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2010年2月

2010年2月28日 (日)

お伊勢参りに行ってきて

この間、お伊勢参りにいってきました。

伊勢市駅から、外宮に歩いていく途中に、いかにも古い観光地らしい食堂があって、朝ごはんを食べた。焼き魚定食600円。美味しかった。そこは伊勢うどんがテレビで紹介されたこともあるんだと、たまたま一緒になった大先輩の方が言っていた。

外宮を御参りし、風宮、土宮、多賀宮という別宮を順次御参りした。

土曜日ということもあったとは思うが、参拝者が多く、しかも若い人達も沢山歩いて参拝していた。


我が国の もとの鎮めの 大宮に 人さはにあり 詣づ嬉しさ


内宮の参拝では、不思議な体験をした。


いつも感じることではあるのだが、伊勢の神様の神々しさといったらないのである。


天照らす 神のみ光 ありてこそ わが日の本の 国は安けれ


いまふと思い出した御製だが、どの天皇さまの御製であったか。


若い人ばかりの団体が幾つも御参りしていた。


伊勢の大神に祈るのは、個人の栄達や幸せではない。国家の安泰であり、国のために尽くす決意と覚悟である。


私幣禁断の伝統は、長かったのである。


今年は、お蔭参りの年なのだそうだ。60年に一度。江戸期には、全人口の三分の一もの人々が伊勢参りに詣でたという。


「参宮と いへば盗みも 許しけり」

芭蕉の句であるが、何と言う大らかな、何と言う優しげな、民族の信仰であろうか。


その伊勢の大神さまの、末裔が、天皇陛下であり、この天皇陛下を仰ぐ国が日本なのである。


もうまもなく、ご遷宮の年がやってくる。

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2010年2月24日 (水)

「愚かなる智者」

 内村鑑三の「後世への最大遺物」を久しぶりに読み返した。

 岩波文庫では、「デンマルク国の話」が収録されているので、それも読んだ。

 その「デンマルク国の話」の最後の一節に、こんな言葉があった。

「宗教、信仰、経済に関係なしと唱うる者は誰でありますか。宗教は詩人と愚人とに佳くして実際家と智者には要なしなどと唱うる人は、歴史も哲学も経済も何も知らない人であります。国にもしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の悲運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。」

 「愚かなる智者」

 「智(さと)き愚人」

 極めて痛快な響きを持った言葉だ。

 溜飲の下がる思いがしたが、考えてみると、「愚かなる智者」の世にはびこること、その弊害の大きいことといったらない。テレビをつけてみれば、正に日本は「愚かなる智者」の楽園である。


 一方、「智き愚人」は、表に現れることなく、もくもくとこの国を支えてくれている。愚人と言ったら本当は間違いなのだが。「大聖は愚に似たり」というにも通じるのか。


 「愚かなる智者」の蔓延ること、今や絶頂である。


 「智き」かどうかは別として、自分は、「愚人」でありたい。

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2010年2月16日 (火)

「休日革命」? 祝日法改正案は、中国属国化法案かもしれない

 知る人ぞしる、極左活動家が国会議員になっている辻本清美・国土交通副大臣が座長をしている、「休暇分散化ワーキンググループ」が、検討している祝日法改正案の資料に踊る「国慶節」の文言。

 その他、「旧正月」「清明節」「労働節」「端午節」などなど。

 「国慶節」とは、

 「中華人民共和国の建国記念日。1949年10月1日に、故毛沢東主席が天安門の楼上から中華人民共和国の建国を宣言したことにちなむ。「十一」と呼ばれ、中国ではこの日をはさむ約1週間が大型連休となる。」日だそうだ。要するに、中華人民共和国の建国記念日。


 ちょうど昨日のニュースを思い出した。


 昨日は、中華人民共和国における「旧正月」なのだそうで、大挙押し寄せた中国からの「観光客」がバスを乗り付けて買物に押しかけ、時ならぬ景気に沸いたんだそうだ。

 2月は全般的に消費の落ち込む月にあたり、この時ならぬ消費ブームを歓迎しているというトーンの報道である。

 フーン。とへそ曲がりな自分は考える。

 まるで、中国からの観光客が、日本経済の救世主のような扱いだな、と。

 さて、この「休暇分散化ワーキングチーム」の属する「観光立国推進本部」には、他に「外客誘致ワーキングチーム」がある。

 昨年12月16日に行われた第1回の議事要旨の中には、次のようなことが議論されたことが記されている。

 「来日外国人刑法犯検挙件数・人数の半数近くが中国人によるものであり、国民に不安を与えている。個人観光ビザでは経済力要件が有効に機能し、失踪者が発生していないことを踏まえ、経済力要件の緩和には慎重な検討が必要。日本の観光のセールスポイントの一つは安全、治安であり、これを守るべき。」

 「ある程度の経済力がある者でないと、日本に来てもらっても買い物なののメリットが少ないのではないか。要件を緩和した場合の観光客の増加、及びその経済効果について議論すべき。」

 実は、別の資料ではっきりとわかるのだが、観光客の誘致は、中国人がその大半を占めるのである。

 そのため、中国の祝日に合わせた戦略構築を、ということになるわけだ。


 しかし、待って欲しい。

 そもそも、祝日って一体何なんだ。ただ休める日のことか?


 戦後の日本では、「祝日」の意味を限りなく薄め、世俗的な国づくりを進めてきた。「祝祭日」という言い方はあっても、法律では「祝日」しかない。何を祝うのか、必ずしも明確でない。また、歴史や伝統・文化に基づく「祭日」という言い方は法律上では消えているのである。


 そもそも、通常の活動を停止してまで国を挙げて「祝日」を定める意味は、国にとっての「晴れの日」であるからである。国にとって大切な日であるということは、国民にとって大切な日なのである。


 それを、単なる休日にしてしまった。経済効果をうたって「ハッピーマンデー」を導入した自公政権も、結局は目先の利益に災いされて、祝日を限りなく薄めてしまったことについて、反論は出来まい。


 しかし、他国の祝日を当て込んで、それを「観光立国」の政策に入れ込もうというのだ。単なる「世俗化」で話しは済まない。


 「休日革命」とはよく言ったものだ。


 まさに、日本「解放」の一環といってよい政策だ。中国による「解放」が、一体何を意味するかは、チベットやウイグルを見れば一目瞭然だが、それを嬉々として推進しようとしているのである。

 地域別GWもいいだろう。しかし、日本の「祝日」が脇へ押しやられ、中国の「祝日」に組み込まれていくような政策は、もはや魂を売り渡したものと言っていい。

 民主党さん、またですか、と言いたくもなる。といっても、辻本副大臣は、社民党ではある。なるほど、中国とは親和性が高いということなのか。


 国民が知らないところで、また一つ、日本なるものが潰されていこうとしている。

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言論の責任を取らないのが普通? 日本の大学人

 自民党をぼろかすにいい、民主党の政権取りを待望していた、自称「保守」の大学人がいた。


 小沢を称揚し、麻生をぼろけちょに言っていた。


 そして、民主党が政権を獲った。


 最近、その人物は、民主党もダメだ、といっている。


 しかし、その評論家的態度。


 少なくとも社会的に多少とも(大したことはないかもしれないが)影響力を持つ自分の発言に対して、責任を取ろうという姿勢は微塵もない。


 それが、「知識人」というものなのかもしれない。


 政治家が、知識人を軽んじてきたわけがわかる。


 小さな「象牙の塔」の小窓からしか世間を見ようとしないで、その高見からしかものを言わない。


 政治は、あてものクイズではない。


 政治家の言葉と、評論家の言葉には、権力の裏づけという違いがある。


 権力を握ったものの言葉には、それを実現する力がある。評論家の言葉はどこまでいっても無責任だ。


 政治家が、評論家のようにしゃべりだせばどうなるか。


 今の政権のようになるのだ。


 言葉が空前の軽さで発せられて、それが力を持ってしまっている。その危うさの上に日本の政治が乗っかってしまったこと。

 小沢はとんでもないと思うが、それでも一年生議員を教育しようとする気持ちはわからないでもない。ピーチクパーチクしゃべくってばっかりでその言葉の影響がどこまで広がるのかわかっていない。しかし、その当の御仁が、口を開けばとんでもないことしか言わないのだから、何をかいわんや。


 言葉の軽さ。こればかりは、こうして書いている自分も、その責めを免れないのだが。 

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2010年2月15日 (月)

週刊新潮に、トヨタは生贄、という記事が掲載された(H22.2.18号)

 異常なまでのトヨタ叩きである。

 アメリカにおける官民上げてのトヨタ潰しは、鳩山政権の普天間基地移転問題の意趣返しか、というものだ。

 トヨタが日本のものづくりの信頼性の象徴的企業であることは論を待たない。

 世界に誇る日本企業である。そのトヨタが、袋叩きとも言えるような未曾有のバッシングにあっている。

 アメリカが民主党政権であることも関係があると言われる。

 伝統的に、共和党政権は、親日的傾向があり、民主党政権は、日本軽視ないし嫌日的(親中的)傾向がある、といわれる。

 日本では、「オバマブーム」に酔い痴れていたが、日本を対等なパートナーシップの相手として見る共和党よりも、日本を軽んじ中国と手を組もうとする民主党を応援するという、倒錯した光景だった。

 日本でも、民主党政権が生まれた。同じ民主党とて、「日本を軽んじ、中国と手を組む」という傾向が同じなのであろうか。

 アメリカ大統領に 「トラスト ミー」と言った翌日に、その「トラスト」を裏切るという首相を持ってしまった日本の不運。

 トヨタ叩きを行くところまで行かせて放置する姿勢の、民主党 オバマ政権。

 奇しくも、日米両国の民主党が示し合わせたように、「日本」叩きに走っている、かのようだ。

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2010年2月14日 (日)

石巻市の殺傷事件

 石巻市で、18歳の少年が、元交際相手の17歳の少女を連れ去り、その際に、姉とその場に居合わせた友人ら二人を殺傷した事件が起った。

 18歳の少年と、17歳の少女の間には、4ヶ月になる赤ん坊が生まれていた、という。

 同棲していたが、少年が暴力を振るうので、少年のもとから逃げて自宅に戻り、警察とも相談をしていた、という。


 当たり前のように、未成年の男女が同棲をし、子供をつくっていること、そのこと自体がこの事件の背後に広がる闇の深さを感じさせずに置かない。


 そして、家庭の機能不全。父親不在。けじめのなさ。

 一方的な加害・被害というような図式で割り切っても、何も見えてこない。


 少年の苛立ち、焦燥、そして直接行動、短絡的かつ独善的、未熟な行動。稚拙な犯行。


 少女側にしても、姉やその友人に頼って逃れようとする、その未熟さ。


 結果として、当事者の二人は生きていて、二人の人が死んだ。


 未成年の少年少女の同棲を許した社会のあり方が、先ずは問題とされなければおかしい。

 そして、少年少女ともに、家庭が機能していなかったのだろう。家族を守る意思が、余りにも希薄に見える。


 セックスが蔓延する社会の中で、このような悲惨事に至らなくても、様々な悲喜劇が日常茶飯に生起しているのだと思われる。


 性が、余りにも人間の本性に基づく欲求であるがために、そのコントロールは人類の歴史と共に課題であり続けてきたのだと思う。、


 本能的な欲求であるがために、それを単なる禁欲で押し留めることは出来ない。


 しかし、それをコントロールする道筋というものが、人類の文化の中で、生き方として、智恵として蓄積されてきている。文化の力が衰弱している。人間の生き方を問わない戦後の教育の中で蔓延した、暴走する性のなれの果てといっていいのだろう。


 食欲は、それなくして生命を維持できない、本質的な欲求であるが、その発現を、のべつ幕無しに満たすようなことは否定される。飽食が生命力を減退させることも当然のことである。一定の抑制があって、食欲を満たすルールというものは確実に存在しているだろう。

 性欲も、それと同様に、一定の抑制がなければならない。責任が生じる。


 性の放縦が言われて久しく、いまや、そんな警鐘自体が意味を成さないほどになっているといっていいのだろう。


 その中にあって、子供がまともに成長することのできるシステムが、確実に蝕まれていること。


 子供が子供を生んで、育てることが出来ない。そして、感情のコントロールが制御できず、身勝手な行動に、短絡的な行動に出る。全ての責任を他者に押し付け、自分だけはふてくされている。

 人間の成熟に不可欠な何かが、そこには欠けているのだ。

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2010年2月 6日 (土)

「ローマ人の物語」の中で、一番不気味で、心に残った言葉

 最近、思い当たることだらけなのだが、塩野七生氏の大著「ローマ人の物語」の中で、一番不気味で、心に残った言葉は、初代皇帝アウグストゥスを評した言葉だ。

●一つ一つは完全に合法でも、それを積み重ねていくと、共和制ローマからは、違法としか言いようのない、帝政となる

というものである。

 ローマ史というのは、以後の世界の歴史の中で、様々な素材を提供した歴史であるが、共和制から帝政への移行がいかになされたか、ということについても、興味深い史実を提供してくれるといえるだろう。

●人は、見たいと思う現実しか見ないもの

という言葉も、至言であろう。


さて、外国人地方参政権付与法案の問題であるが、現状のままでいけば、成立してしまう可能性は高い。

何と言っても、衆議院において多数を占める政権与党の民主党の幹部が口をそろえて、今国会での提出と成立に言及しているのである。

共産党、公明党、社民党、そして自民党の一部までもが、この法案の大まかな方向性では賛成しているのであるから、もはや国会に提出されれば成立するしかないというのが数の論理であろう。

しかし、法の論理からすれば、憲法第15条違反であることは明白で、参政権という国の政治に参与する権利が、国民固有の権利であることを、真っ向から踏みにじるものであり、到底容認されるものではない。

既に、憲法学者の間において、憲法違反との認識は共通となっている。


自衛隊については、憲法9条を巡る解釈論議のタネは尽きることがないが、憲法15条については議論の余地はもはやない。


外国人地方参政権。それに、「地域主権」という言葉が加わるとどうなるか。「主権」を持った「地域」の「参政権」により、「独立」なり「日本国からの離脱」が決議されたら、一体どうなるか。


ある民主党の国会議員と、この問題について議論したとき、2つの点を主張していた。

1、地方議会の選挙は、国政とは全く関係がなく、国政への影響はない。

2、「外国人地方参政権」の問題は、日本人の「寛容」が試されている問題だ。

その人物を決して買っていないわけではなかったので、大きな失望を味わったわけだが、何れも全くの詭弁である。

地方選挙が国政選挙と全く関係ないなど、どの口が言わせるのであろうか。

本当にそう思うなら、地方選挙の応援などすべきでないし、また地方議員からの応援など絶対に受けてはならないだろう。しかし、実際にはそのどちらも当たり前になされているではないか。そしてそれは当然のことである。

「寛容」という言葉の意味を履き違えているとしか思えない。

人の失敗や我儘に対して、多少のことは大目に見る、というのは「寛容」といってよいだろう。

しかし、自分の家のことについて、あれこれと干渉する権利を与えることを「寛容」の一言で許せるとでも言うのだろうか。自分の女房を寝取られて「寛容」でいられるのだろうか。自分の家の財産を掠め取られて「寛容」で居られるというのだろうか。それはもはや「寛容」とは言わない。

国家というものに対する意識が、政治家の中にあまりにも低すぎるのではないか。


政治家だけではない、国民のなかにも、国家という意識は低い。そのつけが、「外国人参政権」という売国法案なのだが、国民の中には、皮膚感覚で、とんでもないことだという意見は根強くある。


政治家となる人間たちの資質が、余りにも利権に走りすぎていたのではないか。うんざりなのだが、それで政治離れなどということになると、もっととんでもないことになる。


庇を貸せば、母屋を乗っ取られる。


一つ一つが完全に合法であっても、それを積み重ねていくことで、非合法としかいいようの無い実態をつくりだすことが出来る。


気がついたら、日本という国が、似ても似つかない国になってしまっていた、ということになりかねない。


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2010年2月 4日 (木)

4か月ぶりの更新

 政権交代という名の革命もどきが起こり、書くべきことはあまりにも多かったが、とても書く気力も萎え果てて4カ月もこのブログをネグレクトしてしまった。

 気まぐれは良くないが、この4カ月の心跡百変の軌跡は、自分でも愉快なものでなく、日本の浮沈が思われて少しの余裕もなく過ごしてきた。

 屋山太郎氏の民主待望論があり、官僚内閣制から議院内閣制へ、という話し、つまりは官僚主導から政治主導へ、という掛け声は決して間違いではない、というよりもその通りと言ってよかったわけだが、政治主導というよりも単なる官僚いじめのように見えてしまう。事務次官会議を廃止したのは良かったが、それで官僚支配からの脱却が成ったわけではない。

 肥大化した行政機構が、組織維持を自己目的として、本来の使命を見失ってしまうところに、官僚支配の深刻な問題があるのだと思う。個々の優秀な官僚の方々からしても、その持てる力を十全に発揮させてくれる政治家が中々現れない中、日々勃発する課題の処理に追われて行くということもあるのではなかろうかとも思われる。

 問題の本質を見抜き、組織機構を大胆に改編する能力は、政治家に求められるものだ。既得権益=しがらみにとらわれて、本質を見誤るなど、真の政治家にあってはならないことなのだと思う。


 この間に起こった問題には、一体日本という国をどうしようとしているのかという深刻な不安に駆られるものが少なくなかった。

 中国詣でもその一つだが、とりわけ、一か月ルールを無視した小沢幹事長のごり押しによる、中国国家副主席習氏の 天皇陛下への謁見の件は、最も深刻に受け止められた。今後、何があろうとも、このことだけは許せないという事件だった。

 民主党政権の成立は、いわば「戦後」の一つの帰結ともいえるものだと思われるが、いわゆる自民党政治が良いというのではない。国の根幹を蝕む要素を、自民党政治そのものが孕んでいたのだと思う。

 日本は、真に国民のための政治を、一体いつになったら持つことが出来るのだろうか。

 国民のための政治とは、国民の本質が何であるかを把握していなければ出来得べくはずもない。

 国民とは何か。単なるヒト科の動物の集まりではない。歴史と伝統と文化にはぐくまれた縦軸の中にこそ見出されるべきものである。

 帰化の要件にしても、国への忠誠義務や、国防の義務、そして歴史を受け入れること、伝統との調和などがあってしかるべきだ。

 今はまるで免許証でも取るかのような手続きのみが国籍取得の手続きなのだそうだ。

 国籍の重みを、日本人自身が忘れてしまっているのだとすれば、国民の存立自体が極めて危ういことになる。

 
 日本人であるという自覚、日本人として恥ずかしくない生き方をしなければという自覚。

 それは自然に生じるものであるかもしれないが、それを自覚なり覚悟というものに育てていくには、教育が大きな役割を果たす。その教育の現場において、一体どれだけ日本人であることの自覚がはぐくまれているだろうか。誇りが培われているだろうか。

 それなくして、国籍の重みも、国の重みも分からないだろう。そして、他国の国益に乗じられてやすやすと無自覚の売国奴となり果ててしまうのだ。そんな売国奴がじわりじわりと増殖しているのが現在の日本ではないのか。

 まるで死と腐敗が静かに進行して行くかのようである。

 しかし、決してそのまま朽ち果てさせてはならない。日本はそんなチンケな国じゃない。必ずまた清新な意気に燃えて、再生する日が来る。そのために、日本とは何か、日本の誇りとは何かを語り続ける必要があるのだ。


 そんなことが、思われてくる昨今であります。

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