天皇信仰は個人崇拝ではない
「天皇信仰」という言葉を聴く機会は、殆どないといってよいだろう。
40~50代の大人でも、耳にしたことがない人々が殆どではないか。
そして、この言葉を耳にした時、天皇個人を崇拝するカルトではないか、というような全く見当違いの捕らえ方をする人が多いと思われる。
大東亜戦争のことについて理解を示す若者たちでも、天皇についての理解には更に越え難い壁があるように思われる。
今の北朝鮮の状態を、戦前の天皇制絶対主義下の日本のようだ、などと確信犯左翼が言えば黙ってしまう無思想保守なども、結局は何もわかっていない部類に属するだろう。
明治以降の日本は大発展を遂げ欧米列強に追いついたが、金日成の個人崇拝を核とし、科学的社会主義を奉じてきた北朝鮮は、何百万もの餓死者を出し、世界に稀に見る収容所国家を作り上げただけだった。
天皇への畏敬の念は、素朴な国民感情に基盤を持っていたし、天皇は常に神を祭り祖先を祭る典型的な日本人であり、国民もそのことを熟知していた。
明治天皇が出された教育勅語は、明治天皇自らが率先してこの徳目を守るので、国民もそれに習って欲しい、というものであり、一方的に国民に押し付けたものではなかった。そのことは、昭和天皇、今上天皇にも受け継がれていると見てよい。現在、教育勅語の教えを最も忠実に御守りになられているのは、ほかならぬ今上天皇であることは間違いない。
比べるのもおぞましいので止めるが、20世紀の独裁者たち、政治指導者たちとは全く異質な別次元、高次元のお方が日本の天皇なのである。
天皇の生活は、神祭りに始まり神祭りに終わる。最も厳粛な神官のそれである。そして、国家の象徴としてのご政務にも徹底して取り組まれている。御名御璽がなければ法律も発効しないということの意味を、改めて考えてみる必要がある。日本は、今尚、天皇の治らしめす国なのである。
常に国民の幸福と世界の平安を願い、祈り続けられる存在が、世界のどこにあろうか。
天皇信仰とは、その天皇の祈りを敏感に感じ取り、自らもまたその祈りを自らのものとして日々の生活に生かすことを言う。天皇とは、当今御一人のことのみを仰ぎ奉るのではない。その奥にご歴代の天皇方、そして皇室の祖先神、皇祖神であられる天照大御神(あまてらすおおみかみ)を仰ぎ奉ることを本旨とするのである。だから、天皇は、現人神と言うのである。
本質的に、天皇の信仰は神道であり、天皇信仰は神道の中核といってよいと思う。その由来は、有史以前に遡り、悠久の太古にまで至るであろう。
天皇は、独裁者ではない。天皇は、祭り主なのである。
政治的な権力の行使者ではなく、より高い次元から国民全体をみそなわし、国と国民のために良かれと祈られる存在なのである。時の為政者は、天皇の祈りを無視して欲しいままに権力を濫用することは戒められる。これが、日本の歴史上、独裁者が出現しない政治統治のあり方なのである。
時の政府の暴虐に対する抵抗の拠点は常に皇室であり、天日を覆う雲を払うという念慮の下に、政治の腐敗は正されてきたのである。天皇は常に国民と共にある存在であり、それが日本国民の誇りでもあるのだ。
日本に天皇あり。
それが、日本が世界の中に立つ大きな誇りなのだ。
吉田松陰が、成人する甥に与えるために書いた「士規七則」には、人間が動物と違う依って来る理由、日本が世界の他の国々と違う理由を述べている。人間には人倫があること、日本には万世一系の天皇があり、君臣の道が正しく行われていること、としている。
今、不景気で生活が苦しいという。確かに大変だと思う。
しかし、だからといって、皇室に弓を引くような言辞を垂れるものがいるならば、少なくとも自分にとっては不倶戴天の敵である。
罪あらば吾を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば
大逆を侵そうとして捕らえられた幸徳秋水らの社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製だ。
自分を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇という存在なのだと、知って欲しい。
衆生仏を億念すれば、仏衆生を億念し給う、という言葉がある。
天皇は常に国民の上を祈られているのである。順番は逆になるが、全く同じことである。
天皇の祈りに波長を合わせよう。それこそが、本当の世界平和への道でもあると信じる。
それが、天皇信仰の内実なのである。
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