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2008年1月10日 (木)

小学生高学年から中学生にかけての読書は人生の基礎をつくる、と思う

 産経新聞の正論で、曽野綾子さんが「何より怖いのは、子供たちが本を読まないことだ」と指摘している。

 この「怖い」という感覚は鋭い、と思う。

 自分自身、憑かれたように本を読んだ時期というのは、実は小学生から中学生にかけての時期だった。勿論他愛もないものもあったが、今読み返そうと思っても中々難しいような科学書まであった。

 司馬遼太郎が大阪のある図書館にある本を全部読んだという話がある。勿論、「話」ではあろうが、あらゆる本の背表紙を眺め、大部分の本を引っ張り出してパラパラと眺めたことがある、とするなら、自分にも体験があるとはいえる。

 知的好奇心というのか、活字の面白さというのか、自分の活字中毒の始まりは存外に早かった。

 父から何度か読書についてコメントをもらったことがある。断片的な言葉なのだが忘れられないものである。高校に入ってすぐの頃だったか、父が好きな本を買ってよいと言われたので書店で何冊も物色したが、2冊、と限定されたので、「本居宣長補記」と「孫子・呉氏・六韜・三略」の2冊にした。「本居宣長補記」は、小林秀雄という人物を知っていたための選択ではなく、とにかく昔、国学とやらをまとめあげた大変な学者に本居宣長という人がいるそうな、少し知ってみたいものだ、という程度の思いだったのだが、「本居宣長」はなく、「補記」があったのでそれにした、というまあいい加減なものだ。そのため、小林秀雄の本居宣長を読むのはかなりあとのことになった。その少し後に、山本七平氏の「小林秀雄の流儀」だっただろうか、本居宣長は補記の方が面白い、などとコメントしていたのをかじって、その面白い方なんだな、と思ったりした。いきなり、本居宣長とソクラテスの比較から入るのだが、学校では絶対にお目にかかれない取り合わせにワクワクしたものだ。

 御多分に漏れず、高校の数学で躓いて、理系の道はなくなったのだが、思春期の読書がブルーブックスなどの科学書に偏っていたせいもあって馴染みは深いものがある。

 日本史は高校までまともに勉強しなかった。大学受験は世界史だった。世界史をやると、何でせせこましく日本史などやれるか、という気にもなる。それで日本史を勉強したのは大学に入ってからしかも殆ど独学に近かった。今では日本史の素晴らしさが分かるようになったが、もう少し早い時期から勉強しておきたかった、とは思う。

 平泉澄博士の「少年日本史」が、講談社学術文庫で「物語日本史」上中下で出ているが、それが通史としての国史を実感する上で最上の手引きとなった。小林秀雄氏が、通史を書くには大歴史家の手腕が要る、という意味のことを言っていたのを思い出すが、下手なやつではどうにもならないものにしかならないのだろう。

 話があちこちしているが、読書という体験がなければ、今の自分は間違いなく存在しない。それは断言できる。

 様々なメディアは、読書の代替には決してならない。人間は「言葉」によって生きるのであり、「言葉」なくして人間足り得ない、というのが自分の持論であるが、活字離れの怖さは、人非人の増加への恐怖でもある。

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