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2009年7月

2009年7月25日 (土)

民主党の卑劣  「現実路線」と「非現実路線」  または独立失墜

 「現実路線」などという言い方を、マスコミはする。

 確かに、インド洋への自衛艦派遣と給油活動の継続は、我が国の国益にかなう国際協力であり、シーレーンの安全保障、また世界各国と伍して我が国の威信を保つための不可欠の要素であり、それを政権交代を目指そうという公の党が「容認」する考えを示したことは、まあ、安心材料の一つではある。


 しかし、待てよ。


 政権を放り出したといわれ非難の的となった安部首相を追い込んだのは、まさにこのインド洋の特別措置法に反対した民主党ではなかったか。


 志半ばに倒れた安部首相の後を継いだ福田首相が、衆議院の三分の二の勢力で、参議院の否決を覆してかろうじて国際的な孤立を免れたことを、忘れることはできない。


 今になって「現実路線」に転じる、ということは、これまで民主党が打ち出してきた「政策」は、「非現実路線」だったということになる。


 それは、国益を人質にした、悪質を極めた政争のための、ためにする論議だった、ということを、自ら認めたということなのである。


 民主党が、「現実」路線に舵を切りそうだと、無邪気に喜んでいる無邪気な保守層がいるのかもしれない。自民党には愛想が尽きた。民主党には不安はあるが、ちょっとは改心してくれたか、と。


 お人よしは、日本人の土性骨に染みついた根性だから、そうそう改まるものではないが、悪い男にもてあそばれる女のような(その逆もあるが)、情けない、みっともない姿勢で、この国の命運を左右されてたまるか、という気がする。


 民主党は、「したたか」なのか。


 その「したたか」さは、一体何のためなのか。

 「政権交代」を実現したら、また、さらに次なる「現実路線」を打ち出して、全く別の「政策」を、いけしゃあしゃあと国民に押し付けてくるのではないか。


 それは、「外国人参政権」や、「人権弾圧法」や、一千万人移民促進策や、北朝鮮への宥和政策や、家族解体を促進する「別姓」や「ジェンダーフリー」の徹底、教育の日教組支配などなど、危険な要素は枚挙にいとまがない。

 忘れてならないのは、民主党の国会議員の背後にあって、民主党の組織内にうごめく、旧社会党出身の専従職員たちである。彼らは選挙の洗礼を受けることはない。国会議員秘書は、自民党にあっては国会議員の手足であるが、旧社会党にあっては、その逆であるケースが多々あった。国会議員は、組合の意向を体して送りこまれた秘書の手足であると言っていた民主党の国会議員秘書の話を直接聞いたことがある。

 自民党はまだ分かりやすい。しかし、民主党は正体不明だ。少なくとも影に隠れているものが危険過ぎるのだ。

 国内勢力だけでないことは明白である。つまり、民主党政権の誕生は、その実、政権交代ではなく、外国への主権委譲になりかねない、ということだ。それは、日本の国家としての独立を損なうことを意味する。


 少なくともその疑念が払しょくされない限り、どんなに情けなかろうが、自民党にしっかりせよというしかない。
 

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全体主義の淵に沈む広島の「閉ざされた言語空間」

 前記事に続く

 広島において、市長の秋葉氏が、一民間団体の主催する講演会に対して、「日程変更要請」を行った。

 それに触発されたのかどうかはわからないが、色々な団体が、同趣旨の抗議を繰り返している。

 先日など、街頭で、何かに憑かれたかのように喚き散らすやや年かさの女性が映し出されていて、一種異様な、いやらしい感触があった。

 さて、秋葉氏もそうだが、大体一連のこの種の人々の姿は、殆どカーボンコピーのように一様で、のっぺりとしている。

 広島には、一種独特の空気がある。

 異論を許さない、異様な、こわばった「言語空間」である。

 「平和」と「原爆」が並ぶと、もう絶対である。

 「原爆許すまじ」といいながら、一種の「原爆信仰」のような異様さがにじみ出てるのだ。

 原爆の威力は確かにすさまじいものであった。その暴力は、人間のすべての営みを破壊し、善意を踏みにじり、人道をあざ笑うものであった。愛も正義も何もかもが、そこでは無意味に感じられた。

 ホロコースト。

 これが、原爆投下に対して形容するのにふさわしい唯一の言葉であろう。

 非人道的兵器であり、戦時国際法(ハーグ陸戦法規)に明白に違反する、大量破壊兵器である。

 昭和20年8月12日。当時の大日本帝国政府は、ジュネーブを通じて抗議声明を発表している。これが、原爆投下に対する、我が国の立場を最も明瞭に示したものである。


 さて、この立場は、秋葉氏やその他の団体の立場と同じだろうか。論じるまでもなく、全く違うのである。これらの人々は、一律に、日本を侵略国家と断罪し、戦後体制を謳歌する人々である。原爆は、彼らの正当性の主張の最も根底にある、信仰の土台なのだ。彼らは、日本が「唯一の被爆国」であるというフレーズを金科玉条とし、それは、20世紀の神話よろしく、戦後神話として人々の頭に刷り込まれてきたのである。


 「宗教はアヘンだ」というドグマに毒された一連の人々は、代替宗教として、「原爆」を見出した、教義として「平和」を唱えた。そして、それに少しでも疑義を挟むものには、精神的、物理的な「暴力」を以て圧殺することを旨としてきた。

 これは、実は立派な全体主義なのである。

 全体主義は、宗教を排除した、世俗の政治主義の中にあって、聖なるものを回復しようとする歪んだ営みである、といえるかもしれない。

 だから、全体主義には、次のような臭気が付きまとうのである。

 Wikipediaの「全体主義」項目から、気になる部分を抜粋してみると、広島において、現在進行形で起こっている、秋葉氏をはじめとするある種の団体の動きに、ぴたっと一致することを見て取ることができる。(わかりやすいように編集しています)

・ユートピア的イデオロギーによって正当化されることが多い。

・批判勢力の口を封じるうちに、集団の中心人物・中心グループが集団を私物化。

・解決策を示す事ではなく、判り易い「大衆の敵」を作って攻撃し「支持」を集める。

・基本的に、善意を装って生まれる。

・しばしば新時代への希望が喧伝される。

・完全主義の人々が主導力となる。

・大衆の好意を獲得しやすい。

・異端を排除する度合いが、徐々にエスカレートしていく。


 日頃、憲法を尊重する、といってるはずの人々が、基本的人権の核心の一つである「思想・信条の自由」や「言論・表現の自由」を、こともなげに踏みにじっていく姿を見ていると、なるほど、これが「いつか来た道」というやつか、と思われてくる。これは、「ファシズム」なのかもしれない。


 あるひとつの平和についての考え方がある。

 再び、政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されないように、という憲法前文にある思想である。

 これは、政府の不作為による被侵略の惨劇が引き起こされることは想定されていない。そうしたことを想定すること自体が、戦争への道、ということになるのだということになる。

 これが、憲法崇拝者(憲法カルティスト)の思想の論理である。

 今、広島で起こっている状況が、一種のカルトだと思えば状況はよく理解できる。

 憲法カルティストらは、9条を守れば、平和になると、本気で信仰している。そして、その信仰を世界に伝道しようという情熱に駆られているのである。

 こうした状況をもっともほくそ笑んでいるのは一体誰か。

 いうまでもなく、中国・北朝鮮の独裁者である。

 そして、もうひとつ、見落とせないのは、ある種のアメリカなのだ。

 秋葉氏は、平和市長会議のために、よく渡米する。

 その際、随行者は当然いるのだが、米語ペラペラの秋葉氏は、通訳も通さず、随行者にはよくわからないままに、しゃべるのだそうだ。それはインテリ市長の能力の高さと言ってしまえばそれまでだが、外交交渉においては、どんなに外国語ができようと、いうべきことは自国語で述べ、プロの通訳を通じて的確に交渉相手に伝えなければならない。それが、独立国の公人の誇りであろう。そんなものは、微塵もないのだ。

 これはひとつの仮説なのだが、広島の核廃絶運動というのは、実のところ、「日本の」という接頭語が隠されているのではなかろうか。つまり、日本にだけは断じて核を持たせない、とういアメリカの強い意志が背後にある、ということである。

 これは、論理的には実にシンプルである。ハンムラビ法典を持ち出すまでもなく、原爆を投下したアメリカは、報復されることを恐れている。報復の権利を主張し得るのは、日本以外にはない。だから、反米を装いつつも、核廃絶を言わせることによって、アメリカの安全保障を確保しているのだ、と。


 原爆資料館をつかさどる、財団法人広島平和文化センターのリーパー理事長は、アメリカ人である。このご仁は、就任の際に、以下のようなことを言い放ち問題になった。

 「原爆投下を「日本の植民地支配から解放した」と肯定する考え方が根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」

 これにはさすがの広島市民も怒ったが、わけのわからない弁明だけで、マスコミも追及するところがなかった。

 この人物を理事長にしたのは、秋葉氏である。


 つまり、広島には、「原爆投下を肯定する」考え方には理解を示す言論の自由は、これを保障する、としているのである。なるほど、広島市民と市長は懐が深い、と世界から感心されたことだろう。


 事実は、逆であるのだが。


 もっとも悪質な欺瞞の下に、今、広島は、全体主義の淵に沈んでしまっている。


 その見えない「閉ざされた言語空間」は、考えることさえも放棄した、真の奴隷を生み出す役割しか果たしていない。

 そして、少しでも目覚めようとする者に対しては、徹底した差別を加え、レッテル張りをし、葬り去ろうとするのである。


 広島が目覚めるとき、日本が目覚める。日本が目覚めるとき、真の世界平和への重い扉が、開かれるのではないか。

 私は、従来の広島の「平和」運動を信じない。

 なぜなら、彼らは、「日本が唯一の被爆国」だと宣伝している。

 その影で、声もあげられずに虫けらのように殺されていった、植民地支配下の被爆国が今も存在するからである。

 その声を隠蔽してきた広島の「平和」運動は、もはやその名を名乗る資格はないのだ。

 真の平和運動は、この過去の過ちを繰り返さないと誓うところからしか始まらないのだ。

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2009年7月 5日 (日)

喧騒たる広島の8.6

 8月6日の早朝、広島平和都市記念碑(いわゆる原爆慰霊碑)の前には、遺族の方々の姿がある。その祈りはまさに「広島の平和の祈り」に相応しい姿をもっている。

 ところが、その後行われる、「平和式典」はどうだろう。

 全国から集まった、チュウリップハットを被った、平和団体の人達が並ぶ。

 そして、また、左翼過激派の面々は、粉砕デモを行って、平和公園外で阻止され、排除されている。

 まことにもって喧騒を極めた一日となる。

 そのあとに平和公園に散らかるゴミは、広島市は、市民の税金で片づけるのだろう。

 もちろん、各所において、人々が犠牲になった場所に建てられた慰霊碑の前で行われる慰霊行事の雰囲気は、早朝のそれと同じものがあるのである。

 なぜこのような違いが生じるのか、不思議でならない。

 左翼過激派のデモに対して、広島市長は、「被爆者や原爆死没者の遺族をはじめとした多くの広島市民の心情にご配慮をいただき」ご遠慮願いたいの一言でも言ったことがあるのだろうか。少なくとも、広島市のHPにはないようだ。

 田母神氏の講演会が開催されるのは、8月6日の夕方6時からである。

 つまり、平和式典も、様々な慰霊祭も、大体終わって、後は、灯篭流しが行われる頃の時間帯である。

 しかも、「真の平和構築の道」を考えるというのが講演会の趣旨である。

 講師が気に入る、気に入らないは、それぞれあるだろう。個人の嗜好にまで他人がとやかく言うことはない。

 しかし、「ヒロシマ」の平和を疑うことが、そんなに悪いことなのだろうか。

 「ヒロシマ」というあえてカタカナで書かれた場合、それは特定の考え方に基づくものである。「広島」ではないところが味噌であろう。「ヒロシマ」の平和とは、たとえば、「原爆が落とされたのは、日本が侵略戦争を始めたからである」とする考え方である。これが原爆投下容認論の一歩手前の考え方であることは、議論するまでもない。これが「ヒロシマ」の平和である、とすれば、これを「疑う」という表現は、何と控え目なことだろうか。かつて、長崎市長だった本島氏が、「広島よおごるなかれ」という論文を書いて物議をかもした。しかし、本島氏と同じ土俵に立っていた多くの「平和」団体の反論は歯切れが悪かった。あれはトンでもない内容の論文だったが、カタカナの「ヒロシマ」の歴史認識と、大きくずれているとは思えない。

 これを疑って、何が悪いのだろうか。

 真の平和を構築するための道を考えることが、被爆者の方々や、原爆死没者の遺族の方々の耐えがたい悲しみを誘発するという、その一方的な決め付けは、どこから出てくるのだろうか。それはあるいは、市長が、元々、いわゆる被爆7団体の一つの会長だったことから来るのかもしれない。

 広島の平和の祈り、それはわかる。しかし、「ヒロシマ」の平和はわからない。それが、自分の率直な実感である。

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