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2007年6月22日 (金)

沖縄集団自決冤罪訴訟を考える

「吉原御免状」という時代小説の後記に次のような話が書かれている。

 大正12年9月1日の関東大震災で新吉原は壊滅した。焼跡には夥しい遊女の死体が転がり、お歯黒どぶには水ぶくれになった遊女たちで埋まったという。

 この遊女たちが、お互いの体をロープでつないでいたことが、評判になった。鬼のような楼主たち(昔の亡八ども)が、遊女がこの機会を利して逃亡することを恐れ、こうしてロープでつなぎ合わせた、このために、女たちは自由に逃げることが出来ず、この惨状を招いた、と多くの人々が語った。ロープの最先端にいたのが、殆どいわゆる牛太郎であったことが、この噂に輪をかけることになった。勿論、遊女たちの監視人、と信じられたからだ。

 大震災直後に生まれた僕でさえ、この噂を長いこと信じていた。それほどこの噂は深く長く流布されていたのである。

 僕が真相を知ったのは、戦後も大分たってからだ。牛太郎の役割は、監視ではなかった。大地震と火事のショックで、オロオロと逃げまどうことしか出来なかった遊女たちを誘導するために、ロープをかけたのである。登山の場合のアンザイレンである。このお蔭で、多くの遊女は生命を拾い、誘導に失敗した牛太郎は遊女もろとも死んだ。彼等の何人かはアンザイレンしていなければ、逃げのびた筈である。若く、身も軽く、足も疾い。寧ろ彼等の方が犠牲者だったのである。

 吉原は、遊女を逃がさない(足抜きと云う)ために、どんなひどいことでもする。そういう固定観念さえなかったら、真相は即座に判明した筈であり、牛太郎たちの死は、称賛されるべき行為の結果とみなされた筈である。

 吉原を語る場合、この事件は極めて象徴的であると僕は思う。吉原が遊女たちを縛り、足抜きをふせぐためにどんな残虐なことでもするというのは、本当に事実なのだろうか。
 人々は様々な例をあげて、これを証明しようとする。(後略)

 この、吉原の話と、沖縄集団自決の問題は、まったくかけ離れたものではある。

 しかし、悪逆非道な日本軍が、足手まといの住民に、集団自決命令を発した、と戦後長く信じられてきた挿話と、相通ずるものがあるように思われた。

 日本の歴史上、集団自決事件はいくつも存在する。

 大規模でありかつ一時代の終わりを示したものとして青史に明らかなものとしては、鎌倉幕府の滅亡時の集団自決が上げられるだろう。敗戦を迎えて集団で自決をするという例は多いのである。是非善悪の判断を超えて、これが最後の抵抗であることは紛れもないであろう。生き恥をさらすよりは、生きて苦しむよりは、死んだ方がましだ、という観念は、日本人にはそれほど違和感のないものだ。戦争という極限状態の中でそのような心理が集団に蔓延することは、ありうべきことである。

 軍がいなければ、手榴弾などの武器も入手することは出来ないのだから、集団自決など出来ないではないか、という手合いもいる。しかし、凄惨な例でいえば、鋤鍬といった農具などで滅多打ちにして家族を殺し、自分も死んだという例もある。武器が無ければ集団自決は起こらなかった、というのは的を得た話ではなかろう。

 ペリュリュー島の戦いなどでも、島民を逃がして玉砕した例もある。非戦闘員を巻き込まないための配慮は多くの戦地で行われている。

 ではなぜ、沖縄では、なされなかったのか?

 この問い方が既におかしいのである。

 沖縄では、本当に、非戦闘員への配慮はなされていなかったのか?

 と問うのが正しい。

 硫黄島を除けば、唯一の本土決戦が行われたのが沖縄である。

 先ず認識を改めなければならないのは、沖縄戦は本土決戦だったという事実である。

 勿論、住民の疎開も進められたが、その船でさえ敵に撃沈されるという追い詰められた状況の中、住民は、軍の近くに居た方が安心できる、と思った。

 アメリカは、非戦闘員が居ようが居まいが関係なく、鉄の雨を降らせる。一平方メートル当たり何十発という艦砲射撃が行われる。それが沖縄戦だった。島民の三分の一がこの戦いで生命を落とした、といわれる。

 陸海軍とも死力を尽くして戦った。本土からは戦艦大和を旗艦とする艦隊特攻が出撃し、また九州各地の特攻基地からは連日のように、沖縄めがけて特攻隊が出撃していった。

 沖縄、そして硫黄島のあの奮戦がなければ、ポツダム宣言はなされず、本土上陸作戦は決行されていただろう。そして日本全土が沖縄のようになっていただろう。

 その意味でも、沖縄戦のことは、日本人が決して忘れてはならないのであり、明日、6月23日の沖縄戦終結の日(組織的戦闘はこの日を持って幕を閉じた)は、今上天皇がおおせられているように、日本人が忘れてはならない日であるのである。

 戦後、軍と名のつくものは悪逆非道なものとされ、敗戦の十字架を背負わせられ続けてきた。敗軍なのだから、それも仕方がないといえばそれまでである。そして、軍に全ての責任をなすりつけることによって精神的な安定を得てきたのかも知れない。

 しかし、半世紀以上が経過し、少し静かにものを考えるべき時を迎えているのではないか。熱狂や偏見にとらわれるのでなく、虚偽に騙されるのでなく、人間の理性の力で、歴史の事実があるべき場所にすえられるようにすべきではないのか。

 意図的に、架空な話をつくりだすものもいたわけだが、これを訴えたのが、現在行われている、「沖縄集団自決冤罪訴訟」である。

 虚偽の仮面を剥ぎ取り、真理が、過去の賞罰のそれぞれに、所を変えることを要求しているのだと、思わずにはいられない。

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コメント

渡嘉敷島の指揮官の赤松大尉(当時二十五歳)は、島の巡査の安里氏が、部落民をどうするか相談 にいった時に「我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」と言っています。

また、4人の女性が部隊の本部に行った時には 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」と言って、 4人はこの言葉で気を取り直し、無事生きのびました。同じように女子青年団長が5、6人の女子団員と一緒に斬り込み隊に出ることをお願いに行った時に、「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」と怒って戻させています。

 戦後、赤松さんは、家族を失った島の住民のために、つまり遺族年金受給のために、捏造された自決命令書に印を押して自ら十字架を背負いました。その後、赤松さんが島の人たちから慰霊祭に招かれた時に、那覇空港で運動家たちに取り囲まれ、「虐殺の責任者、赤松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ!人殺し帰 れ!」と「何しに来たんだよ!」 と罵倒され続けました。赤松さんは直立不動のままその場に立ち尽くしました。結局、赤松さんは、渡嘉敷島に行けませんでした。

座間味島の指揮官の梅澤少佐(当時二十七歳)は、島の指導者が相談に来て自決用の手榴弾を求めた時に、断わって追い返しています。となりの阿嘉島でも、鈴木茂治整備中隊長のところへ、与那嶺区長(屋号シレー小)が自決用の手榴弾をもらいたと相談にきましたが、鈴木中隊長は「住民が死ぬことはない。死ぬのは自分たちだけでよい」と自決を思いとどまるよう説得して成功しています。その晩、鈴木中尉は米軍に切り込みに行って戦死。

以上が事実です。しかし、戦後は、マスコミや知識人たちが、赤松さんや梅澤さんを鬼や悪魔のように宣伝してきました。そのため、二人と部下たちや家族はずっと罵倒され続けてきました。しかし、最近になってようやく真実が広まってきました。

投稿: 渡辺 龍二 | 2007年7月 5日 (木) 午前 12時07分

自由主義史観研究会は6/21放送の集団自決問題をとりあげた「クローズアップ現代」用の取材依頼を受けました。NHKは‘双方の主張を紹介したい’ということだったので協力しました。が、梅澤元少佐と赤松大尉の無実を主張する私達の意見は大幅にカットされておりました。戦後遺族補償を受けるために、命令があったと嘘をついたと、近年証言している島民の方々も紹介されませんでした。

よって藤岡代表の放送に対する抗議声明:

http://www.jiyuu-shikan.org/closeup_com.html

そして、沖縄集団自決特集をアップしました:

http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu.html

是非お読みください。

番組では私達の団体名すらマトモに紹介されなかったので、コメント欄からお知らせする以外に手段がなくなってしまいました。御迷惑でしたら、削除なさってください。最後までお読みいただきまして、有難うございました。

投稿: 自由主義史観研究会WEB担当 | 2007年6月23日 (土) 午前 06時01分

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