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2010年7月

2010年7月19日 (月)

参議院選挙とその後

 第22回参議院選挙の結果が出て1週間。

 民主党の大敗、与党過半数割れという事態を招来し、自公政権末期と同じねじれ国会となった。

 攻守所を変えたが、今回の民主党政権の方が不利な要素は、衆議院での勢力が、三分の二ないことである。

 つまり、殆どの法案が、参議院によって否決されたら、衆議院で再可決できない、ということになる。

 野党への配慮がなければならないわけだが、民主党政権になってから、「配慮」という言葉がどこにも見あたらなかった傍若無人な政権運営だったわけだから、そう簡単に変れるものでもなかろう。

 とすると、相当な波乱が予想される。

 ただし、参議院で比較第一党であることは変らず、野党でも足並みが揃うというわけでもない。共産党から立ち上がれ日本まであるわけだから、当然といえば当然である。

 今後の参議院における駆け引きは権謀術数の教科書のような展開になるのではないかと思われるが、それほどの役者がどれだけいるのかが問題だ。

 民主党の参議院における過半数割れに追い込む、という野党全てが目指した目標は達することが出来たわけで、その意味での民主党の敗北は、「民意」ということが出来るだろう。

 自分も、今回ばかりは絶対に民主党に勝たせてはならない、と思ったものの一人である。

 個別政策ごとの部分協定という、いわば是々非々という行き方がよいというのが世論調査の大方の希望ということが出ていて、概ねそれに違うわけではないのだが、「外国人参政権問題」や「夫婦別姓問題」など、与野党を超えて賛否が分かれている法案については、政党間による「是々非々」というのも極めて微妙になるといわざるをえない。その意味では、「是々非々」にも留保がつく。


 これからは半歩先も目を離せない政局が続くと思われる。


 その中において、政党の立場を超えて、日本という国を守り伝えていくという立場を踏み外すところがあってはならない。しかし「国家観」のある国会議員は一体どれだけいるのだろうか。

 「国家観」とは、国家を守るという視点、国益という視点、国家とは何か、一般論でなく日本という国の「国柄」を弁え身につけている、という意味も含む。

 本来なら、これなくして国会議員などなってはいけないのだが、現在の国会を見渡せば、どうも心許無く思われて仕方がない。これは「センス」がないので、能力の優劣や、知識の多寡の問題ではないのだ。

 国家を、アンダスタンド(理解)は出来ても、リアライズ(実感)は出来ない、という感じだろうか。

 これは、国会議員のみを責めるわけにいかない。国民の間に、どれだけ国家観が確立されているだろうか。

 これなくして国家は立ち行かない。国家が立ち行かなくなれば、「国民の生活」など消し飛んでしまうのだ。


 ローマ末期に例えられているが、当時の世界帝国だったローマ帝国に比肩するとは思われないが、確かに似ているかもしれないというところでいえば、ローマ末期には、ローマ人は既にいなくなっていた、という一語だろうか。今、日本人の顔つきをしていても、本当の日本人がどれだけいるのか。今の日本には、在日日本人はいても、真の日本人は果たしてどこにいるのだろうか。
 ピュアリズムに走るのも良くないが、日本人の原理原則を言えなければ日本人としての資格はないだろう。
 知識でなく実感として、となると本当に寥寥たるものではないだろうか。


 しかし、本当の日本人は、そんな「分析」に頓着などしない。

「神州不滅」の信念を胸に、現実に直面し、黙して事に処していくのである。その意味の人々ならまだまだ沢山存在する。サムライジャパンに胸を熱くした日本人はそうしたものをもっているはずだ。


 真の日本に敏感になって、そして参議院選挙に臨んだ。これは一種の神風だったのではないか、と誰かが言っていた。そして、ある意味絶妙な結果となった。


 民主党にブレーキをかけながらチャンスも遺し、その他の多くの芽を芽吹かせることにもなった。落とすべき人物の中の大物の一人、千葉啓子法務大臣は見事落選。日本の祖先崇拝という信仰心を根底から突き崩すことになる「夫婦別姓」や「戸籍解体」を目論んでいたのだから、これは正に日本の神々が動いたという気がする。


 日本の政治はどこに収斂していくのか、あるいは収斂させるべきなのか。来年の統一地方選挙、そして3年後の衆参同時選挙(衆議院で絶対多数を確保している政権政党が解散に打ってでるということは限りなく考えにくい)に向けて一定の結論を出していく必要がある。

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