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2007年6月

2007年6月29日 (金)

株主総会ラッシュの報道を聴いて

 昨日夜、カーラジオで、上場企業の株主総会がラッシュを迎え、外資系ファンドなどの株主増配提案など、企業経営陣との対立が目立ち注目されたが、結局は、ほぼ凡ての企業で、企業経営陣側の意向が一部の大株主ではない、一般の株主の圧倒的な支持を得て乗り切った、と報道されていた。

 素人で詳しいことについて理解できているわけではないのだが、要するに、いわゆるグローバルスタンダードと言われる資本原理主義的な外資系ファンドの攻勢に対して、日本人株主の文化風土がそれを阻止した、というように思われた。

 金がすべて、という風潮は誰が作ったのかは知らないが、目先の利益を追って株価を吊り上げ、売り抜けるというように、株式を公開している企業を餌にしてマネーゲームに興じるという生き方に対して、それを拒否し、「NO」をつきつけたのではないかと思われた。

 企業は誰のものか、という議論があった。

 日本的な発想に立てば、社長以下社員という構成員が主体であり、また企業価値は社会の中で必要とされる度合いによって決定される、ということになるだろう。赤字ではつぶれてしまうが、世間様に必要とされることによって生かされる、という考え方に、ごく自然に立つのが日本人であろう。

 これに対して、資本原理主義的な考え方に立てば、企業が株主のものであることは疑いの余地の無い事実であり、利益が出せなければ、社長以下社員でも首を挿げ替えるのが当然で、企業価値を株価操作で吊り上げて売り抜けるということも当たり前の事である、ということになる。いわば、鵜飼の鵜である。大方の日本人の皮膚感覚からすればトンでもない、ということになるだろう。

 しかし、ホリエモンや村上事件などで明らかになったように、日本の若手の中には、日本的な発想はせせら笑われ、蔑まれ、資本原理主義的なマネーゲームが持て囃される風潮が明らかに見て取れた。

 外資による企業買収が進み、国民が知らないところで日本のいわゆる「民族資本」と言える企業は軒並み食い荒されるという事態が進行すると言われていたが、思わぬところでストップがかかったわけだ。

 利益第一主義に立てば、日本の株主の動きは不可解であろう。株主への増配が通れば自分も「得」をするじゃないか、ということになる。しかし、狩猟的な利益確保には違和感、もっと言えば反感を招いたわけだ。日本人のメンタリティからすれば、株式の保持というのは、その企業を応援し育てるという意識が働くわけで、農民的な感覚があるのだ。決して利益を求めないわけではないが、利益は結果であって、一時的な利益を得るために青田刈りをするようなことは心情的に抵抗があるのだろう。

 まだまだ日本の心は生きている、日本人は健在だ、と思わされた次第である。 

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2007年6月25日 (月)

男はつらいよ、ではないが

えとうせいいち 公式ホームページ

一度ご覧下さい。

安倍総理が選んだ男がどんな人物か分かります。

私はそれほど器用ではないので思ったことを思ったままにいうくらいしか能がありません。

えとうさんは、あまりにも朴訥で、野暮ったく見えるのですよね。

しかし、みてくれだけの世の中にあっては、こうした見てくれの悪い男こそが、「真心」を持ってるんではないですかな。

石原慎太郎都知事が、「せいちゃん(えとうせいいちさんのこと)、何もたもたしてんだよ。早く帰ってきて蛮勇を奮ってくれなきゃ」と言ってます。

千万人否と云えども吾往かん、との気概ある男、安倍総理と方向性を同じくする男。

なんか、バナナの叩き売りのようになってきましたが、えとうせいいちを、私は応援しております。


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2007年6月24日 (日)

沖縄 ~若夏の島~

 沖縄の心を思へば胸迫り戦世の事ひたに思はゆ

 鉄の雨嵐となりて吹き荒び数多の生命奪ひしかの日々

 若夏の島を訪なふ時にしも国守らしし御霊ら偲ばゆ

 ハイビスカスの花の盛りに照りつける陽射しの遥か青き海見む

 靖国の宮に学徒の御霊をば祀りし先師忘ら得ぬかも

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2007年6月22日 (金)

沖縄集団自決冤罪訴訟を考える

「吉原御免状」という時代小説の後記に次のような話が書かれている。

 大正12年9月1日の関東大震災で新吉原は壊滅した。焼跡には夥しい遊女の死体が転がり、お歯黒どぶには水ぶくれになった遊女たちで埋まったという。

 この遊女たちが、お互いの体をロープでつないでいたことが、評判になった。鬼のような楼主たち(昔の亡八ども)が、遊女がこの機会を利して逃亡することを恐れ、こうしてロープでつなぎ合わせた、このために、女たちは自由に逃げることが出来ず、この惨状を招いた、と多くの人々が語った。ロープの最先端にいたのが、殆どいわゆる牛太郎であったことが、この噂に輪をかけることになった。勿論、遊女たちの監視人、と信じられたからだ。

 大震災直後に生まれた僕でさえ、この噂を長いこと信じていた。それほどこの噂は深く長く流布されていたのである。

 僕が真相を知ったのは、戦後も大分たってからだ。牛太郎の役割は、監視ではなかった。大地震と火事のショックで、オロオロと逃げまどうことしか出来なかった遊女たちを誘導するために、ロープをかけたのである。登山の場合のアンザイレンである。このお蔭で、多くの遊女は生命を拾い、誘導に失敗した牛太郎は遊女もろとも死んだ。彼等の何人かはアンザイレンしていなければ、逃げのびた筈である。若く、身も軽く、足も疾い。寧ろ彼等の方が犠牲者だったのである。

 吉原は、遊女を逃がさない(足抜きと云う)ために、どんなひどいことでもする。そういう固定観念さえなかったら、真相は即座に判明した筈であり、牛太郎たちの死は、称賛されるべき行為の結果とみなされた筈である。

 吉原を語る場合、この事件は極めて象徴的であると僕は思う。吉原が遊女たちを縛り、足抜きをふせぐためにどんな残虐なことでもするというのは、本当に事実なのだろうか。
 人々は様々な例をあげて、これを証明しようとする。(後略)

 この、吉原の話と、沖縄集団自決の問題は、まったくかけ離れたものではある。

 しかし、悪逆非道な日本軍が、足手まといの住民に、集団自決命令を発した、と戦後長く信じられてきた挿話と、相通ずるものがあるように思われた。

 日本の歴史上、集団自決事件はいくつも存在する。

 大規模でありかつ一時代の終わりを示したものとして青史に明らかなものとしては、鎌倉幕府の滅亡時の集団自決が上げられるだろう。敗戦を迎えて集団で自決をするという例は多いのである。是非善悪の判断を超えて、これが最後の抵抗であることは紛れもないであろう。生き恥をさらすよりは、生きて苦しむよりは、死んだ方がましだ、という観念は、日本人にはそれほど違和感のないものだ。戦争という極限状態の中でそのような心理が集団に蔓延することは、ありうべきことである。

 軍がいなければ、手榴弾などの武器も入手することは出来ないのだから、集団自決など出来ないではないか、という手合いもいる。しかし、凄惨な例でいえば、鋤鍬といった農具などで滅多打ちにして家族を殺し、自分も死んだという例もある。武器が無ければ集団自決は起こらなかった、というのは的を得た話ではなかろう。

 ペリュリュー島の戦いなどでも、島民を逃がして玉砕した例もある。非戦闘員を巻き込まないための配慮は多くの戦地で行われている。

 ではなぜ、沖縄では、なされなかったのか?

 この問い方が既におかしいのである。

 沖縄では、本当に、非戦闘員への配慮はなされていなかったのか?

 と問うのが正しい。

 硫黄島を除けば、唯一の本土決戦が行われたのが沖縄である。

 先ず認識を改めなければならないのは、沖縄戦は本土決戦だったという事実である。

 勿論、住民の疎開も進められたが、その船でさえ敵に撃沈されるという追い詰められた状況の中、住民は、軍の近くに居た方が安心できる、と思った。

 アメリカは、非戦闘員が居ようが居まいが関係なく、鉄の雨を降らせる。一平方メートル当たり何十発という艦砲射撃が行われる。それが沖縄戦だった。島民の三分の一がこの戦いで生命を落とした、といわれる。

 陸海軍とも死力を尽くして戦った。本土からは戦艦大和を旗艦とする艦隊特攻が出撃し、また九州各地の特攻基地からは連日のように、沖縄めがけて特攻隊が出撃していった。

 沖縄、そして硫黄島のあの奮戦がなければ、ポツダム宣言はなされず、本土上陸作戦は決行されていただろう。そして日本全土が沖縄のようになっていただろう。

 その意味でも、沖縄戦のことは、日本人が決して忘れてはならないのであり、明日、6月23日の沖縄戦終結の日(組織的戦闘はこの日を持って幕を閉じた)は、今上天皇がおおせられているように、日本人が忘れてはならない日であるのである。

 戦後、軍と名のつくものは悪逆非道なものとされ、敗戦の十字架を背負わせられ続けてきた。敗軍なのだから、それも仕方がないといえばそれまでである。そして、軍に全ての責任をなすりつけることによって精神的な安定を得てきたのかも知れない。

 しかし、半世紀以上が経過し、少し静かにものを考えるべき時を迎えているのではないか。熱狂や偏見にとらわれるのでなく、虚偽に騙されるのでなく、人間の理性の力で、歴史の事実があるべき場所にすえられるようにすべきではないのか。

 意図的に、架空な話をつくりだすものもいたわけだが、これを訴えたのが、現在行われている、「沖縄集団自決冤罪訴訟」である。

 虚偽の仮面を剥ぎ取り、真理が、過去の賞罰のそれぞれに、所を変えることを要求しているのだと、思わずにはいられない。

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2007年6月16日 (土)

中川幹事長は、お膝元の広島で参議院地方区一議席を死守すべきではないのか

 広島県の参議院地方区は2人区である。

 3年毎に改選が行われるので、広島の参議院地方区からは4人の参議院議員がいることになる。

 現在、広島選出の参議院議員は、亀井郁夫氏(国民新党)、柳田稔氏(民主党)、溝手顕正氏(自民党)である。一名は市長選に出馬して辞任したため空席であるが、自民党の柏村武昭氏であった。但し、柏村氏は6年前に市民党を名乗り、自民党を批判して当選したにも拘らず、すぐさま自民党に入党したことに対する批判がどの程度あるのか分からぬまま、広島市長選に出馬した大敗を喫している。

 つまり、基本的には、広島の参議院地方区は、自民党と民主党が持ち分ける構図なのである。

 ところが、この参議院選挙で、自民党は広島2人区の議席の最後の一議席を守りきることが出来るのか。

 現職の大臣で、しかも自民党の最後の砦である溝手氏をこの参議院選挙で万が一にも落とすようなことがあったら、広島の自民党が受ける打撃は、広島市長選の比ではないだろう。

 現在、ダークホースだった女性候補がにわかに表に出始めている。明らかに左翼なのだが、ソフト路線を取り、自民党支持層を取り込む戦略をとっているようだ。選挙戦略も極めてうまく、全共闘運動の焼き直しとしか思えない市民運動をてこにして支持を拡大している。

 しかし考えてみてほしいことは、首長選と国政選挙は違う、ということである。広島から自民党の参議院の議席をなくすことがどれほどの影響を与えるか。しかも、衆議院には解散があるが、参議院は一度当選すれば6年間の議席はほぼ確実に保証されるのである。

 「参議院」が「良識の府」と呼ばれるのは、解散・総選挙に煩わされることなくじっくりと国政のゆくべき道を示すために時間が与えられているためであろう。

 そして、現在の参議院が国政の行方を左右するだけのキャスティングボードを握っていることを考えれば、今回の参議院選挙の意味は極めて重大な意味を持っていると言えるだろう。

 溝手氏の一議席は、広島の参議院地方区の最後の砦であることを、広島の自民党支持者は肝に銘じておいた方がよい。

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2007年6月13日 (水)

衆議院と参議院の別、そして憲法改正が焦点の参議院選挙へ

 昔は、衆議院のカーボンコピーと呼ばれ、参院不要論さえまかり通っていた時代があった。

 しかし、今は違う。

 参議院の存在感はいやがうえにも大きい。

 大体、自民党が公明党と連立を組まざるを得ないのも、参議院の議席が足りないがためだ。

 参議院は、政治体制に根本的な影響を与えているといってよい。

 衆議院には解散がある。任期の4年を無事に勤め上げることは殆どないと言われる。国民に信を問うために行われる解散総選挙があるがために、衆議院は参議院に優越するということになっている。

 しかし、参議院は、一度当選すれば6年という極めて長い任期が保証される。半数ごとの改選であるから議会構成の推移も緩やかである。そして参議院の構成が国の政治体制を決定する要因となっている現在、その存在は極めて重い意味を持つと言ってよい。

 衆議院のように大風が吹くというようなものではない。国民として腰を落ち着けてじっくりと国政の行方を考えて投票すべきなのが参議院選挙というものなのだろうと思う。その判断をしくじったと思ってもそれを修正するには6年という途方も無い長い時間を待たねばならないのだ。単なるイメージ選挙にのせられてはならない。

 あと一ヶ月余り、この参議院選挙は本当に国の行方を左右する重大な選挙だと思われる。

 「憲法改正」是か非かを正面から問おうとする首相。必死で抵抗する護憲勢力残滓。最後の悪あがきとも言える9条に絞った攻勢。しかし、時代は待ってくれない。9条の精神は守ればいい。平和主義は国是であろう。しかし、9条の2項では平和主義さえ守れない。平和を守るために、9条を守るためにも、2項の改正は必須なのである。

 正直に問えばいいのだ。自衛隊を憲法に明記するのか、自衛隊を廃止するのかの二者択一が9条2項問題なのだと。9条を改正すれば戦争になるという、風が吹けば桶やが儲かる式の論理を展開する人々が少なくない。

 そう。9条1項は守ろうではないか。

 しかし、2項は廃止すべきである。そして、自衛隊を(国防軍なり自衛軍、防衛軍なり「軍」としての正式な呼称をつけて)憲法上明記し、自衛権(個別的・集団的)の保持を明確にすべきなのである。

 参議院に、この程度の道理も分からぬ人物を送ってはならない。それでは平和は守れない。6年間議席を持つ今回の参議院選挙当選者は、安倍首相の決意からして必ず憲法改正という戦後最大の政治決戦に主役として立ち会うことになる。目先のことだけで決めていい選挙ではないのだ。

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なぜかハッスル、中川幹事長 歴代厚生大臣、厚生労働大臣の責任を追及?

 出口の無い大騒動に発展している、いわゆる「年金記録紛失問題」。5000万件もの宙に浮いたままの年金記録と、そのほかに、1430万件のコンピューターへのデータ未入力が発覚して、てんやわんやの大騒ぎとなっている。

 庶民としては、とりあえず自分の納めた分がきちんと記録されているのかの確認でおおわらわである。

 決して肩を持つわけではないが、歴代の厚生労働大臣、厚生大臣の責任追及は具体的にどのようにしようというのだろうか。監督不行き届き、といえば其の通りだが、年金の事務処理は、社会保険庁からすれば日常業務の中の日常業務であろう。それが、ここまで杜撰にされていたということが、内部で分からなかったはずはない。ずっと臭いものに蓋をしてきて、ここで一気にそのつけが明るみに出たわけだ。

 日常業務がきちんと処理されているかどうかの監督責任は最終的には大臣にまで行くだろうが、其の前段で監督すべき責任を有する人々が沢山いたはずである。社会保険庁長官は勿論、もっと下部にでも、問題が起こっていることを知り、かつそれを正す責任を有するものはいたはずである。問題が大きくなりすぎて、やれ大臣の責任だ、といっているが、日常業務の末端の監督責任、報告義務が果たされていなければどうにもならないだろう。

 社会保険庁は、官公労の強い役所だったとも言われている。日教組といい、親方日の丸で飯の食いっぱぐれはないという甘えが背景にあるのではないか。社会保険庁の職員の内、問題があることに気付いていなかったとすれば余りにも迂闊であるし、気付いていながら何らの対処もしなかったのなら更に問題である。色々なシステム上の問題を指摘し、あたかも社会保険庁の職員を庇うような、「識者」の発言もあるが、末端の職員が問題ありと発信する情報を受け取ることが出来ない責任者、また責任者の発信する指示を受け取らない末端の職員、という淀んだ組織でもなければ起こりようがない問題であろう。生活習慣病のように、末端にまで血液が行かずに壊疽を起した状態といえようか。

 もしこれが、自治労がしかけた安倍内閣への攻撃だとすれば、凄まじいものであるとはいえるだろう。「肉を切らせて骨を絶つ」、参議院選挙をターゲットにしかけたのだとすれば、よほど腹を括ったか、とも思われる。

 問題の波及する範囲が広すぎてほとんど国民の大半に及ぶものであり、内閣を吹っ飛ばすには強力すぎるほどの政治的な地雷であるが、転身の早い中川幹事長殿は、早速首相に見切りをつけて保身に走るとも取れる発言をしている。選挙の責任者は幹事長ではないのか、と言っても、地元でさえ勝てない幹事長に誰もそんな責任が果たせるとは思っていない。元々、総理を守る気などさらさらない人物なのだ、と思っていたが、あっさりと馬脚を顕してくれているところが面白いとはいえる。しかし、国民生活に直結する問題だけに、放置は許されない。それで毎日国会等ですったもんだしているわけだ。

 歴代内閣が知らぬ顔を決めてきた(あるいは本当に気付いていなかったか)問題が表に出た。しかし、当面の責任者はそれから逃げるわけにはいかない。安倍首相は正面から取り組んでいる。誰が取り組もうが困難な課題であり、恐らくこれまで数え切れない人々が問題に気付きながらも逃げていたに違いない。安倍首相は、本当に仕事をする人なのだと思う。

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2007年6月12日 (火)

どういうわけかはわかりませんが

 昨日、300件以上ものアクセスが集中しました。

 大体50~100程度のアクセスで推移している当ブログに、こんなにも沢山の人が訪れてくださったのか、とうれしくも思いましたが、一人の人が詳しく見ていかれたということなのかも知れません。

 いずれにせよ、ありがたいことと思います。

 独断と偏見とえこひいきを身上としております。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。

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2007年6月 1日 (金)

気が違ったか、広島市!原爆資料館に原爆投下を肯定する」意見に深く耳を傾けよ、とは何事か!

 5月31日付、中国新聞の記事で、トンでもない事実が明らかになった。

 広島市の外郭団体で、原爆資料館を運営する財団法人「広島平和文化センター」の理事長に、スティーブン・リーパというアメリカ人が就任していたのも驚きだが、そのリーパー理事長が、「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と行程する考え方が根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」と中国新聞のインタビューに答え、原爆資料館の展示内容などの大幅な見直しを進めるための検討委員会に、「中国人、韓国人らアジア人を起用する方針」なのだと明かしたそうだ。

 第一に、なぜ原爆資料館を運営する市の外郭団体に、アメリカ人の理事長をすえるのか。

 第二に、なぜ、原爆資料館に原爆投下を肯定する意見を反映させようというのか。

 広島の平和行政は一体何を考えているのか。これほど、原爆死没者、そして被爆者を嘲弄する行為はない。これは自虐を超えてニヒリズムとしかいいようがない。

 しかし、まだ希望はある。

 広島市議会の6月定例議会で、「展示整備等基本計画」の関連予算を否決することだ。

 「可決されれば検討委の人選をすすめる方針で、リーパー理事長の意向はこの人選に反映される見通し」だと、中国新聞では書いている。

以下、参考

2007年4月23日記者会見「財団法人広島平和文化センターの新理事長任命について」 広島市

ひと:スティーブン・リーパーさん=広島平和文化センター初の外国人理事長 毎日新聞

痛いニュースから 2ちゃんねるが沸騰

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