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2008年1月25日 (金)

「人権擁護」の名の下の「特高」を生み出す人権擁護法

 にわかに浮上してきた危ない法案、「人権擁護法案」。

 元々自民党内の推進派だった古賀誠が、最後のチャンスと強引に推進している。

 しかし、平沼赳夫元経済産業大臣や、中川昭一元政調会長らは正面から反対姿勢を鮮明にしており、安倍前首相も明快な反対論者であることは周知の事実である。

 なぜなら「人権擁護」の「美名」の下に、いわば「人権特高」を設置するのが、この法案の最大眼目だからである。

 「特高」とは古臭い言葉を持ち出したものだが、治安維持法の下に設置された「特別高等警察」の略称である。

 元々、大逆事件を発端として、生まれたもの。大逆事件は、幸徳秋水らの社会主義者が、明治天皇の暗殺を企てたもので、当時の国民からすれば寝耳に水の大事件であり、そのような「大逆」を考えるような社会主義や共産主義というものへの警戒感が高まっていったのである。

 更に、ロシア革命で、ロシアの皇帝とその家族がボルシェヴィキ(共産党)に虐殺される事件や、尼港事件で邦人三千人がボルシャビキのゲリラによって惨殺されるという事件は、共産主義者への警戒感を決定的になるのである。

 治安維持法が制定されたのもこのような時代背景があってのことだ。共産党が今でも目の敵にするのは、標的にされたのだから当たり前といえば当たり前のことではあるが、六十年安保全学連を指導した清水幾太郎氏が後に述べているように、治安維持法で死刑になったものは只の一人もおらず、むしろ獄中における大量転向ということが起っているのである。そして、転向したものの中には偽装のものもいたかもしれないが、再転向したものは決して多くはなかった。

 いわば、「人権擁護法」は、「人権問題が存在する」ということを強調することによって、それを取り締まる機関を作るものである。

 「罪刑法定主義」は、近代国家の最低限の原則であり、また、「疑わしきは罰せず」も、文明国の裁判の原則でもある。

 ところが、人権擁護法に基づく人権委員会が設置されると、「罪刑」は、定義も曖昧な「人権」侵害となり、それを認定する「人権委員会」の裁量一つ、ということになる。これでは時代は封建時代に逆戻りである。

 更に、「人権侵害」の疑いがあれば捜査令状もなく、出頭要請、関係先への立ち入り検査、捜索・押収。そしてそれに正当な理由なく拒否すれば30万以下の罰金が科せられるのである。

 また、人権委員会は、人権侵害を認定した場合、勧告・公表、提訴などの権限がある。「人権侵害」を認定されれば、勧告を受けた人物は、地位を失いかねない社会的制裁を受けることになる。

 人権委員会の裁量一つで、ターゲットにした人物を社会的に失脚させることが出来るのだから、これは大変な権力である。

 さらに「メディア規制」条項があることによって、取材の自由が脅かされるのであり、事実上、メディアは死ぬ。

 これだけの問題を抱えた法案を強引に推進する背景には、全体主義的な勢力が見え隠れしているのが特徴であり、社民党や部落解放同盟なども強硬な推進派であることから、この巨大な強権が何に使われるのかが分かろうものである。

 要するに、日本を北朝鮮のような国にしようというのが「人権擁護法案」推進派の意図である。

 首相は「我が国には子供や老人、女性に対する暴力や、差別、偏見など数々の人権問題が存在すると言わざるを得ない」と答弁しているのだそうだ。たしかに虐待問題から日々の異常な事件の続発は、国民の心を暗く沈めているが、それが、「人権」が「軽視」されているために起っていることであり、「人権擁護」がなされれば根絶させることが出来る、という認識は、まことに「おめでたい」の一言に尽きる。

 大体、「人権」という概念自体が、「権利のための闘争」というイェーリングのパンフレットがあるくらいで、「闘争」の原理であり、「対決」の原理なのである。むき出しの「権利」と「権利」が衝突すれば、「暴力」や「偏見」「虐待」などが続発するのは考えてみれば当たり前のことである。

 人間同士の関係が「権利関係」のみで規定されるとするなら、そんな社会は地獄であろう。

 親子関係は権利関係では立ち行かない。子供を育てる手間を、親が自分の権利の侵害だと思い込み、ストレスを溜め込んでは虐待に走る。その対抗手段として、子供に「育てられる権利」を「保障」する、というようなことをする必要が生まれる。

 親が子供を育てるのは、親がそのまた親から育ててもらった「恩」を返すことであり、その縦のつながりの絆が絶たれたら、人間は人間として存在することさえ出来なくなるのだ。

 「権利」思想など、フランス革命以来の高々数百年の政治イデオロギーに過ぎず、未熟な政治概念であるがゆえに、いまだに世界中の問題解決に役立っていない。「権利」概念の長所を生かすためには、更に重要な、歴史の中ではぐくまれてきた多くの関係性に着目しなければならないのであり、むしろ、「権利」は、そうしたものを「守る」ための道具として編み出されてきたのである。それが、今は自家中毒を起して、本来守るべきものを破壊する方向に働いているのだ。

 繰り返していうが「人権擁護法」が成立したら、日本は、「人権」独裁の収容所国家に成り果てる。自殺者の数は今の何十倍にもなるだろう。そこでは「自由」は圧殺されてしまうからである。

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