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2010年2月 4日 (木)

4か月ぶりの更新

 政権交代という名の革命もどきが起こり、書くべきことはあまりにも多かったが、とても書く気力も萎え果てて4カ月もこのブログをネグレクトしてしまった。

 気まぐれは良くないが、この4カ月の心跡百変の軌跡は、自分でも愉快なものでなく、日本の浮沈が思われて少しの余裕もなく過ごしてきた。

 屋山太郎氏の民主待望論があり、官僚内閣制から議院内閣制へ、という話し、つまりは官僚主導から政治主導へ、という掛け声は決して間違いではない、というよりもその通りと言ってよかったわけだが、政治主導というよりも単なる官僚いじめのように見えてしまう。事務次官会議を廃止したのは良かったが、それで官僚支配からの脱却が成ったわけではない。

 肥大化した行政機構が、組織維持を自己目的として、本来の使命を見失ってしまうところに、官僚支配の深刻な問題があるのだと思う。個々の優秀な官僚の方々からしても、その持てる力を十全に発揮させてくれる政治家が中々現れない中、日々勃発する課題の処理に追われて行くということもあるのではなかろうかとも思われる。

 問題の本質を見抜き、組織機構を大胆に改編する能力は、政治家に求められるものだ。既得権益=しがらみにとらわれて、本質を見誤るなど、真の政治家にあってはならないことなのだと思う。


 この間に起こった問題には、一体日本という国をどうしようとしているのかという深刻な不安に駆られるものが少なくなかった。

 中国詣でもその一つだが、とりわけ、一か月ルールを無視した小沢幹事長のごり押しによる、中国国家副主席習氏の 天皇陛下への謁見の件は、最も深刻に受け止められた。今後、何があろうとも、このことだけは許せないという事件だった。

 民主党政権の成立は、いわば「戦後」の一つの帰結ともいえるものだと思われるが、いわゆる自民党政治が良いというのではない。国の根幹を蝕む要素を、自民党政治そのものが孕んでいたのだと思う。

 日本は、真に国民のための政治を、一体いつになったら持つことが出来るのだろうか。

 国民のための政治とは、国民の本質が何であるかを把握していなければ出来得べくはずもない。

 国民とは何か。単なるヒト科の動物の集まりではない。歴史と伝統と文化にはぐくまれた縦軸の中にこそ見出されるべきものである。

 帰化の要件にしても、国への忠誠義務や、国防の義務、そして歴史を受け入れること、伝統との調和などがあってしかるべきだ。

 今はまるで免許証でも取るかのような手続きのみが国籍取得の手続きなのだそうだ。

 国籍の重みを、日本人自身が忘れてしまっているのだとすれば、国民の存立自体が極めて危ういことになる。

 
 日本人であるという自覚、日本人として恥ずかしくない生き方をしなければという自覚。

 それは自然に生じるものであるかもしれないが、それを自覚なり覚悟というものに育てていくには、教育が大きな役割を果たす。その教育の現場において、一体どれだけ日本人であることの自覚がはぐくまれているだろうか。誇りが培われているだろうか。

 それなくして、国籍の重みも、国の重みも分からないだろう。そして、他国の国益に乗じられてやすやすと無自覚の売国奴となり果ててしまうのだ。そんな売国奴がじわりじわりと増殖しているのが現在の日本ではないのか。

 まるで死と腐敗が静かに進行して行くかのようである。

 しかし、決してそのまま朽ち果てさせてはならない。日本はそんなチンケな国じゃない。必ずまた清新な意気に燃えて、再生する日が来る。そのために、日本とは何か、日本の誇りとは何かを語り続ける必要があるのだ。


 そんなことが、思われてくる昨今であります。

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