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2010年5月

2010年5月30日 (日)

社民党 政権離脱 … 野党感覚で与党をやってたんだから

これで「正常化」するってもんです。


しかし、社民党が、与党の看板しょってるうちに何をやったか、精査する必要があります。


どんな恐ろしい「ウイルス」を植えつけられたか分かったものではないですからね。

かつて、三島由紀夫が「文化防衛論」で、行政権と共産主義の連結を断じて否とした意味は、行政機構の中に、革命の種を捲かれるということが大きかったと思います。


共産党ではないが、その恐れは多分にある。


もう二度と、「与党」になんかならないで下さい。いつまでも「野党」でいて下さい。ついでに、民主党内の旧社会党出身者を全部ひきつれていって欲しいものです。


政治権力を握った社会主義者は、言葉の定義から言っても「ナチス」なのですよね。

国家社会主義が、ナチズムですから。


共産主義者が、政権を取ればナチスになる。共産主義の特色は国際主義ですから、どちらかといえば国連の方が棲息し易いわけですが、国家に憑依すれば、ナチスかファシズム化するのはむしろ当然のことでしょう。


民主党全体がナチスとは言いませんが、その要素が多かれ少なかれある事だけは、忘れない方がよいですね。

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2010年5月13日 (木)

高橋尚子選手に感謝!

リンク: 「さすがQちゃん!」 出馬要請拒否に絶賛の声 - 速報:@niftyニュース.

分を知る、というか、自分の戦うフィールドを間違えないというか、そういうところの進退がきちんとできることが1流と2流を分けるのだなと思う。

比べるのは悪いが、谷亮子選手は、自ら「2流」であることを宣言したようなものだ。


何年か前に、ある大先輩の、お母さんのような人から、厳しい批判を聞いたことがある。

それは、別の人への批判だったのだが、間接的に自分への戒めだったようにも思えた。

それは、「わきまえ」という言葉についてであった。


「わきまえ」がない、というのがその批判だったのだが、まさに、谷亮子さんには「わきまえ」がなく、高橋尚子さんには「わきまえ」があった、ということだ。


谷さんは、悪気のある人ではない、と感じる。しかし、いい人が必ずしも進退をきちんとできるとは限らず、いい政治家になれるとは限らない。

今、民主党で小沢幹事長の口車にのって参議院選挙に出馬する。恐らくそうはいっても当選するだろう。民主党という枠組みの中にいれば20~30万票も取れば充分当選できるからだ。もちろん100万票オーダーを稼いで欲しいというのが小沢のねらいに決まっており、ギリギリなどという体たらくで当選した日には、それこそ陰湿ないじめが待っているだろう。

また、上位当選できたとして、選手としてのトレーニング、母としての子育て、その合間にちょちょっと政治の「お勉強」をして(学生じゃあるまいし)、本会議では、民主党の方針通りにボタンを押す。政治家というのは、小沢にとっては、自分の思うとおりにボタンを押す手駒に過ぎない。そんなことは、少なくともこの8ヶ月見ていれば分かりきったことだ。

それが、谷選手がなりたい「政治家」像なのだろうか。

もし、本当に「政治家」になりたいのなら、少なくとも選手生命にはピリオドを打つべきではないか。虻蜂取らずになるだろうことは、99.9999%目に見えているではないか。自分だけは違う、やれるんだ、というなら、何故この間は銅で終わったのか。自分だけは違う、というのは思い上がりに過ぎない。


高橋尚子さんの話を書こうとして、ついつい横にそれてしまった。

「政治は難しい世界ですし、その知識がないと片手間にはできません」

立派な見識である。

「(国民栄誉賞をもらった立場として)どこか一党の代表にはなれない」

これも見識だろう。

福田元首相の言葉で言えば「自分を客観的に見ている」ということになるだろうか。

冷静な判断が出来る、人生において中々難しいことだ。

福田首相の言葉を、マスコミはこぞって叩いたが、今となっては、自分を客観的に見ることが出来ない首相、つまりLOOPYな首相が、いかに害毒を振りまいていることか。個人として「いい人」だろうことまで否定するつもりはないが、政治家として、首相としては、史上最低の部類にその名を残すことはもう間違いないだろう。


高橋Qちゃんのような、自分の道をしっかりと踏みしめて歩きながら進んでいく人がまだまだこの国には多くいて、そういう人々のおかげで、この国は保っているのだと思われる。


産経新聞に桜井よし子さんが書いていたが、鳩山首相は戦後の国民教育の失敗を物語っているというが、実のところ、まさにあのような軽薄な人物をつくりだすことに眼目を置いてきたのが、戦後教育であって、その意味では、占領軍の置き土産が大成果を上げたということだろう。教育の過ちがいかに深い罪過を遺すのか、鳩山首相と谷選手の姿がダブって見えた。

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自殺という悲劇をなくすために、一人一人ができること

自殺者が今年は過去最悪のペースで増えているという。これも「無関心」が最大の原因だと思う。

 百万巻の写経勧進運動で薬師寺の西棟を再建した高田好胤管長(百二十四代)の「慈悲心~混迷の世の中で幸福とは何か~」という本を読み返していたところ、自殺について、こんなことを書かれていた。

「よき友  人生において「友」というものがいかに大切かについて語ろうと思います(略)阿難尊者が、あるときお釈迦さまに、「よき友に恵まれることは人生この道のなかばに値するほど大事なことでございますな」と申し上げますと、お釈迦さまはこう答えられたといいます。「阿難、そうではないよ。人生においてよき友に恵まれるのはそのすべてである」親子、兄弟、夫婦といえども語りあえないことを語りあえる友―そういう友に恵まれた人は決して自殺をすることはないと私も聞いております。」

 心理分析をする心理学者や、心療内科、精神科の医師らはごまんといる。社会のあり方に原因を求める社会学の批評かもはいてすてるほどいる。しかし、一人の友がいないのだ。

 せめて、市井の我々は、一人の友となるべく人のことに関心を持って生きてくことではなかろうか。

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有権者の品格  

これは地元の有権者の「資質」であるのだ。

 このような政治家を送り込んだ責任が、有権者にはある。本当に問われるべきはそっちなのかもしれない。金美齢さんが、「政治家の品格、有権者の品格」という本を出したが、本当は、「有権者の品格」が問題なんだ、といっていた。出版社が、それでは売れないから、というので枕詞で「政治家の品格」と入れたんだそうだ。日本人の劣化が言われてもう長い。日々のニュースを見てもあまりにも幼稚かつ身勝手な事件ばかりだ。政治家の体たらくを怒っているその怒りは、天に唾するものといってよいだろう。

 こういうと、したり顔で、こんなことを言ったバカがいた。(こいつは医者だったが)そう、だからこんな下らない国なんだから仕方ないんだよ。この人物、自分を高みにおいて他を見下している最低の人物だ。こいつの心の中には、国への愛情など欠片もなく、ただひ弱な自己満足しかない。

 この許せない体たらくの国に、政治に、国民に、どうすれば、かつての先人たちが築いてくれた誇りを取り戻すことができるのか。自分も下らない体たらくの一人に過ぎないが、せめて自分が死ぬ時には、この国を、ほんの僅かでもいいから何かよいことを遺して、次の世代に渡してやらなければ、申し訳がないではないか。

 全共闘の時代に、高橋和巳という評論家がいて、彼が書いた詩の中に、ひどいことをするやつらがいるが、一番の敵は、そういうひどいことをするやつらに対して無関心で野放しにしている連中なんだ、というものである。言葉は全く違うが、意味はこの通りである。

 愛情の反対は「無関心」なのだ。この「無関心」が蔓延が、この国の屋台骨を揺るがしていることは間違いない。

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命を大切にする友愛政治が引き起こした「命の大虐殺」

命を大切にする友愛政治が引き起こした「命の大虐殺」

ということが出来るのではないか。

 口蹄疫の拡大の最大の責任は、政治の無策にある。

 刑法に「未必の故意」という用語があるが、今回の赤松農相の所業はそれに当るだろう。

 いや、まさかこんなに拡大するとは思わなかった、というなら、そもそも大臣の資格はないのだから、さっさと辞めて議員も辞職して(これほどの税金の無駄遣いはない)、家畜たちの菩提でも弔ったらどうか。

 どういう角度から見ても、言い訳不能な体たらくだ。そして、これが、「いのち」が大切だとノタマッタ、鳩山「友愛」政治の正体なのである。民主党「パフォーマンス」至上政治の必然的な結果なのである。

 政治家としての自覚が、すずめの脳みそ程度に残っているなら、その最後の自覚が消えないうちに、政界から消えるのが、最後の「政治」だ。

 もはや誰も期待しない、鳩山政権には、さよならを突きつけよう。

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パンデミック 口蹄疫 ~これは人災、というか民主党政権災害だ~

かつて、阪神大震災が発生した際、第一報をテレビで見て、ひどいもんだなあ、と他人事のように言った、社会党の首相がいた。初動の遅れと、自衛隊アレルギー(これも社会党・そして共産党が蔓延させたものだ)の首長により、更に災害派遣は遅れた。遅れた責任は自衛隊になすりつけられたが、当の自衛隊は即応体制で命令がありさえすればすぐに被災者救出に迎える体制になっていたのだ。

 よって、阪神大震災の被害拡大は、「人災」と言われた。

 宮崎県で発生している口蹄疫の拡大により数万等もの牛や豚が「殺処分」されなければならない自体になっている。初動が、実は1ヶ月も遅れているというのだから、くだんの社会党首相を上回る迂闊さだといっていいだろう。

 その結果、被害は拡大の一途を辿っている。これが人間の疫病であっても同じような鈍さなのだろう。

 これが、あの華々しい「事業仕分け」なるパフォーマンスのせいだとすれば、誠に救いようのない、悪政の被害である。

 一見無駄に見えることが、有事には必要になる。今の目先のことしか見えないで、権力を振りかざして、本人はさぞ気分が良かっただろう。

 更に、宮崎県は自民党が勝った数少ない地区であることが「災い」して、民主党政権にいじめられているのだとすれば、この恐怖独裁政権に、日本の統治権をゆだねたこと自体が間違いだったことが明白になるというものである。政治主導の「美酒」に酔い、酩酊の挙句がこれか。

 民主党政権が一日続けば、日本の恥は一日世界に晒され、民主党政権が一日統治すれば、日本の傷は一日深まる。もはや、民主党政権に出来る最善かつ唯一の善政は、退陣しか遺されていない、といえよう。FAKEによって得た308議席にしがみつき、政権を盥回しにするのではなく、この際、7月、衆参同時選挙に打って出ることしか、鳩山・小沢に残された道はない。

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2010年5月11日 (火)

口蹄疫の被害拡大を選挙に利用する小沢一郎>毛沢東主義者?

というよりも、更に恐ろしいことが考えられる。

ブランド和牛の冷凍精液が盗まれる事件が発生。

口蹄疫により、万単位で和牛、豚などが殺処分される。

和牛ブランドが、いつの間にか某国から輸入されるようになる。

無能にしてもひどすぎる無策ぶり。選挙の遺恨だというなら、もはや国家統治の資格はない。


無能も許されないが、未必の故意による無策だとすれば、言葉を失う。


北朝鮮で人工的に飢饉が引き起こされ、体制に批判的な国民が百万単位で飢餓にさらされ、「処分」されたことがある。

それに似ている。

民主党のやり方は、共産党、しかも、中国共産党や、朝鮮労働党に似ている。(さすがに人間の虐殺を露骨にやるところまではいっていないが)

宮崎県への未必の故意による口蹄疫への無策は、国家犯罪レベルの暴挙だ。福島瑞穂大臣に至っては地元である。地元をこれほどまでに足蹴にするのが、この政権の本質だということだ。

谷亮子選手が、民主党の全国区に出るのだそうだ。せっかくのこれまでの努力にすべて泥を塗るような所業だ。


政治に出ても、選手を続けるのだそうだ。小沢が、政治なんてその程度のものと言ったに違いない。


柔道で金メダルを取るのは真剣勝負だろう。では、政治家という立場は真剣勝負、命懸けではないのか。そんな両立が可能かどうか、傍目でも不安に感じる。そう、小沢の持ち駒の一つになれば良い、自分の頭で考えて、国民の負託にこたえる、という政治家として最低の責務をはなから放棄して、言われるままに投票ボタンを押すだけの要員になるというのだろうか。


あまりにもグロテスクで、国民を愚弄したはなしだ。


今日も、中国礼賛的な番組がNHKで流れていた。

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2010年5月 9日 (日)

「バカの壁」を読み直す。民主衆愚独裁政権打倒のために

6年前に書いたもの。2004.2.23の日付がある。

書き散らしたものを見返していたら、結構今でも読めるものだったので、ここに出して見る。

話題になった『バカの壁』の読後感である。

平成でいうと16年。それにしても、日本が抱えている問題がちっとも変っていないことに、

あらためて気付く。

どんどん悪化していることも。

ああ、「バカ」の「鉄壁」に囲まれた、民主党革命政権に乗っ取られ、今や空前の国難に直面。

昨日は民主党を礼賛して政権簒奪を助けたデモスたちが、今日は気まぐれに民主党の失政を嘲笑している。

明日は一体何に靡くつもりなのか。

民主党の愚かさ、危険さは、既に衆議院選挙の前に叫ばれていたし、分かる人は分かっていた。

自民党の情けなさを分かりつつも、民主党になったらとんでもないことになると、必死で応援した人々が、

少なからずいた。

しかし、自民党が情けないから、民主党にいっぺんやらせてみたらええ、と、軽い調子で言っていた人達。

その人たちは、今、「こんなはずじゃなかった」と、少しは反省して、民主党を批判しているのだろうか。

それとも、自分たちの愚かさは棚に上げて、劇場を見るように、批判を弄んでいるのだろうか。

二言目には「国民が選んだ」「国民の負託を得て」と、政権与党は言う。そういう一面は確かにあるだろう。

(但し、誰も「社民党」や「国民新党」に付託を与えてはいないのだが)

デモスによる政治、民主政治、民主独裁政治。

政治学のイロハは、国民の素養であるべきだと思われる。

デモクラシー(民主政/※民主主義という言葉はヘンな訳語である)の次に来るのは衆愚政治であり、その中から独裁政治が生まれるということに、ギリシャの昔からなっているのだ。

小泉劇場がその先駆だったとすれば、小沢=鳩山政権は正に衆愚独裁とでも言うべき、最悪の踊りを踊っている。

国民に、深い反省がなければ、仮に参議院選挙で民主党の過半数割れに追い込んでも(そして、それは何としてもやり遂げなければならない国民的問題なのであるが)、更に愚かな政権をつくってしまうことになりかねない。

断言してもよいが、民主党は4年間の衆議院の絶対多数議席を自ら手放すような「バカ」な真似はしない。

民主党にフリーハンドを与える参議院での過半数という悪夢が実現したら、民主党の裏方にいてせっせと革命の青写真を描いてきた共産主義者たちのシナリオを、阻止することは不可能になる。

参議院で過半数を阻止できれば、民主衆愚独裁の暴走に足枷をはめることは出来るだろう。しかし、国政の停滞・混乱は続く。民主党が割れて、政界再編が起きなければ二進も三進も行かない状況になる。

3年後の衆参ダブル選挙後には、先ず間違いなく政界再編の大きなうねりが起こる。

しかし、中国の軍拡が、自衛隊の防衛力を凌駕すると言われる時期と重なる。

普天間基地問題どころか、東シナ海の制海権を中国が握れば、台湾への侵攻は確実となり、その時、沖縄から米軍基地が縮小・撤退ということになれば、ほぼ確実に沖縄は中国の支配下に置かれることになる。徳之島が無事でいられる保障などどこにもない。

そして、沖縄が中国の支配下におかれた時、北海道はどうなるのか、いや、本州でさえどうなってしまうのか。

民主党が進める、「地域主権」というフレーズによる国家解体が進み、「地域主権」の担い手とされる「基本自治体」である市・町・村が、日本国家からの離脱と、中国への編入を宣言したらどうなるか。その時点で「外国人地方参政権」が成立してしまえば、小さな町や村では充分に起り得ることだ。

当然、日本国政府として、そのようなことを認めることはできない。が、仮に警察力にせよ自衛隊にせよ実力で、自治体政府を解散させ、「中国への編入宣言」を無効にさせる実力行使に出た場合どうなるか。

「解放」を名目とした中国共産党人民解放軍の侵略の口実とされることは間違いない。

勿論、その時点での彼我の軍事力の実力がどのようなバランスになっているかにも依るが、今の日本がどんどん自衛隊を縮小している現状からすれば、また、中国本土に配備された核弾頭を積んだ中距離ミサイルや、軍艦などに搭載された核ミサイルに主要都市をロックオンされた場合(というか既にされていると言われるが)を想定すれば、人民解放軍の侵略に立ち向かえるかどうか。

そして一つの「解放区」が確固たるものになり、脅しと利益で「基本自治体」に中国への編入を呼び掛けた場合、ドミノ式に次々と追随する自治体が出てくるだろう。

がん細胞が広がるように、日本国内に、中国解放区が染みのように広がり、最終的に乗っ取られてしまう。

その頃には、中国からの移民は数百万人のオーダーになり、彼らが統治機構を含め主要な機関を牛耳ることになり、日本人はどんどん最下層へと追いやられて行く。各地で様々な名目での人民裁判が行われ、数十万から数百万人の規模で、都合の悪い日本人などの公開処刑が行われる。「反革命分子」「分裂主義者」などというレッテルによって恐怖政治が敷かれることになる。当然、経済は破壊され、日本の富は全て中国に接収される。(これらは、共産革命の時に中国本土で現実に起こったことであり、チベット、モンゴル、ウイグルなどで現実に起こったことである)

こうなる直前に、富裕層はアメリカなどに亡命することになるだろうが、その末路たるや暗澹たるものであろう。

こうして、日本は消滅してしまうのだ。

もう、引き返せる地点は過ぎてしまったのかも知れない。

しかし、何としても参議院選挙で民主衆愚独裁政治に歯止めをかけ、政界再編を促し、救国の国民戦線をまとめ上げなければならない。そしてやるべき政策を全て実施して、3年後の衆参ダブル選挙で、本格的な救国内閣を成立させ、上記のような悪夢のシナリオではない、日本再生のシナリオを実現させなければならない。

そのためには、悪魔の呪文を覆さなければならない。そのフレーズで思考停止に陥り、踏み絵にされている言葉。

「バカの壁」を築き、国民をマインドコントロールしている言葉を叩き潰さねばならない。


昔かいた文書をアップしようと思っただけだったのだが、つい書いてしまった。

悪夢のシナリオはもういいので、これからは日本再生のシナリオをきちっと書いていきたい。

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余りにも売れているというので、つい買ってしまいました。「バカの壁」です。300万部以上が売れているということですから、先ずベストセラーといって間違いありません。書店でも長らくノンフィクション分野でベスト3から落ちません。

 さて、いささか挑発的なタイトルの本ですが、著者は言わずと知れた、東京大学の脳みその専門家だった養老孟司先生。「結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ」言ってしまえばみもふたもない「常識」がポンと述べられているところに、この本の魅力はあるのでしょう。

そして、「あるていど歳をとれば、人にはわからないことがあると思うのは、当然のことです。しかし若いうちは可能性がありますから、自分にわからないかどうか、それがわからない。だからいろいろ悩むわけです。そのときに「バカの壁」はだれにでもあるのだということを思い出してもらえば、ひょっとすると気が楽になって、逆にわかるようになるかもしれません。そのわかり方は、世間の人が正解というのと、違うわかり方かもしれないけれど、もともと問題にはさまざまな解答があり得るのです。そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。でも、多くの人は、反対に考えているようですね。ほとんどの人の意見が一致している社会がいい社会だ、と。」という言葉には、なにやらホッとさせられます。

 ちょっと離れますが「泥棒にも三分の理」という諺を生み出した日本人の感覚というものは、物事を絶対善か絶対悪かに分けて考える思考法に何やら偽善と欺瞞を見い出す嗅覚を備えているように思われます。

ましてや、昨日まで絶対善としていたものを、一夜にして情勢が変わってやっぱり絶対悪だったと懺悔して見せる手合いが信用できないことを、皮膚感覚として持っていたように思われるわけです。

丁度終戦を境に価値観が百八十度転換したといって、昨日まで軍国主義を鼓吹していた同じ人物が今日は民主主義万歳を唱える。そうした無節操を目の当たりにした世代もあったわけです。

しかしその唱える手振り口振りは全く一緒というこれまた傍目には明白であっても本人はちっとも気付かないという体たらくだったというわけです。少なくとも、そうしたまやかしを目前に見てきた世代がこの国を支えていた間は、この国は色々な問題があっても大丈夫だったと思われます。

ところが、まやかしで唱えた口振りそのものが大手を振るうようになってから、この国は極めて危うい揺れを感じさせるようになってきました。

共産主義の失敗が明らかになった時、頬かむりしてあたかも何事もなかったかのように、ひたすら押し隠す人々がいます。

逆に、過去はまちがっていた、今こそ共産主義を追い落とそうと躍起になる人もいるようです。

しかし、その手振りは変わっていません。

さて、今、敗戦を乗り越えた「庶民感覚」が何処まで正常に生きているものかどうか。

「バカの壁」は正に日本の庶民感覚の本で、一元論的な世界観に対して、明確に訣別を示唆している点、この本がロングベストセラーになっていることは心強いように思えます。

 そして、一神教の強烈な一元論の世界観に対して、もう一つの普遍を提起しているのも興味深い点です。それは「人間であればこうだろう」という普遍です。それが最後の章で語られています。面白いのは、「話せばわかる」とか「公平・客観・中立」という掛け声は全て一元論の世界観から出ているものだ、という指摘です。如何に深くこの異文明に捕らわれているか、を思い知らされる本です。


 朝日・毎日がこの本を絶賛して紹介している理由は、アメリカとイスラムの衝突は一元論=原理主義同士の衝突であるとしている点であろうかと思います。また、「人間らしく」という言葉をヒューマニスティックに読み違え(これも正にバカの壁と言えるかもしれませんが)た為ではないかと思われます。

日本人はそもそもが「人の心のありのまま」を大切にしてきた民族ですし、「人間らしく」という言葉も、西洋ルネッサンス由来の「ヒューマニズム」などと何ら関係のない文脈の中で生き生きと生きている言葉です。

 昨日の新聞に阿久悠さんが書いた文章で歌謡曲が昭和で終わったということについて、それは日本の心がなくなったということではないか、と指摘しているのが印象的でした。

同じことといえるかどうかわかりませんが、江藤淳氏が「平成は歌の無い時代として始まったことを後世の歴史家の為に証言しておく」と述べたことがありました。

歌がないのは心がないからだ、ということになります。

心をなくしたと理解すれば、今の日本が如何に心ない「人外の化生」たちに満ち溢れているか、その理由がよく納得行きます。

納得して終わりでは仕方ありませんが、ここに今の日本が抱える最大の課題「日本の心」の再生、あるいは復活ということにつながるわけです。

そんなことを考えていたら、小山常実さんが「日本国憲法無効論」という本を出されているのに気付いて手にとってみました。

冒頭から「平成日本には、おかしなことばかりが起こる」と手を打って相槌を打ちたくなる言葉で始まっていました。

そして「「日本国憲法」は、総体として、自己決定できない国家に日本国をつくりなおそうとしたものなのである。」「「日本国憲法」の思想が浸透するにつれ、日本は、卑屈で自己決定できない国家になっていく」と述べています。

少し問題意識はずれますが、日本の心の喪失も日本国憲法に由来する面が極めて大きいのではないかと思われてなりません。

 これは、明治の自由民権運動の問題意識の延長線上に位置する問題でもあると思われます。

しかし、安易な「正義」(それは「愛国心」という言葉そのものも含めて)に寄りかかることなく、「人生」という課題にきちっと真向っていくことが、何よりも大切なことなのでしょうね。

「人生は家康型なのです。一歩上がれば、それだけ遠くが見えるようになるけれども、一歩上がるのは容易じゃない、荷物を背負っているから。しかし身体を動かさないと見えない風景は確実にある。」とてもいい言葉ではないでしょうか。

小林秀雄氏の「歴史と文学」の一節を思い出させます。

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●ゆとり教育がなぜ行われたのか (=日本人劣化の為、思考力や気力を奪い、公共心、公徳心を破壊するため)

●核廃絶がなぜ声高に叫ばれているのか (=中国の核武装の脅威から目をそらすため、日本を核の傘から外すため)

●「外国人参政権」「国籍法改悪」「移民促進」などがなぜ進められようとしているのか  (=日本を乗っ取りやすくするため)

●「夫婦別姓」「子ども手当て」などがなぜ進められようとしているのか。 (日本の伝統的な社会を破壊し、国民の絆を寸断して、抵抗力を弱めるため)

すべてがつながっているのだということだ。

これはほんの氷山の一角にすぎない。

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2010年5月 6日 (木)

非嫡出子の戸籍続柄について /事実婚(法律婚を拒否したカップル)だけの問題ではない

戸籍の続柄、非嫡出子の区別撤廃

法務省が規則改正へ (朝日新聞3月9日付より)

法務省は8日、婚姻届を出していない男女間から生まれた非嫡出子(婚外子)の戸籍の続柄欄の記載方法を改める方針を固めた。現行は、嫡出子と区別して「男」「女」と表記しているが、改正後は、嫡出子と同じ「長男」「二女」などとする。同省の方針転換は「一見して非嫡出子とわかる記載方法は、プライバシー権の侵害だ」と指摘した2日の東京地裁判決をきっかけとしたもので、今夏までに戸籍法施行規則を改正する。

戸籍の区別記載が残っているのは、民法上、非嫡出子の相続分は嫡出子の2分の1と規定され、法的地位に差があるからだ。

しかし、東京地裁判決は、非嫡出子が就職、結婚などで不利益な取り扱いを受けている現状をふまえ、「プライバシー権の侵害だ」との初判断を示した。国会からも見直しを求める声があり、地裁判決を機に改めることにした。改正後は、新たに出生届が出された子どもについては嫡出子と同じ表記方法で戸籍を作成する。

一方、すでに戸籍に記載されている非嫡出子の表記を改めるには、長男か二男かなど、出生順を確かめる必要があり、作業量が膨大になるため、当面は本人から希望があった場合に限って記載を改める方向で検討している。非嫡出子として戸籍に記載されている人は全人口の1~2%とみられる。

非嫡出子は(1)既婚男性との間に生まれ、認知を受けた(2)父親の認知を受けていない(3)夫婦別姓の事実婚を選んだ夫婦の間に生まれ、父親が認知した――などのケースがある。家裁の許可を得て父の姓を名乗れば父の戸籍に入るが、多くの場合、母の戸籍に入っている。

2日に判決があった訴訟は、夫婦別姓の夫妻が起こしたものだった。判決は、法相が続柄欄の記載を改廃しなかったことに注意義務違反はなかったとして、記載の差し止めや計400万円の慰謝料請求については認めなかったが、原告代理人は「今後、こうした表記を続けることは違法だという判決だ」と話していた。

ただ、嫡出か非嫡出かは、続柄欄の区別表記をやめても、戸籍の身分事項欄や父親欄などを見れば分かる。就職時などに戸籍謄本を出させる慣習が残っている限り、婚外子差別はなくならないとする見方もある。

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