前記事に続く
広島において、市長の秋葉氏が、一民間団体の主催する講演会に対して、「日程変更要請」を行った。
それに触発されたのかどうかはわからないが、色々な団体が、同趣旨の抗議を繰り返している。
先日など、街頭で、何かに憑かれたかのように喚き散らすやや年かさの女性が映し出されていて、一種異様な、いやらしい感触があった。
さて、秋葉氏もそうだが、大体一連のこの種の人々の姿は、殆どカーボンコピーのように一様で、のっぺりとしている。
広島には、一種独特の空気がある。
異論を許さない、異様な、こわばった「言語空間」である。
「平和」と「原爆」が並ぶと、もう絶対である。
「原爆許すまじ」といいながら、一種の「原爆信仰」のような異様さがにじみ出てるのだ。
原爆の威力は確かにすさまじいものであった。その暴力は、人間のすべての営みを破壊し、善意を踏みにじり、人道をあざ笑うものであった。愛も正義も何もかもが、そこでは無意味に感じられた。
ホロコースト。
これが、原爆投下に対して形容するのにふさわしい唯一の言葉であろう。
非人道的兵器であり、戦時国際法(ハーグ陸戦法規)に明白に違反する、大量破壊兵器である。
昭和20年8月12日。当時の大日本帝国政府は、ジュネーブを通じて抗議声明を発表している。これが、原爆投下に対する、我が国の立場を最も明瞭に示したものである。
さて、この立場は、秋葉氏やその他の団体の立場と同じだろうか。論じるまでもなく、全く違うのである。これらの人々は、一律に、日本を侵略国家と断罪し、戦後体制を謳歌する人々である。原爆は、彼らの正当性の主張の最も根底にある、信仰の土台なのだ。彼らは、日本が「唯一の被爆国」であるというフレーズを金科玉条とし、それは、20世紀の神話よろしく、戦後神話として人々の頭に刷り込まれてきたのである。
「宗教はアヘンだ」というドグマに毒された一連の人々は、代替宗教として、「原爆」を見出した、教義として「平和」を唱えた。そして、それに少しでも疑義を挟むものには、精神的、物理的な「暴力」を以て圧殺することを旨としてきた。
これは、実は立派な全体主義なのである。
全体主義は、宗教を排除した、世俗の政治主義の中にあって、聖なるものを回復しようとする歪んだ営みである、といえるかもしれない。
だから、全体主義には、次のような臭気が付きまとうのである。
Wikipediaの「全体主義」項目から、気になる部分を抜粋してみると、広島において、現在進行形で起こっている、秋葉氏をはじめとするある種の団体の動きに、ぴたっと一致することを見て取ることができる。(わかりやすいように編集しています)
・ユートピア的イデオロギーによって正当化されることが多い。
・批判勢力の口を封じるうちに、集団の中心人物・中心グループが集団を私物化。
・解決策を示す事ではなく、判り易い「大衆の敵」を作って攻撃し「支持」を集める。
・基本的に、善意を装って生まれる。
・しばしば新時代への希望が喧伝される。
・完全主義の人々が主導力となる。
・大衆の好意を獲得しやすい。
・異端を排除する度合いが、徐々にエスカレートしていく。
日頃、憲法を尊重する、といってるはずの人々が、基本的人権の核心の一つである「思想・信条の自由」や「言論・表現の自由」を、こともなげに踏みにじっていく姿を見ていると、なるほど、これが「いつか来た道」というやつか、と思われてくる。これは、「ファシズム」なのかもしれない。
あるひとつの平和についての考え方がある。
再び、政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されないように、という憲法前文にある思想である。
これは、政府の不作為による被侵略の惨劇が引き起こされることは想定されていない。そうしたことを想定すること自体が、戦争への道、ということになるのだということになる。
これが、憲法崇拝者(憲法カルティスト)の思想の論理である。
今、広島で起こっている状況が、一種のカルトだと思えば状況はよく理解できる。
憲法カルティストらは、9条を守れば、平和になると、本気で信仰している。そして、その信仰を世界に伝道しようという情熱に駆られているのである。
こうした状況をもっともほくそ笑んでいるのは一体誰か。
いうまでもなく、中国・北朝鮮の独裁者である。
そして、もうひとつ、見落とせないのは、ある種のアメリカなのだ。
秋葉氏は、平和市長会議のために、よく渡米する。
その際、随行者は当然いるのだが、米語ペラペラの秋葉氏は、通訳も通さず、随行者にはよくわからないままに、しゃべるのだそうだ。それはインテリ市長の能力の高さと言ってしまえばそれまでだが、外交交渉においては、どんなに外国語ができようと、いうべきことは自国語で述べ、プロの通訳を通じて的確に交渉相手に伝えなければならない。それが、独立国の公人の誇りであろう。そんなものは、微塵もないのだ。
これはひとつの仮説なのだが、広島の核廃絶運動というのは、実のところ、「日本の」という接頭語が隠されているのではなかろうか。つまり、日本にだけは断じて核を持たせない、とういアメリカの強い意志が背後にある、ということである。
これは、論理的には実にシンプルである。ハンムラビ法典を持ち出すまでもなく、原爆を投下したアメリカは、報復されることを恐れている。報復の権利を主張し得るのは、日本以外にはない。だから、反米を装いつつも、核廃絶を言わせることによって、アメリカの安全保障を確保しているのだ、と。
原爆資料館をつかさどる、財団法人広島平和文化センターのリーパー理事長は、アメリカ人である。このご仁は、就任の際に、以下のようなことを言い放ち問題になった。
「原爆投下を「日本の植民地支配から解放した」と肯定する考え方が根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」
これにはさすがの広島市民も怒ったが、わけのわからない弁明だけで、マスコミも追及するところがなかった。
この人物を理事長にしたのは、秋葉氏である。
つまり、広島には、「原爆投下を肯定する」考え方には理解を示す言論の自由は、これを保障する、としているのである。なるほど、広島市民と市長は懐が深い、と世界から感心されたことだろう。
事実は、逆であるのだが。
もっとも悪質な欺瞞の下に、今、広島は、全体主義の淵に沈んでしまっている。
その見えない「閉ざされた言語空間」は、考えることさえも放棄した、真の奴隷を生み出す役割しか果たしていない。
そして、少しでも目覚めようとする者に対しては、徹底した差別を加え、レッテル張りをし、葬り去ろうとするのである。
広島が目覚めるとき、日本が目覚める。日本が目覚めるとき、真の世界平和への重い扉が、開かれるのではないか。
私は、従来の広島の「平和」運動を信じない。
なぜなら、彼らは、「日本が唯一の被爆国」だと宣伝している。
その影で、声もあげられずに虫けらのように殺されていった、植民地支配下の被爆国が今も存在するからである。
その声を隠蔽してきた広島の「平和」運動は、もはやその名を名乗る資格はないのだ。
真の平和運動は、この過去の過ちを繰り返さないと誓うところからしか始まらないのだ。