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2008年12月 7日 (日)

村上和雄先生の「人生の暗号」を読了

 広島駅にふたば図書の古書専門店がある。

 この間ふらったと立ち寄った際、105円コーナーで手にしたのがこの本。

 一度だけ、お目にかかったことがある。昨年のことである。

 といって、言葉を交わしたわけではない。

 ただ、半径一メートル近くにたまたま近づき、お顔を拝見したに過ぎない。

 以前から、色々と先生の話しを聞く機会があり、いつか読んでみたいと思っていた。

 それで、手にとって拝読したわけだが、一々納得できることばかりだった。

 近代社会の基盤にはダーウィンの進化論があること、生存競争が繰り返される中で生物が発展してきたとするそのモデルの行き詰まりが、現在、このままいけば世界を滅ぼしかねない様々な事象につながっている、ということはなるほどと思った。

 そして、ダーウィンの進化論を超えた、共生的進化論について、実に興味深く思えた。

 地球生命体論(ガイア仮説)もその一つだという。

 単細胞生物が、協力しあって合体し、より複雑な生命現象を展開することが出来るようになったという説は面白い。

 現代の競争が全てで、勝者と敗者が鋭く対立するような社会は、どこか間違っているのだ、というのは深く納得できることだ。

 「思いやりの心」「人のことを慮る心」など、昔はそれがなければ一人前の人間と見做されなかった事柄が、今の教育からすっぽりと抜け落ちていることに気がつかされる。

 コンピューターがはじき出したという、最後まで生き残る人間はどういう人間か、という問題に対する解答が、「他に譲る人間」というものだったという。

 日本が、建国以来二千六百年もの歴史を継続して来れたのは、正にこの「譲り合いの心」がベースにあったからではないか、と思えた。

聖徳太子の十七条憲法第十条に

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。
引用元

とある。

 聖書の言葉にも、「柔和なるもの、そのものは地を継がん」とあるが、「柔和なるもの」とは、正に人に譲る心を持つ人のことではなかろうか。

 近代以後の世界には、色々な問題が含まれているが、ダーウィンの進化論的世界観がその根にあるということは示唆的である。今流行りの「人権」問題などもその一つかもしれない。「人権」概念は、結局、人と人とが角を突き合わせるという前提から始まるように思える。ここに、東洋の「身を殺して仁を為す」などという王道精神が成立する余地はない。

 人間の遺伝子のスイッチが、ある形で一定のオン・オフ状態にあるのが、近代以後の社会のありようであり、そのスイッチの入り方が替れば世界も変わる、といえるのかもしれない。

 他者を喜ばせるところに生き甲斐がある、というフレーズで思い出したのは、熊沢蕃山の言葉である。小人の特質17か条の中に、小人は自分のことしか考えない、とある。

 昔の人は偉かった。

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