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2007年4月30日 (月)

「昭和の日」に、広島繁華街の街頭で配布されていたチラシから「これだけは知っておきたい、昭和天皇とっておきの話」

(以下、チラシの文章を全文ご紹介いたします。)

 現在の天皇陛下である今上天皇は、ご即位につづいて行われた一世一代のお祭り「大嘗祭(だいじょうさい)」について次のように御製(天皇のみ歌)にお詠みになられました。  

父君のにいひなめまつりしのびつつ我がおおほにへのまつり行なうふ

 今上天皇は、昭和天皇の大御心を心として、務めを果していきたいと折にふれてお述べになっています。
 では、昭和天皇とはどのようなお方だったのでしょうか。

 昭和天皇は、明治三十四年、大正天皇の第一親王としてお生まれになりました。学習院初等科時代には、日露戦争で勇名をはせた乃木院長の下に質実剛健の厳しい教育を受けられました。また、皇太子時代には、皇室の歴史上初めてヨーロッパをご視察されました。大正十一年にはご病弱だった大正天皇のせっしょう摂政として政務をお取りになられ、昭和三年、二十八歳という若さで即位の礼を行い、第百二十四代天皇として即位されたのです。

 昭和十六年九月、日米交渉の行き詰まりの中、開戦に傾く政府に対し、昭和天皇は、

 四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ

 という明治天皇の御製をお示しになり、平和への意思を明らかにされました。御前会議でのご発言は極めて異例なことでありましたが、政府は改めて平和的妥結に向けた交渉に当たることになりました。

 しかし、米国の圧迫は日増しに強く、遂に昭和十六年十一月二十六日、アメリカ政府から運命のハル・ノートが突き付けられ、政府は開戦やむ無しと決定を下しました。

 政府の一致した決定に対して、天皇は立憲君主として拒否することは出来ず、わずかに「開戦の詔書」の中に「あに朕が志ならんや」(どうして(開戦が)自分の意思であろうか)という一言を挿入され、平和希求の意思を明らかにされたのでした。

 昭和十七年の年頭、昭和天皇は次の御製を発表され、一日も早く戦争が終るよう祈られました。

 峯つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり

 しかし戦局は悪化の一途をたどり、昭和二十年八月十四日、我が国はついにポツダム宣言を受諾し、史上初めての敗戦を喫することになったのでした。

 この時、政府は戦争継続か、終結かを決定することが出来ず、当時の鈴木貫太郎首相は、御前会議において、天皇陛下の「ご聖断」を仰ぎました。

 昭和天皇のご意思は、「戦争終結」でした。
 その時のお心を託した御製が伝えられています。

 爆撃に たふれゆく民の うえをおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

(爆撃の被害で死んでいく国民のことを思って戦争を終らせた。自分の身はどうなってもかまわない)
昭和天皇、御歳四十四歳でありました。

 昭和二十年九月二十七日、昭和天皇は占領軍最高司令長官のマッカーサー元帥を訪問されました。マッカーサーは、敗戦国の君主が会いに来るというのは命乞いに来るのだろうと思っていました。ところが、昭和天皇は次のように述べられたのです。――このたびの戦争について全ての責任は自分にある。いかなる処置をも受ける覚悟がある。しかし国民は飢えている。皇室の財産の目録がここにある。これで国民に食料を提供して頂きたい。――この会見はマッカーサーを骨の髄まで揺さぶりました。

 昭和二十一年、戦災を受けた国民を直接激励したいとの、昭和天皇の強い意志で、全国御巡幸がスタートしました。次の御製はその時の心を詠まれたものです。

 戦の わざはひうけし 国民を おもふ心に いでたちて来ぬ

 広島には昭和二十二年十二月、御来県されました。

   ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり

 昭和天皇は原爆を受けた広島に真っ先に訪れたいとの意向を持っておられました。占領軍当局や政府は難色を示しますが、陛下の強い思いもあつて実現したと言われています。

 長崎では、自らも被爆し白血病と闘いながら被爆者への援護活動を続け「この子を残して」を著した永井隆博士が、長崎医大病院で昭和天皇をお迎えした時の感想を次のように残されています。

「陛下がお歩きになると、そのあとに万葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が甦って、日本人が再び結びつく。今日は実にうれしかった」

 「あっ、そう」という気さくなご会釈、「日本再建のために一緒に努力していきたいものだね」と呼びかける昭和天皇に、人々は勇気と希望を取り戻していきました。そして昭和二十九年の北海道行幸により沖縄を除く三万三千キロに及ぶ全国ご巡幸は達成され、戦後復興の礎となったのでありました。

 昭和二十七年、我が国は独立を回復します。陛下は、次の御製にその喜びを託されました。

  国の春と 今こそはなれ 霜こほる 冬にたへこし 民のちからに

昭和四十五年、七十歳を迎えられた際、陛下は次の御製をお詠みになられました。

  よろこびもかなしみも民と共にして 年はすぎゆき いまはななそぢ

 「国民と共に」といふ大御心は、皇室の伝統であり、今上へいか陛下もまたその大御心を継承されているのです。

昭和六十年には「旅」と題して

 遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび きょうけふも旅ゆく

 とお詠みになられました。天皇陛下は、我が国の悠久の歴史を背負はれているのです。

昭和六十二年、唯一つ残された未訪問の地、沖縄への行幸を目前に、昭和天皇はお倒れになりました。

 思はざる 病となりぬ 沖縄を 訪ねて果たさむ つとめありしを

 昭和六十三年九月、陛下は、再びお倒れになります。そして、ご闘病百十一日、国民の祈りも空しく、昭和六十四年一月七日、昭和天皇は崩御されたのでした。

 ご在位六十四年というご歴代最長を記録され、しかも戦争・敗戦といふ激動の歴史を乗り越え、戦後の我が国の復興を導かれたそのご足跡を、私たちは永遠に語り継いでゆきたいと思います。

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 コンパクトにまとめられた「昭和天皇」のお歌とエピソードを簡単に紹介した一文でした。微細な点で、やや正確を欠く部分があるのは、短い中にまとめようとした瑕疵であろうかと思われます。例えば、マッカーサーとの会見の内容ですが、陛下の言われたお言葉の前半は初めての会見の際の言葉としても、後半は別の機会の会見での言葉であったと記憶します。しかし、大勢においてこの通りであると思われます。

 更に、戦没者や遺族に対する思いを述べた御製など、知っておきたい話としては更にたくさんありますが、それは多く出版されている書籍などを見ればよいのでしょう。特別番組などでも相当詳しく色々なエピソードが語られたということです。

 はじめての「昭和の日」、どのようにお過ごしになられましたか?

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