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2007年9月26日 (水)

キリスト教・イスラム教に見る不寛容の構造の意味

 「回想 アーロン収容所」(会田雄次著)を再読した。

 この間、「アーロン収容所」を読了したことで、もう一度読み通してみたくなったのである。

 色々な感想が浮かび、はたまた「アーロン収容所」という映画を夢想してみたりもした。充分映画になる内容を備えている。ただし、相当の覚悟は必要だが。

 さて、この本の最後の方に、総括的な文章が書かれている。「ビルマ人というもの」という文章の中の一節である。

 「それにしてもビルマ人の感情と思想を支配しているのがキリスト教でも回教でもなく小乗仏教であったことも幸いした。」

 ここで言う「感情と思想を支配」という表現は面白い。宗教の力は、まさに「感情と思想」を「支配」するように働くのだろう。

 そして、続けて次のようにキリスト教やイスラム教の特質について分析を加えている。

 「キリスト教、回教、この二つの宗教の恐ろしさは、人間の即物的、本能的な生き方を否定し、完全に観念からのみ構築された一つの巨大な理念に従って生きるように、すべての人を強制するところにある。」

 この指摘は、同様な「強制」を行う「近代主義」にもそこから派生する「左翼的」なものにも通底するように思われる。

 「とりわけこの理念に従うものは絶対善、従わぬものは絶対悪とする思考を強制したところにある。それは必然的に人を憎むことを教える結果となった。」

 これは、「観念的」な生き方を強制する全てのイデオロギーに共通するもののように思われてくる。そしてこの生き方に慣れてしまうと、中身の観念は入れ替え自由で、その時々に流行する観念を次々と代入して世を渡るということにもなりそうである。共産主義の母国ソ連が崩壊した時に、それに殉じて命を捧げたものが殆どいなかったことにつながり、極めて不気味な現代人の魂の空白を表わしているようにも思われる。

 「より正確にいうと自己の憎悪を絶対善とする思考を教え、それを論理づける方法を教えた。もちろん人は相互に憎み合い、時には殺し合う。しかし、この教えに「毒されぬ」限り人は自分の憎悪を絶対善とは思えぬものだ。残虐行為はあるにしても、本能的恣意的なものだった。憎悪に徹することを正義とし救済とする宗教が人の心を変え、人間の憎悪は自然の歯止めを失い、その信者たる人間は憎悪に生きる正義の神となる。」

 一神教の歴史に著しい、行動パターンの説明として、実に簡潔かつ的確なものと思える。更に、

 「ルネサンス人がモーゼ、イエス、マホメットを世界の三悪人と呼んだ所以である。今日ならそれにマルクス、レーニンが加えられるだろう。」

 とする指摘には、共産主義が、世界の歴史の中でも異例なほど人を殺したこと、それも彼等の正義の名の下に、それをやりぬいたことへの言及がある。

 ちなみに、これほど日本の伝統思想と掛け離れたものはないのであり、共産主義に対して本能的な怖気を感じた昭和初期の日本人の感覚は正常だったといわなければならないと思われる。

 この脅威が、決して過去のものでないところに、恐ろしさがあるのだが。

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