主党の幹部が口をそろえて、今国会での提出と成立に言及しているのである。

共産党、公明党、社民党、そして自民党の一部までもが、この法案の大まかな方向性では賛成しているのであるから、もはや国会に提出されれば成立するしかないというのが数の論理であろう。

しかし、法の論理からすれば、憲法第15条違反であることは明白で、参政権という国の政治に参与する権利が、国民固有の権利であることを、真っ向から踏みにじるものであり、到底容認されるものではない。

既に、憲法学者の間において、憲法違反との認識は共通となっている。


自衛隊については、憲法9条を巡る解釈論議のタネは尽きることがないが、憲法15条については議論の余地はもはやない。


外国人地方参政権。それに、「地域主権」という言葉が加わるとどうなるか。「主権」を持った「地域」の「参政権」により、「独立」なり「日本国からの離脱」が決議されたら、一体どうなるか。


ある民主党の国会議員と、この問題について議論したとき、2つの点を主張していた。

1、地方議会の選挙は、国政とは全く関係がなく、国政への影響はない。

2、「外国人地方参政権」の問題は、日本人の「寛容」が試されている問題だ。

その人物を決して買っていないわけではなかったので、大きな失望を味わったわけだが、何れも全くの詭弁である。

地方選挙が国政選挙と全く関係ないなど、どの口が言わせるのであろうか。

本当にそう思うなら、地方選挙の応援などすべきでないし、また地方議員からの応援など絶対に受けてはならないだろう。しかし、実際にはそのどちらも当たり前になされているではないか。そしてそれは当然のことである。

「寛容」という言葉の意味を履き違えているとしか思えない。

人の失敗や我儘に対して、多少のことは大目に見る、というのは「寛容」といってよいだろう。

しかし、自分の家のことについて、あれこれと干渉する権利を与えることを「寛容」の一言で許せるとでも言うのだろうか。自分の女房を寝取られて「寛容」でいられるのだろうか。自分の家の財産を掠め取られて「寛容」で居られるというのだろうか。それはもはや「寛容」とは言わない。

国家というものに対する意識が、政治家の中にあまりにも低すぎるのではないか。


政治家だけではない、国民のなかにも、国家という意識は低い。そのつけが、「外国人参政権」という売国法案なのだが、国民の中には、皮膚感覚で、とんでもないことだという意見は根強くある。


政治家となる人間たちの資質が、余りにも利権に走りすぎていたのではないか。うんざりなのだが、それで政治離れなどということになると、もっととんでもないことになる。


庇を貸せば、母屋を乗っ取られる。


一つ一つが完全に合法であっても、それを積み重ねていくことで、非合法としかいいようの無い実態をつくりだすことが出来る。


気がついたら、日本という国が、似ても似つかない国になってしまっていた、ということになりかねない。


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2009年9月10日 (木)

「祈り 美智子皇后」 宮原安春著 文春文庫

 読了して、感動が胸に湛えられるのを感じる。胸が一杯という状態である。

 「人間 皇后」にこだわったと言うが、もしそうであるなら、「人間」とは何と言う崇高な存在足り得るのだろうか、という感慨が湧いてくる。

 神か人間か、というような俗耳に入りやすい対立項ではなく、人間の極みとしての神々しさとでもいうものを、皇后陛下のお姿を通して感じ取ることができるのである。「人間」というありのままの姿を伝えようとした結果がこれなのだから、誰も文句のつけようがないだろう。

 明治、大正、昭和、そして平成の皇室の変遷は、時代の相の移り変わりに沿ってその様相は変わっても本質に流れるものは一貫しているのだと思われる。

 皇后陛下は、恐らく当代一流の知識人であり芸術家であり歌人でもある。そして平成の天皇陛下の第一の臣下である。 皇室と国民の架け橋であり、日本の母である。

 「全てがそのあるべき姿にあるようにと祈り続けること」

 皇室の役割をこのように表現される皇后陛下。

 「常に国民の関心の対象になっているというよりも、国の大切な折々にこの国に皇室があってよかった、と、国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたい」

 皇室のあり方をこのように表現される皇后陛下。

 読後感を表現しようとしても、うまく言葉にならない。

 今の日本にとって、奇跡のような存在、それが 美智子皇后である。

 125代連綿と伝えられてきた天皇の御位。天皇陛下を最もお傍で支えられ、また陛下の大御心が国民に伝わるように祈り続ける存在。

 どうもうまく言葉にならない。

 皇室について、まったく知らないことだらけなのだと、改めて思った。

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しばらく前に書いたものを、アップしてみました。

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2009年8月18日 (火)

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その3

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その3

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2009年8月17日 (月)

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その2

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その2


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8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その1

8月6日 田母神俊雄氏講演会in広島 「ヒロシマの平和」を疑う!~広島発、真の平和メッセージ~」 その1

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2008年12月 7日 (日)

村上和雄先生の「人生の暗号」を読了

 広島駅にふたば図書の古書専門店がある。

 この間ふらったと立ち寄った際、105円コーナーで手にしたのがこの本。

 一度だけ、お目にかかったことがある。昨年のことである。

 といって、言葉を交わしたわけではない。

 ただ、半径一メートル近くにたまたま近づき、お顔を拝見したに過ぎない。

 以前から、色々と先生の話しを聞く機会があり、いつか読んでみたいと思っていた。

 それで、手にとって拝読したわけだが、一々納得できることばかりだった。

 近代社会の基盤にはダーウィンの進化論があること、生存競争が繰り返される中で生物が発展してきたとするそのモデルの行き詰まりが、現在、このままいけば世界を滅ぼしかねない様々な事象につながっている、ということはなるほどと思った。

 そして、ダーウィンの進化論を超えた、共生的進化論について、実に興味深く思えた。

 地球生命体論(ガイア仮説)もその一つだという。

 単細胞生物が、協力しあって合体し、より複雑な生命現象を展開することが出来るようになったという説は面白い。

 現代の競争が全てで、勝者と敗者が鋭く対立するような社会は、どこか間違っているのだ、というのは深く納得できることだ。

 「思いやりの心」「人のことを慮る心」など、昔はそれがなければ一人前の人間と見做されなかった事柄が、今の教育からすっぽりと抜け落ちていることに気がつかされる。

 コンピューターがはじき出したという、最後まで生き残る人間はどういう人間か、という問題に対する解答が、「他に譲る人間」というものだったという。

 日本が、建国以来二千六百年もの歴史を継続して来れたのは、正にこの「譲り合いの心」がベースにあったからではないか、と思えた。

聖徳太子の十七条憲法第十条に

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。
引用元

とある。

 聖書の言葉にも、「柔和なるもの、そのものは地を継がん」とあるが、「柔和なるもの」とは、正に人に譲る心を持つ人のことではなかろうか。

 近代以後の世界には、色々な問題が含まれているが、ダーウィンの進化論的世界観がその根にあるということは示唆的である。今流行りの「人権」問題などもその一つかもしれない。「人権」概念は、結局、人と人とが角を突き合わせるという前提から始まるように思える。ここに、東洋の「身を殺して仁を為す」などという王道精神が成立する余地はない。

 人間の遺伝子のスイッチが、ある形で一定のオン・オフ状態にあるのが、近代以後の社会のありようであり、そのスイッチの入り方が替れば世界も変わる、といえるのかもしれない。

 他者を喜ばせるところに生き甲斐がある、というフレーズで思い出したのは、熊沢蕃山の言葉である。小人の特質17か条の中に、小人は自分のことしか考えない、とある。

 昔の人は偉かった。

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