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2008年12月

2008年12月 8日 (月)

天皇信仰は個人崇拝ではない

 「天皇信仰」という言葉を聴く機会は、殆どないといってよいだろう。

 40~50代の大人でも、耳にしたことがない人々が殆どではないか。

 そして、この言葉を耳にした時、天皇個人を崇拝するカルトではないか、というような全く見当違いの捕らえ方をする人が多いと思われる。

 大東亜戦争のことについて理解を示す若者たちでも、天皇についての理解には更に越え難い壁があるように思われる。

 今の北朝鮮の状態を、戦前の天皇制絶対主義下の日本のようだ、などと確信犯左翼が言えば黙ってしまう無思想保守なども、結局は何もわかっていない部類に属するだろう。

 明治以降の日本は大発展を遂げ欧米列強に追いついたが、金日成の個人崇拝を核とし、科学的社会主義を奉じてきた北朝鮮は、何百万もの餓死者を出し、世界に稀に見る収容所国家を作り上げただけだった。

 天皇への畏敬の念は、素朴な国民感情に基盤を持っていたし、天皇は常に神を祭り祖先を祭る典型的な日本人であり、国民もそのことを熟知していた。

 明治天皇が出された教育勅語は、明治天皇自らが率先してこの徳目を守るので、国民もそれに習って欲しい、というものであり、一方的に国民に押し付けたものではなかった。そのことは、昭和天皇、今上天皇にも受け継がれていると見てよい。現在、教育勅語の教えを最も忠実に御守りになられているのは、ほかならぬ今上天皇であることは間違いない。

 比べるのもおぞましいので止めるが、20世紀の独裁者たち、政治指導者たちとは全く異質な別次元、高次元のお方が日本の天皇なのである。

 天皇の生活は、神祭りに始まり神祭りに終わる。最も厳粛な神官のそれである。そして、国家の象徴としてのご政務にも徹底して取り組まれている。御名御璽がなければ法律も発効しないということの意味を、改めて考えてみる必要がある。日本は、今尚、天皇の治らしめす国なのである。

 常に国民の幸福と世界の平安を願い、祈り続けられる存在が、世界のどこにあろうか。

 天皇信仰とは、その天皇の祈りを敏感に感じ取り、自らもまたその祈りを自らのものとして日々の生活に生かすことを言う。天皇とは、当今御一人のことのみを仰ぎ奉るのではない。その奥にご歴代の天皇方、そして皇室の祖先神、皇祖神であられる天照大御神(あまてらすおおみかみ)を仰ぎ奉ることを本旨とするのである。だから、天皇は、現人神と言うのである。

 本質的に、天皇の信仰は神道であり、天皇信仰は神道の中核といってよいと思う。その由来は、有史以前に遡り、悠久の太古にまで至るであろう。

 天皇は、独裁者ではない。天皇は、祭り主なのである。

 政治的な権力の行使者ではなく、より高い次元から国民全体をみそなわし、国と国民のために良かれと祈られる存在なのである。時の為政者は、天皇の祈りを無視して欲しいままに権力を濫用することは戒められる。これが、日本の歴史上、独裁者が出現しない政治統治のあり方なのである。

 時の政府の暴虐に対する抵抗の拠点は常に皇室であり、天日を覆う雲を払うという念慮の下に、政治の腐敗は正されてきたのである。天皇は常に国民と共にある存在であり、それが日本国民の誇りでもあるのだ。

 日本に天皇あり。

 それが、日本が世界の中に立つ大きな誇りなのだ。

 吉田松陰が、成人する甥に与えるために書いた「士規七則」には、人間が動物と違う依って来る理由、日本が世界の他の国々と違う理由を述べている。人間には人倫があること、日本には万世一系の天皇があり、君臣の道が正しく行われていること、としている。

 今、不景気で生活が苦しいという。確かに大変だと思う。

 しかし、だからといって、皇室に弓を引くような言辞を垂れるものがいるならば、少なくとも自分にとっては不倶戴天の敵である。

 罪あらば吾を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば

 大逆を侵そうとして捕らえられた幸徳秋水らの社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製だ。

 自分を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇という存在なのだと、知って欲しい。

 衆生仏を億念すれば、仏衆生を億念し給う、という言葉がある。

 天皇は常に国民の上を祈られているのである。順番は逆になるが、全く同じことである。

 天皇の祈りに波長を合わせよう。それこそが、本当の世界平和への道でもあると信じる。

 それが、天皇信仰の内実なのである。

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クリスマス、大晦日、お正月

 クリスマスの飾りをする家が、お正月の飾りをする家の数を追い抜いたというニュースを聞いた。

 別に、クリスチャンが増えているわけでもなかろうに。

 サンタクロースの赤いちゃんちゃんこならぬ外套を着て、寒中水泳と洒落るバカもいれば、極ミニスカ型の格好で若い女がふざけている姿もばかばかしい。真面目なクリスチャンなら目を剥きそうな、涜聖的クリスマスである。

 もちろん、もみの木を買って飾り付けをする、家庭も多いのだろう。ケーキを買って家族で食べる。

 何を祝ってのことかは知らない。少なくとも、救世主イエスの降誕を祝ってのことでないことだけは確かだ。

 この空虚な茶番の蔓延は、戦後日本の空疎さと通じている。

 などと、目くじらを立てる方が野暮天であって、そんなことを言っていたら誰からも相手にされないかもしれない。アホどもに相手にされなくても一向に構わないが、さりとて、本当に家庭団欒につながっているなら、それもキリスト様の効用と思っても良いのかもしれない。


 それはともかくとして、大晦日の除夜の鐘を聞きながら、元旦には初詣をするという、日本の神仏混交の目出度い習俗が、クリスマスに圧されて廃れてしまうというなら、それは怖い。

 日本人の中から、日本の習慣や伝統が、どんどん廃れれてしまい、意識の上にも登らなくなってしまうというのでは、最早、在日日本人、元日本人、日本人の格好をした得体の知れない人たち、ということになろう。

 芥川賞を中国人作家が取ったが、見た目は殆ど日本人と変わらない中国人や韓国人が、大挙して日本に押し寄せてきたら、今の日本人は、自分が日本人であるということを、どうやって証明するのだろうか。日本語だってよほどあちらの方が旨くあやつるかもしれない。

 チョー何とかとか、壊れた粗雑な日本語しか使えない連中が、最下層に押しやられていく姿が想像されてならない。体力だって、修羅場を潜り抜けてきた連中の方が強いに決まっている。

 自国の歴史・文化・伝統を身に付けていない人間は、侵略に抵抗することは出来ない。動物とそれほど違わないのである。事実、野生動物よりもはるかに下品な文明社会にうごめく人間群像は、何と表現してよいか分からない。

 お正月を迎える。年神様を迎える。数え年で国民がみんな一緒に一つ年を取る。

 そんな国民同胞感の溢れるお正月を回復したいものである。

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マンガ宰相に寄せて

 大正時代の面白い話しを聴いたことがある。

 100年後の世界はどうなっているか、ということを学者や作家、政治家や実業家などに書かせてまとめた本があるのだそうだ。

 その中で、漫画家(当時、そんな職業が成立していたわけではなかろう。風刺挿絵家かも知れない。しかし、「のらくろ」は戦前のマンガだったよなあ)の描いた世界が、一番現実の100年後に近かった、というのである。


 政治家の発想力の貧困さは、今日目を覆わんばかりであり、学者も似たり寄ったりである。

 この際、マンガ宰相に期待するのは間違いか。

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二番煎じの定額給付金から、共産主義の真の恐ろしさまで

 かつて、地域振興券というものがばら撒かれたことがあった。

 やはり、経済刺激策を銘打って行われたと記憶する。(お目にかかることはなかったが)

 それが、現実には、公明党への資金供与になったという話を聞いたことがある。

 からくりは簡単だ。公明党の支持母体の宗教団体が掛け声一下、信者からこの地域振興券を巻き上げた、というのだ。

 本当かどうかは知らないが、それが選挙対策資金になったとするならいかがなものか。

 今回は、現金をそのまま配ろうというのだから、話しはもっとストレートだ。

 来年7月には、公明党の支持母体の宗教団体の認可を出している東京都の都議会議員選挙がある。ここで一定の議席を獲得しなければ、宗教団体としての認可取り消しということが有り得ないでもない、という。

 公明党にとって最大のテーマは国政選挙よりもこちらの方だと、口の悪い民主党支持者は言っている。

 当然、総選挙と重なってはまずい。なぜなら、一生懸命に選挙運動をする、というだけならまだしも、全国から、この都議選を目掛けて、移民の波が押し寄せる、という話しもあるからだ。選挙が終われば元に戻るのかもしれないが、そうなると、自民党への選挙協力といっても何も無くなる。これまでもどこまでやっていたか怪しいものだが、物理的に不可能になるということが誰の目にも明らかになるのだ。そうなれば、当然、自公の選挙協力は成り立たなくなる。濡れ落葉のような癒着関係も少しは裂け目が生じるかもしれない。

 自公決裂は、時間の問題ともいえる。その時、自民党は分裂するのか、そして、民主党は政権を奪取するのか。

 民主党の中には相当な隠れ共産党が入り込んでいるという話しもある。とすれば、いまどき流行らない実質的な容共政権が成立するということになる。

 共産主義がなぜ忌避されたのか、共産党が政権を奪取した国では、必ずといっていいほど大粛清が行われ、桁外れの人民の生命が奪われた。ロシアではソ連邦成立から殺された人数は2千万とも3千万とも言われるし、中国では6千万人とも言われる。共産党が政権奪取する一歩手前まで行ったインドネシアでも大量虐殺が起っているし、カンボジアのポルポト政権のキリングフィールドは有名だ。実に200万人が粛清された。

 なぜ共産主義が人道的なイデオロギーだと思ったら大変な間違いなのだ。

 日本人も共産主義者によって大量虐殺されている。尼港事件がそれである。ボルシェビキによる居留民虐殺は酸鼻を極め、3千名もの無辜の日本人の命が奪われた。日本が共産主義に対して感覚的な反発と警戒感を抱きはじめるきっかけともなった事件である。

 日本の民族性のためか、日本人の共産主義者たちは、諸外国に比べればそれほどの大量虐殺は行っていないが、小規模なものならば「内ゲバ」と称する粛清により虐殺を繰り返してきた。特に有名なものは浅間山荘事件であるが、あれが極大規模で繰り返されるのが共産主義社会であると考えれば間違いない。

 20世紀は、戦争と革命の世紀だった。この二つは付き物であった。平和主義は左翼に利用されているだけであって、本来左翼は平和主義に批判的だった。戦争から革命へ、のテーゼはレーニンのものだが、これは現在尚生きている共産党の隠された一面であろう。

 米ソ冷戦の世界二極分化時代から、アメリカ単独覇権の時代を経て、世界は再び多極的な時代を迎えつつあるという。列強が世界を蚕食し、相互に角逐した、弱肉強食の時代である。生き残りをかけて必死で戦わなければならない時代に突入しても、自縄自縛の日本は、果たして生き残ることが出来るのか。

 二兆円もの金を無駄にばら撒くようでは、先は暗いといわざるをえない。

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2008年12月 7日 (日)

村上和雄先生の「人生の暗号」を読了

 広島駅にふたば図書の古書専門店がある。

 この間ふらったと立ち寄った際、105円コーナーで手にしたのがこの本。

 一度だけ、お目にかかったことがある。昨年のことである。

 といって、言葉を交わしたわけではない。

 ただ、半径一メートル近くにたまたま近づき、お顔を拝見したに過ぎない。

 以前から、色々と先生の話しを聞く機会があり、いつか読んでみたいと思っていた。

 それで、手にとって拝読したわけだが、一々納得できることばかりだった。

 近代社会の基盤にはダーウィンの進化論があること、生存競争が繰り返される中で生物が発展してきたとするそのモデルの行き詰まりが、現在、このままいけば世界を滅ぼしかねない様々な事象につながっている、ということはなるほどと思った。

 そして、ダーウィンの進化論を超えた、共生的進化論について、実に興味深く思えた。

 地球生命体論(ガイア仮説)もその一つだという。

 単細胞生物が、協力しあって合体し、より複雑な生命現象を展開することが出来るようになったという説は面白い。

 現代の競争が全てで、勝者と敗者が鋭く対立するような社会は、どこか間違っているのだ、というのは深く納得できることだ。

 「思いやりの心」「人のことを慮る心」など、昔はそれがなければ一人前の人間と見做されなかった事柄が、今の教育からすっぽりと抜け落ちていることに気がつかされる。

 コンピューターがはじき出したという、最後まで生き残る人間はどういう人間か、という問題に対する解答が、「他に譲る人間」というものだったという。

 日本が、建国以来二千六百年もの歴史を継続して来れたのは、正にこの「譲り合いの心」がベースにあったからではないか、と思えた。

聖徳太子の十七条憲法第十条に

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。
引用元

とある。

 聖書の言葉にも、「柔和なるもの、そのものは地を継がん」とあるが、「柔和なるもの」とは、正に人に譲る心を持つ人のことではなかろうか。

 近代以後の世界には、色々な問題が含まれているが、ダーウィンの進化論的世界観がその根にあるということは示唆的である。今流行りの「人権」問題などもその一つかもしれない。「人権」概念は、結局、人と人とが角を突き合わせるという前提から始まるように思える。ここに、東洋の「身を殺して仁を為す」などという王道精神が成立する余地はない。

 人間の遺伝子のスイッチが、ある形で一定のオン・オフ状態にあるのが、近代以後の社会のありようであり、そのスイッチの入り方が替れば世界も変わる、といえるのかもしれない。

 他者を喜ばせるところに生き甲斐がある、というフレーズで思い出したのは、熊沢蕃山の言葉である。小人の特質17か条の中に、小人は自分のことしか考えない、とある。

 昔の人は偉かった。

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