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2007年4月

2007年4月30日 (月)

「昭和の日」に、広島繁華街の街頭で配布されていたチラシから「これだけは知っておきたい、昭和天皇とっておきの話」

(以下、チラシの文章を全文ご紹介いたします。)

 現在の天皇陛下である今上天皇は、ご即位につづいて行われた一世一代のお祭り「大嘗祭(だいじょうさい)」について次のように御製(天皇のみ歌)にお詠みになられました。  

父君のにいひなめまつりしのびつつ我がおおほにへのまつり行なうふ

 今上天皇は、昭和天皇の大御心を心として、務めを果していきたいと折にふれてお述べになっています。
 では、昭和天皇とはどのようなお方だったのでしょうか。

 昭和天皇は、明治三十四年、大正天皇の第一親王としてお生まれになりました。学習院初等科時代には、日露戦争で勇名をはせた乃木院長の下に質実剛健の厳しい教育を受けられました。また、皇太子時代には、皇室の歴史上初めてヨーロッパをご視察されました。大正十一年にはご病弱だった大正天皇のせっしょう摂政として政務をお取りになられ、昭和三年、二十八歳という若さで即位の礼を行い、第百二十四代天皇として即位されたのです。

 昭和十六年九月、日米交渉の行き詰まりの中、開戦に傾く政府に対し、昭和天皇は、

 四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ

 という明治天皇の御製をお示しになり、平和への意思を明らかにされました。御前会議でのご発言は極めて異例なことでありましたが、政府は改めて平和的妥結に向けた交渉に当たることになりました。

 しかし、米国の圧迫は日増しに強く、遂に昭和十六年十一月二十六日、アメリカ政府から運命のハル・ノートが突き付けられ、政府は開戦やむ無しと決定を下しました。

 政府の一致した決定に対して、天皇は立憲君主として拒否することは出来ず、わずかに「開戦の詔書」の中に「あに朕が志ならんや」(どうして(開戦が)自分の意思であろうか)という一言を挿入され、平和希求の意思を明らかにされたのでした。

 昭和十七年の年頭、昭和天皇は次の御製を発表され、一日も早く戦争が終るよう祈られました。

 峯つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり

 しかし戦局は悪化の一途をたどり、昭和二十年八月十四日、我が国はついにポツダム宣言を受諾し、史上初めての敗戦を喫することになったのでした。

 この時、政府は戦争継続か、終結かを決定することが出来ず、当時の鈴木貫太郎首相は、御前会議において、天皇陛下の「ご聖断」を仰ぎました。

 昭和天皇のご意思は、「戦争終結」でした。
 その時のお心を託した御製が伝えられています。

 爆撃に たふれゆく民の うえをおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

(爆撃の被害で死んでいく国民のことを思って戦争を終らせた。自分の身はどうなってもかまわない)
昭和天皇、御歳四十四歳でありました。

 昭和二十年九月二十七日、昭和天皇は占領軍最高司令長官のマッカーサー元帥を訪問されました。マッカーサーは、敗戦国の君主が会いに来るというのは命乞いに来るのだろうと思っていました。ところが、昭和天皇は次のように述べられたのです。――このたびの戦争について全ての責任は自分にある。いかなる処置をも受ける覚悟がある。しかし国民は飢えている。皇室の財産の目録がここにある。これで国民に食料を提供して頂きたい。――この会見はマッカーサーを骨の髄まで揺さぶりました。

 昭和二十一年、戦災を受けた国民を直接激励したいとの、昭和天皇の強い意志で、全国御巡幸がスタートしました。次の御製はその時の心を詠まれたものです。

 戦の わざはひうけし 国民を おもふ心に いでたちて来ぬ

 広島には昭和二十二年十二月、御来県されました。

   ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり

 昭和天皇は原爆を受けた広島に真っ先に訪れたいとの意向を持っておられました。占領軍当局や政府は難色を示しますが、陛下の強い思いもあつて実現したと言われています。

 長崎では、自らも被爆し白血病と闘いながら被爆者への援護活動を続け「この子を残して」を著した永井隆博士が、長崎医大病院で昭和天皇をお迎えした時の感想を次のように残されています。

「陛下がお歩きになると、そのあとに万葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が甦って、日本人が再び結びつく。今日は実にうれしかった」

 「あっ、そう」という気さくなご会釈、「日本再建のために一緒に努力していきたいものだね」と呼びかける昭和天皇に、人々は勇気と希望を取り戻していきました。そして昭和二十九年の北海道行幸により沖縄を除く三万三千キロに及ぶ全国ご巡幸は達成され、戦後復興の礎となったのでありました。

 昭和二十七年、我が国は独立を回復します。陛下は、次の御製にその喜びを託されました。

  国の春と 今こそはなれ 霜こほる 冬にたへこし 民のちからに

昭和四十五年、七十歳を迎えられた際、陛下は次の御製をお詠みになられました。

  よろこびもかなしみも民と共にして 年はすぎゆき いまはななそぢ

 「国民と共に」といふ大御心は、皇室の伝統であり、今上へいか陛下もまたその大御心を継承されているのです。

昭和六十年には「旅」と題して

 遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび きょうけふも旅ゆく

 とお詠みになられました。天皇陛下は、我が国の悠久の歴史を背負はれているのです。

昭和六十二年、唯一つ残された未訪問の地、沖縄への行幸を目前に、昭和天皇はお倒れになりました。

 思はざる 病となりぬ 沖縄を 訪ねて果たさむ つとめありしを

 昭和六十三年九月、陛下は、再びお倒れになります。そして、ご闘病百十一日、国民の祈りも空しく、昭和六十四年一月七日、昭和天皇は崩御されたのでした。

 ご在位六十四年というご歴代最長を記録され、しかも戦争・敗戦といふ激動の歴史を乗り越え、戦後の我が国の復興を導かれたそのご足跡を、私たちは永遠に語り継いでゆきたいと思います。

****
 コンパクトにまとめられた「昭和天皇」のお歌とエピソードを簡単に紹介した一文でした。微細な点で、やや正確を欠く部分があるのは、短い中にまとめようとした瑕疵であろうかと思われます。例えば、マッカーサーとの会見の内容ですが、陛下の言われたお言葉の前半は初めての会見の際の言葉としても、後半は別の機会の会見での言葉であったと記憶します。しかし、大勢においてこの通りであると思われます。

 更に、戦没者や遺族に対する思いを述べた御製など、知っておきたい話としては更にたくさんありますが、それは多く出版されている書籍などを見ればよいのでしょう。特別番組などでも相当詳しく色々なエピソードが語られたということです。

 はじめての「昭和の日」、どのようにお過ごしになられましたか?

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2007年4月28日 (土)

安倍首相の快挙!アメリカにおける「慰安婦問題」の処理について

 安倍首相が首相就任後初めて訪米するに当たって、懸念されていた米下院における「慰安婦問題決議」問題に対して、鮮やかに処理した。

 そういうと、私が「慰安婦謝罪」を評価する韓国や中国よりの考え方を持っているかと言えば、そんなことはない。

 「<安倍首相訪米>慰安婦問題で「同情とおわび」を表明」というのが毎日新聞の見出しであったが、あたかも安倍首相が変節したかのような記し方である。

 しかし、安倍首相の姿勢が一貫していることにヤキモキしているのはこうした左派の連中ではないかと思われるのである。

 今回の「慰安婦決議」騒動が、マイク・ホンダという中国から莫大な献金を受けている中国のエージェントとも思われる下院議員の動きに発することは周知のことである。

 中国が一番恐れているのが日米同盟であることは論を待たない。

 そこで、日米間に楔を打ち込むために何か利用できないか、と考えたときに使えるのが、日本の左翼が創作した「従軍慰安婦」問題であったのである。

 ときどき、「慰安婦はなかった」というような不正確な書き込みを保守系の掲示板でするものがあるが、これは撹乱するためのためにする書き込みであると思われる。「従軍慰安婦はなかった」というならば判るが、「慰安婦」はなかった、といったら、それこそ格好の左派の餌食でもあり、正確な認識でもない。

 正にためにするものであり、左派の攻撃の理由を提供するためのものである。もし仮に本当にそう思っているのなら、認識不足であり、害毒でしかないので、少しは勉強して出直すべきであることは言うまでもない。

 ここが実は極めて重要なポイントなのである。

 「慰安婦」問題の核心は、元慰安婦という老女らが語る悲惨な体験ではない。

 それ自体はたしかに「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、心から同情する」のは当然であり、日本人相手の売春による体験だということからすれば一般論として「極めて苦しい状況に置かれたことについて申し訳ない気持ちでいっぱい」と述べても、全くその通りだと言ってもよい。

 問題は、個々の慰安婦があるケースでは極めて好待遇で故郷に立派な家を建てたということでもなければ、兵隊さんと恋仲になったとか、あるいは部隊と共に戦い共に玉砕したとか、民間の卑劣な雇い主の下で悲惨な体験をしたとかいうことでもないのである。

 問題の核心は、当時の政府又は軍が、「性の奴隷」とすべくアフリカで奴隷狩りをしたヨーロッパ人の如き「強制連行」をしたのか、という点に絞られているのである。

 これは、この論争を少しでも突っ込んで追っているものからすればいわば常識に属する。

 ところが、アメリカを舞台とした情報工作が一定の成果を上げることを、「レイプ・オブ・ナンキン」で味を占めた中国発の反日ネットワークが、日本の左翼工作者らと連携して仕掛けてきたのが、「慰安婦問題決議」問題なのである。何も知らないアメリカ議会の公聴会において、あることないことセンチメンタルに悲惨な身の上を「元慰安婦」と称する老女らに語らせて、同情を引き、日本への批判を強めるという方策を採り、それに対して日本が反論すればするほど墓穴を掘るという構造を作り出すことに成功したのである。

 いわば、日本は、安倍首相は、「はめられた」のであり、行くも退くもならない立場に追い込まれたのである。勿論、政府の失策は多々あり、外務省のこれまでの怠慢は責められるべきものであるが、このような状態を打破することは極めて難しいことであったと思われる。

 未だに物事を明朗に思考することの出来ない衆議院議長は「妄言」を繰り返しているが、彼が出した談話の内容も丹念に見れば、彼が考えているようなものではないのである。それにも気付かないほど、彼は魯鈍なのであり、そうした人物が三権の長という日本を代表するポストにいること自体が、「日本の危機」そのものであるといえなくもない。

 そうした劣悪な政治家に囲まれておりながら、安倍首相はビクともしていないのである。

 天晴れといえようか。

 一見、「決議されても謝罪はしない」と述べていたところから後退したように見える。しかし、安倍首相が「謝罪しない」と言っていたのは、ありもしない国家による強制連行に対してであって、たとえ民間人であろうと日本人が関ったところで、劣悪な環境を強いられて辛酸をなめ、極めて苦しい状況におかれた「慰安婦」への、心からなる謝罪のことではない。

 首相は全くスタンスを変えていないのである。

 そして、アメリカでは更に釘を刺してこれ以上この問題について議論することが出来ないようにしたのである。

1、 「私の真意や発言が正しく伝わっていないと思われる」

2、「辛酸をなめられた元慰安婦の方々について、個人として、また総理として心から同情するとともに、極めて苦しい状況に置かれたことについて申し訳ない気持ちでいっぱいだ」

3、 「20世紀は人権侵害の多い世紀であり、日本も無関係ではなかったが、21世紀が人権侵害のない世紀になるよう、日本としても全力を尽くしたい」

 この3をよくよく見てみると、「20世紀は人権侵害の多い世紀である」という定義が先ずある。

 「慰安婦」問題を、20世紀の世界の人権状況の広い視野の中に置いたのである。このように客観化して見たとき、20世紀の人権問題といわれるものが、アメリカも含めて圧倒的に多くあることが想起されることになる。
 ソ連や中国、韓国や北朝鮮、アジア、アフリカの国々、ヨーロッパ、南北アメリカ。

 客観的に見ることによって、ことさらに60年以上前の「慰安婦」問題だけをことさらに取り上げることの異常さが際立ってくるのである。それならば、現在進行形で起こっている、北朝鮮からの脱北者が、生きられないがゆえに数百ドルで人身売買され、性の奴隷のような状況にさらされている問題をどうするのか、という問題になる。こちらの方が緊急を要する課題であろう。それとも、過去の日本軍の犯罪を暴き、明らかにして謝罪と賠償をさせることが脱北者を含む現在の世界に存在する人権状況の改善に役立つのだ、と言うことを主張するのであろうか。

 少し冷静に考えれば、「慰安婦」問題が如何に脆弱な基盤の上に利用されているかが透けて見えてくるのである。

 そして、「21世紀を人権侵害のない世紀になるよう、日本としても全力を尽くしたい」との決意表明は、北朝鮮の拉致を許さないということと同義であり、今現在、人権侵害を生み出し続けている国はどこなのか、ということに目を向けているのである。

 ある意味、日本を追い込み、日米分断をもくろんだ中国や北朝鮮の思惑を完全に逆転させたとも言える発言である。アメリカはこれ以上「慰安婦」問題を突っ込むことは出来なくなった。

 なぜなら、一般問題として悲惨な目にあった元慰安婦への同情と、そのような境遇を改善することが出来なかった当時の苛烈な人権状況に対しておわびを著したことによって、公聴会で日本の「非道」に憤った事情を知らないが善良なアメリカ人の「誤解」を解くことにもなり、「奴隷狩り」などの「誤解」については見事にかわしたのである。

 更に、アメリカ自身の「原爆投下」などの人権蹂躙に飛び火しかねないことに気付かせ、極めつけは、今現在人権侵害を起こしている存在に対して注意喚起に成功したことである。

 これだけのことを簡潔な言葉で表現し、伝えたことは、安倍首相の言語能力の高さを意味するものである。

 日本のいわゆる「保守」派の中には、こうしたことを全く読み解けない人物がいるが、論ずるにも足らない。左派の思惑に見事に乗せられていることにも気付かないところが歯がゆいばかりである。

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卜部日記の「A級戦犯御意に召さず」報道について

 またぞろ昭和天皇がいわゆる「A級戦犯合祀」に反対だった、とも取れる記述のある侍従の日記が公表された。

 平成14年に78歳で逝去された卜部氏は大正13年生まれと思われるので、終戦時21歳と推定される。

 問題の「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」というものである。平成13年7月31日にある記述だということである。

 それ以前に「長官拝謁のあと出たら靖国戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」という記述が昭和63年4月28日にあるという。

 後者は、元宮内庁長官の冨田氏のメモに符号する、という指摘をしている新聞もある。

 しかし、この二つの記事の間には14年の隔たりがある。特に、明確に「A級戦犯合祀が御意に召さず」と記した記事は平成13年になってのことである。この隔たりをどう考えるかということを思うのである。

 こうしたことを論じるには、まだまだ断片的であり、昭和天皇がご晩年にどのような御思いをかこっておられたのかについては軽々しく判断は出来ないと思う。

 産経新聞の4月27日の記事に抜粋されている日記の要旨を見ると、生真面目な昭和天皇の面影が彷彿と蘇ってくるようにも思われる。また、御晩年に至っても尚ご公務に尽くされようとされるお姿が浮かび胸を締められる思いがするのである。

 卜部侍従の生きた年代は戦前に人間形成をしたとはいえ、敗戦・占領・戦後という激動の歩みを20代から30代という時にすごしていることを考えねばならないように思われる。いかなる人物であったのか。昭和44年12月から平成14年2月まで毎日丹念に記したとされる日記を、生前、朝日新聞に託したとされている。

 それにしても、御晩年の昭和天皇は、このような側近に囲まれていたのか、と改めて痛々しい感じがしてならない。

 そして、今上陛下の周囲におられる側近の方々はどうなのであろうか、ということが思われてくる。平成に入ってからの様々な不祥事を思い起こすと、平成の皇室をお守りする側近の責任は充分に果たされてきたのか、考えざるを得ないようにも思われてくる。その兆しは昭和天皇の御晩年にあったということである。

 猪瀬直樹氏が、昭和天皇は満足して目を閉じた、というようなことを書いていたが、全くの見当違いだと思う。彼は「ミカドの肖像」で世に出た評論家であり、天皇を論じて飯を食ってきた男である。単なる左翼ではないが、冷たくじろじろ見回す視線は、決して生身の人間の目ではない。三島由紀夫を論じた「ペルソナ」を読んだときに似たような感想を抱いたが、氏の本質であり限界であるのだろう。

 昭和の日を迎えるにあたって、昭和天皇の「御無念」ということを思わざるを得ないのである。勝手な憶測は控えるが、今の日本に対して憂慮されておられるに違いないと思うのである。

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続発する異常な殺人事件やレイプ事件の背後にある共通した原因についての一考察

 サンダーバード内レイプ事件、続発するバラバラ殺人事件、(殺人?)死体遺棄事件、児童虐待、スーパーフリー連続レイプ事件、また、あるいは学校におけるいじめ自殺事件も繋がっているようにも思われ、更には、イージス艦の機密情報漏洩事件なども繋がっているとも思われる。

 何れも、モラル崩壊、というよりも、道徳破壊、それも、単なる反道徳的な行動を敢えてする、というのではなく、道徳的な指標を全く欠落させた人間が出現してきた、ということである。

 1970年代に準備され、1980年代に蔓延り、バブル崩壊の頃に完全に定着したように思われる、いわゆる「性の解放」というものを考えないわけにはいかない。「援助交際」などという言葉は最近ではほとんど聞かれなくなったが、それはそのような忌まわしい事象がなくなったことでは全くなく、余りにも一般化してしまったが故にニュース性がなくなってしまったというに過ぎない。最近、全国高等学校PTA連合会が調べた、高校生の性交体験調査によれば、高校3年の女子の実に半数近くが性交体験がある、という結果が出ているのである。「腐女子」などという「アイドル?」グループまでが出現してきた。既に、少女自身が自らを腐れていると自称し、そこにまた性の刺激を求めて群がる少年たちがいる。既に「フリーセックス」は、市民権を得ている、という状況になっているように思われてならない。

 おそらく現在の30代以下の世代と40代以上の世代、それは1980年代以降に思春期を体験してきた世代ということになるが、若い世代はその大多数が、いわば「性情報の洗礼」を受けているのではなかろうかと思われる。

 その時期が、不思議なことに「女性差別撤廃条約」が批准した時期に一致するのである。女性運動の進展と、性解放の関連については、本格的な研究を必要とすると思われるが、その研究を進めること自体に圧力がかかるのではなかろうか。

 更に、その頃を境として、女性運動に関する書籍などの傾向が一斉に方向を変えるという事象が起こっているといわれる。それまでは、女性らしさを大切にすることが女性運動のひとつの重要な課題であったものが、百八十度転換といえるように、女性らしさ自体を否定する方向に塗り替えられているのである。こうした書誌学的なアプローチは出版状況を丹念に追うリサーチに基づく研究が行われれば相当に具体的なことが判ると思われるのだが、これも一つ大きな流れとして無視できないものである。

 いわゆる「ボーイッシュ」な女の子が持て囃される、女言葉を使わない、がさつな男言葉で話す少女が主人公の漫画が読まれる。もっと言えば、レディコミブームなどは一つの極めて不気味なモラル破壊の尖兵であったように思われる。

 性風俗産業の蔓延は途方もない広がりを持ち、インターネット時代が本格的に到来したことによって、性情報の蔓延には歯止めがかからない状況になった。

 そして、インターネット上のいわばバーチャルな情報のタネが、一斉に開花して、拡大再生産を繰り返し、いわば第2現実が現実を犯すという方向に暴走を始めたのではなかろうか。

 性の解放は、家族の絆を直接打撃する力を持つ。家族の中で、性は極めてデリケートなものである。伝統的な家族制度は、性の管理という側面があり、秩序を形成してきた。それはなぜ必要だったかと言えば、それなくして家族の絆は保てず、家族の絆なくして、剥き出しの個人で生き抜けるほど、人間の生きる環境は甘くはなかった、ということなのだと思われる。

 現在でも、たった一人で生き抜くことは不可能である。文明の利器とそれを維持し、運用する途方もない多くの人々の努力の上に生活しているに過ぎない。ある意味最も依存した存在なのである。それに気付かないでいること自体が悪い意味での「甘え」ではないかと思われるのである。

 性の解放は必然的に家族の崩壊をもたらす。家族の絆を断たれた個々人は精神的にも肉体的にも極めて脆弱な状況におかれる。その中で代替を求める。そこに様々な落とし穴が待ち構えている。そういう構造が、特に青少年の犯罪が激増する背景にあるのではなかろうか。

 既に30年近くこのような状況は徐々に、しかし確実に進展してきた。その結果が、冒頭のような事件の続発ということになったのではなかろうか。

 これが仮に日本人の民族性を破壊する工作だとしたら、大成功であるということが出来るだろう。

 フリーセックスは深刻な自己否定の精神的な傷跡を残すことが心理学的にも言われるようになっている。女子高校生の半数近くが性体験を持っているということの意味は、彼女らがほぼ確実に精神的な傷跡を抱えて母親になっていくということを意味する。児童虐待の原因に繋がっていないとするほうがおかしいであろう。

 更に言うならば、このまま行けば、かつてヨーロッパやソ連などで起こった事態に近づくことになるだろう。

 「性」が持つ「暴力性」は、特に男性において極めて強力な原動力となる。フロイトがリビドーの昇華という仮説を述べて、全ての文化の進展の力は根底において性にあるとしたが、そのような仮説が成り立つだけの自然科学的な生物としての人間の実態はあるのだとはいえるだろう。

 しかし、全てを「性欲」に還元してしまうフロイティズムは、現在の心理学を席巻しているわけではない。むしろ、心理学の進展はフロイトへの批判から始まったということも出来ると思われるのである。

 フロイトの学説は渡米して、アメリカにおいてフロイト左派となり、フリーセックス運動のひとつの典拠になっていった。20世紀を「戦争と革命」の世紀とし、未曾有の人命破壊をもたらした背景にある二つのイデオロギーを抽出するならば、一つはいわずと知れたマルキシズム(共産主義)であり、もう一つがフロイティズムであるといえるように思われるのである。

 何れのイデオロギーも、それ自体は批判されながらも、強い生命力を失わずに、現在に至るもその亜流や変種は世界中に破壊の種をばら撒いていると言って過言ではない。

 性衝動の強烈な破壊力を解放することこそが、「性の解放」「フリーセックス」であり、30年近くもの間、青少年に洗礼を与え続ければ、今の状況はむしろまだ序の口であると考えた方がよいと思われる。

 手をこまねいていれば、10年以内には、現在の状態もまだ平和だったというように回想されるようになるだろう。既に現在がそうである。現在を考えれば10年前は色々あってもまだ平和だった。その時点から考えて10年前は更に平和だったと回想していたと思う。我が国の精神状況を見ると、坂道を転がり落ちるように、精神的・道徳的な転落を続けているように思われる。

 もう少し慎重に見れば、非常識な事件を起こす人々の世代が、いわゆる団塊の世代に発しているという指摘もある。かつて老人は道徳の指標足り得たが、これからは判らない。

 ともかくも現象の背後にあるものを鋭く見抜く知性と感性、そして義を見てせざるは勇無きなり、という言葉を心に刻み込んだ青少年の育成、道徳的な生き方が仰がれる社会風潮、こうしたことを地道に積み重ねることを30年続けることが出来れば、滅亡の淵から回復することが可能だと思われる。しかし、必ずこうした努力に対する攻撃が、名目はともかく起こってくるだろう。そうしたときに負けないだけのものを培うことが必要なのだと思われる。

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2007年4月24日 (火)

許すまじ「サンダーバード」内のレイプ事件

 犯人の陋劣さには反吐が出る、是非とも極刑に処していただきたいと思う位である。

 しかし、それもさることながら、同じ車両にいたという40名ほどの乗客。誰も、何もしなかった。犯人と同列である。共同正犯といってもよい。不作為によるレイプ事件の放置。気付かなかったという間抜けを除いて、日本人に、最早「勇気」とか「正義」、あるいは「道徳」という観念が地を払ってしまったことを如実に示すものである。

 不正・不義を見て見ぬふりをする。

 あの佐賀の17歳少年によるバスジャック事件のことを思い出した。あのバスにいた堂々たる大人の男たちは誰一人として彼を取り押さえようとするものはなかった。僅かに年配の女性が抗議したが、帰って殺されるという悲劇になった。それに対しても誰一人助けようとしなかった。

 そういう卑怯者たちの蠢く国になってしまったのが、今の日本なのである。

 こう指弾する自分は、果たしてその場にいたら何が出来ただろうか。不正を正す何かの行動を起こすことが出来ただろうか。

 少なくとも、こうは思う。いざというとき、不正を正すために、何かの行動を起こす自分であろう。

 卑怯者にはなりたくない。

 日本の男がここまで駄目になってしまった原因は一体なんだろう。やはり戦争に負けたからか。

 道徳観念がなくなり、宗教教育もない。こんな恐ろしい国はまたとないのである。何が起こっても不思議ではない。少なくとも外国からはそう見えるだろう。社会秩序を守るために、全体主義的な方向に社会全体を引きずっていこうとする勢力もあるかもしれない。相互不信がいきわたった社会にするのである。そうなったら人間の魂は窒息してしまうだろう。しかし、少なくとも、伝統的社会秩序を否定してきた戦後の方向性には、最終的にはそこに行き着くほかないというのが論理的帰結というものである。

 あえて言えば、これも憲法問題なのである。日本を、こんなに堕落させたのは、憲法なのだ。飛躍であり、こじつけと思われるかも知れないが、とっくの昔にこのような日本になることを指摘していた人もいた。

 「武士道」が叫ばれるが、声高に叫ばれるようになったということは、それがなくなったことの証左ではないか。日本も遂にここまで来てしまった。

 安倍首相が「美しい国」づくりに努力しても、虚しいほどに壊れてしまっているのかもしれない。そして、もっと壊したい奴らが、国会の中にも、外にもうようよしているという百鬼夜行、いや、百鬼昼行の世相を、逆転するには、ウルトラCはない。一人一人の中に、「勇気」と「正義」と「道徳心」を回復させていくしかない。目の前の一人を救う勇気と行動を実践するしかない。

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2007年4月23日 (月)

長崎市長選における「世襲批判」への疑問

 統一地方選が終了し、世情もこれでようやく落ち着くことになる。

 色々なことがあったが、何よりも衝撃的であったのは、やはり長崎市長選である。

 現職の市長が、選挙事務所前で銃撃され、死亡するという極めつけの異常事態が発生したのである。

 それを受けて、亡くなった伊藤一長市長の娘婿が、急遽市長選に立候補し、無念を晴らすとして戦った。違和感がないではなかったが、大方の流れは決まるのではないか、と思っていた。

 ところが、蓋を開けて見ると、全く別の人が当選していた。票差は933票と極めて僅差である。それで、どうも腑に落ちない。このもやもや感を何とか表現したいと思う。

 この勝利した元市職員課長は、「世襲批判」を打ち出して、「世襲は是か非か」と、選挙の争点を提起した。ある意味判りやすいが、「世襲」という言葉は、選挙なしで血縁関係(あるいは縁故関係)によって世代交代がなされることである。それ自体は善でも悪でもない。しかも、選挙である。選挙で戦って勝つということは、市民から直接信任されることであって、「世襲」ではない。それがたとえ故市長の悲運への同情であってもである。

 今回の長崎市長選について言えば、伊藤市長が生きていれば、現職の強みもあり、当選は相当程度確実であったと思われる。市民も、伊藤市長のこれまでの実績の延長線上の施策を望んでいたに違いない。その意味で、実は「伊藤市長の遺志を継ぐ」として、「精神的な世襲」を標榜した娘婿の出馬には、一つの意味があった。

 それは、彼が当選した場合には、市民の意思として、「故伊藤市長の政策を継承すること」を条件とされたとみなされるからである。仮に政策を変える場合にも、故伊藤市長の遺志を無視することは出来ないだろう。

 しかし、当選した市職課長はどうだろうか。

 彼はフリーハンドを手にしたのである。

 彼は自ら表明しているように、伊藤市長の政策を継承するとは言ってない。彼がどのような政策を構想しているのかについて、選挙戦で語られたのかどうかは部外者にはわからないが、「世襲、是か非か」というわかりやすい二分法のフレーズが大きかったことは間違いない。しかも、「伊藤市長の長崎市への愛は継承する」として、あたかも故伊藤市長の何かを継承するかのような錯覚を覚えさせることを言っているが、卑しくも市長に立候補するものが、その市を愛していないということはあってはならないことではないのか。つまり、当たり前のことを、政治的パフォーマンスで最大限利用しているのである。「変えるべきところは変える」というが、その「変えるべきところ」というのは、故伊藤市長の政策への批判であろう。そこには当然政策論争がなければならないが、伊藤市長はもはや何も言えないのだから、論争になるはずもない。

 「世襲是か非か」というのは理屈である。決して道理ではない。

 「故伊藤市長の遺志を継承する」は、条理兼ね備えた決意である。少なくとも、具体的な姿がある。

 もう一つ疑問を呈すれば、たった3日間でよくもまあ選挙を戦えたものだ。市職員という彼の身分を考えると、背後にある巨大組織「市職労」が想定される。最近は、「勝手連」という形態がはやりだが、言っちゃ悪いが、「勝手」にやっているというのは名ばかりで、様々な組織がそれを動かしているというケースが殆どなのが実情である。そのことを考えれば、「勝手連」という隠れ蓑の裏に何があるのかは不気味である。

 長崎市長選が教えるのは、日本人が理屈で動くようになったという一時である。頭で動くようになったといってもよい。頭が理屈で説得されれば、心がどのように感じていようともその判断には従わないのである。これは、日本人の変質といってもよいと思われる。こちらの方がむしろ空恐ろしい気がするのである。

 そして、長崎市民は、伊藤市長を失った。そして、故伊藤市長をも失ったのである。

 最早、伊藤市長の時代にはそのような政策は取らなかった、という批判は通らない。なぜなら、選挙で「故伊藤市長の遺志を継ぐ」とした候補を落とし、「故伊藤市長の長崎市への愛は継ぐが、政策は別だ」という候補を選んだのだから。

 おそらくこれから起こることは、伊藤市長の市政への批判であり、あるいは暴露であろう。そして、幻滅と怒りを呼び起こしたところで、全く異質な新し気な政策をやってみせるのではないか。一種のミニ革命劇が見られる、そのような気がするのである。勿論、思い過ごしであれば、それに越したことはないが。

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2007年4月18日 (水)

自民党は党として自殺しようとしているのか ~衛藤晟一(えとうせいいち)氏への仕打ち~

 公明党に配慮して、自党の候補に厳しい仕打ちを仕掛ける。

 これは、自民党の「自殺行為」ではないか。

 選挙協力することはよい。勝つためにはそれもありうるだろう。

 しかし、自党の候補を他党の言いなりに邪魔者扱いして、政党というものは成り立つのか。

 衛藤氏は確かに「郵政」で小泉首相の方針に反対して「郵政解散」選挙で敗北を喫した人物である。

 あの嵐のような選挙選で、「刺客」まで送られながら、無所属で立候補し、前回の得票数を上回る善戦をした人物である。村山富市元社民党の地盤である地域で、強い民主党候補に僅かに及ばず負けはしたものの、そのねばり強さには、目を見張らせるものがあった男である。その得票数を見る限り、公明党が選挙協力を申し出た時よりも票数を伸ばしているのである。如何に公明党の協力というものが、自民党をコントロールするために利用されていることか。恐らく、衛藤氏に対する応援など、標榜している時でさえ皆無であったのではないか。

 それでいて、公明党は比例代表の議席を伸ばすために、極めてねじれた選挙戦略を取り、自民党支持者に対して、比例では公明党を入れさせようという腹なのであろうか。衆議院選とは違うが、一体どうするのかは見物である。

 公明党の票分けが徹底しているとは定評がある。3000票が当落ラインで、7000票の票をその地域で持っているとすれば、きっちり3500票づつ分けて二人通すのが公明党である。これほど統制の取れた組織は、日本全国を探しても他にはないのだ。しかし、一方でその票を他党のためにどのように動かすことが出来るのかは、また別の問題である。

 今回の統一地方選挙の結果を厳正にデータ集積すれば、公明党が持つ票の基盤が露になる。公明党の限界ラインというものが見えてくる。それを先ずは的確に把握し、選挙協力がどれだけの意味を持つのかについて、冷徹に票読みをすることが必要である。公明党幹部が勝手に口にする票数と、実際に地方議会で公明党選出議員が獲得した票数の集積との間に齟齬はないのか、それを明確にすることから、公明党の選挙協力に対する冷静な分析がなされるというものである。

 大体、公明党は明確に自民党に癒着し、自民党を取り込み、自民党を溶かそうとする存在である。わけのわからない法案が出てきたら先ず疑ってかかる必要がある。同床異夢であることは間違いない。勿論、協力し合うことが可能な分野や政策もあるかもしれないが、そうでない面も多々あるはずである。そうでなければ別の政党として存在している意味が判らない。それとも、公明党を実質的な最大派閥とする実質的な自公党という政党であると国民にアピールするのだろうか。

 自民党は、公明党と癒着したことにより、明確に民主党に鞍替えした有力な宗教団体があることを認識すべきである。また、自民党が真正保守の政党であると期待して支援してきた多くの団体の中に、じょじょに広がる幻滅と、自民離れと民主党保守系候補への傾斜を見逃してはならないであろう。

 そういう足し算、引き算が出来ないと、自民党は今以上に国民から見放されることになる。今の民主党に政権政党たる足腰が備わっているとは誰も思っていないが、未熟でもやらせてみようか、というような流れが出てこないとも限らない。その意味では、今回の参議院選では、民主党は政権に向けたある意味最後のチャンスと位置づけて戦いを仕掛けてきている。

 自民党が公明党との連立を切れない最大の理由が参議院にあることは誰でも知っていることであるが、参議院での単独過半数獲得を目指さないというのであろうか。勿論、現実的でない、ということなのかもしれない。参議院に対する苛立ちが募っているのかもしれない。しかし、二院制を採用している限り、参議院を無視することもあってはならないことであること位、子供でもわかることだ。

 あるいは、参議院の自民党議員は、単独過半数を獲得することを望んでいないのかもしれない。

 もしそのような状況になったときには、かつて「カーボンコピー」と蔑まれたような事態の再来を招きかねないと警戒しているのではなかろうか。過半数割れをしたことが逆に参議院の自民党議員の発言力を増したことは紛れもない現実であるからである。複雑な心境にもなるだろう。

 そうは言っても自民・公明で参議院の過半数が取れなければ、政権の不安定化は免れず、安倍政権の短命化にも繋がりかねないということで、安倍首相も真剣である。

 国民新党も、全国比例で一人位は通したいと思っているだろう。当然、政界再編を仕掛けたいのが本音の筈だ。

 文字通り、今後少なくとも3年の国政の行方を占う選挙にはなる。

 自民党が自民党としての襟持を捨て変質に拍車をかけるのか、あるいは真正保守政党としての誇りを取り戻すのか、今や瀬戸際に来ているといえるだろう。

 小泉首相は古き悪しき自民党の体質を「ぶっ壊した」かもしれないが、安倍首相は、自民党の本質を救い出して、国民の期待に応えられる真正保守政党として生まれ変わらせることが求められているのである。

◆大分・福岡・東京、事務所転々…衛藤版「復党はつらいよ」(読売新聞)
 
 参院比例選の自民党公認候補の衛藤晟一・前衆院議員が、住所を地盤の大分市から福岡市に移したところ、党執行部が公明党との選挙協力への悪影響を懸念し、東京都への再転居を指示したことが18日、分かった。衛藤氏は執行部の指示に従う方針だ。

 郵政造反組の衛藤氏は3月に自民党に復党する際、<1>地盤の大分県以外に住所を移す<2>大分県内で選挙活動をしない――などの確約書を党に提出した。大分県内で活動すると、公明党の比例選候補の得票を減らし、自公選挙協力に支障が生じるとして、中川幹事長らが衛藤氏に命じたものだ。

 だが、衛藤氏が隣県の福岡市に転居したため、中川氏や谷津義男選挙対策総局長が慌てて「福岡は大分に近すぎる。東京に移さないと公認を取り消す」と衛藤氏に迫った。公明党の強い要請もあったという。

[読売新聞社:2007年04月18日 19時16分]

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2007年4月17日 (火)

「300日規定」見直し論議のおろかさ

民法772条にある「嫡出推定」条項が問題化している。

第七百七十二条  妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。
2  婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。

 極めて当たり前の話であり、婚姻中に、夫以外の男性と性交渉を持たないことを前提として成立している条文である。一つの家庭が成り立つ上で、必須の条件の一つであり、その枠組みを定めた法といえる。

 現在、与党PTが検討している案というのは、婚姻中に他の男性との間で懐胎した子供が、その男性の子と認められないという現行法の運用を、一定の条件を課して認めるというものである。

 法的に親子関係を覆すことが出来るのは、原則父のみであることが、以下の条文で決められている。

 (父を定めることを目的とする訴え)
第七百七十三条  第七百三十三条第一項の規定に違反して再婚をした女が出産した場合において、前条の規定によりその子の父を定めることができないときは、裁判所が、これを定める。

(嫡出の否認)
第七百七十四条  第七百七十二条の場合において、夫は、子が嫡出であることを否認することができる。

(嫡出否認の訴え)
第七百七十五条  前条の規定による否認権は、子又は親権を行う母に対する嫡出否認の訴えによって行う。親権を行う母がないときは、家庭裁判所は、特別代理人を選任しなければならない。

(嫡出の承認)
第七百七十六条  夫は、子の出生後において、その嫡出であることを承認したときは、その否認権を失う。

(嫡出否認の訴えの出訴期間)
第七百七十七条  嫡出否認の訴えは、夫が子の出生を知った時から一年以内に提起しなければならない。

第七百七十八条  夫が成年被後見人であるときは、前条の期間は、後見開始の審判の取消しがあった後夫が子の出生を知った時から起算する。

 普通に考えれば、夫から 「俺の子じゃない」と言われたら妻は途方に暮れるだろうが、このように言う権利は父親には担保されている。母親は原則的に自分の子を自分の子ではない、とは言えない。問題になるのは父親である。婚姻関係が重要なのは、父親を特定して、安定して社会的な認知を受けるということが大きい。

 その安定性を、自ら覆すようなことを仕出かした上で、その権利を認めろというのが、今回の論議であり基本的な婚姻のあり方、家族の安定性まで関る問題であると思われる。

 血縁は重要なファクターであり、生物学的な血のつながりというものは人間存在の根底にまで結びつく。しかし、人間は、家族という一定の秩序の中で安定して存在しており、血のつながりの関係もそこで安定するのである。むき出しの生物学的な関係だけを抽出して、それのみを重視して親子関係を特定するというのは、家族制度としては難しい問題をはらんでいるといえる。

 その女性の倫理の問題にもなってくる。倫理的な要素が問われない議論は極めて浅薄なものになってしまうのである。

 結局、「不倫」が、背徳行為であるという認識を著しく脆弱にしてきた戦後の風俗の婀娜花であり、それを助長するような法改正はすべきでないと思われる。

 「貞操など古い」「何で男は言われずに女ばかり言われるのか」という俗耳に入りやすい抗議が予想されるが、下らないことである。このような女性を堕落の道に引き摺り下ろすような議論が、あたかも正論であるかのようにまかり通ってきたところに、様々な問題が生まれているのであって、このような議論になんら耳を貸す必要はないのである。

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2007年4月13日 (金)

昭和天皇をお偲び申し上げて

 平成19年4月29日は、記念すべき「昭和の日」である。

 平成19年にしてようやくこの日を迎えることが出来ることは、感慨深いものがある。

 平成生まれの子供たちが今年3月、高校を巣立っていった。昭和を知らない世代が社会の一員として登場してくるのだ。この時にあたり、昭和という時代がどのような時代であったのかを、若い世代にも深く知ってもらいたいものと思うのは、恐らく年配の方々の多くの思いではなかろうか。

 しかし、昭和の歴史については、昭和20年8月15日の敗戦を境として、前後に裁断された認識が幅を利かせている。我が国の歴史始まって以来始めて外国に負けて本土を占領されるという屈辱を受けたのだから当然といえば当然なのかも知れないが、独立を回復し、経済的な復興をしても、精神的にはまだまだ傷跡は癒えないということなのかも知れない。

 近年、ようやく歴史の見直しが広く浸透してきて、それと同時に、いわゆる自虐史観をバックボーンにした政治勢力は著しい後退をしている。特に顕著なのが社会党であり、往時の勢いは見る影もない。共産党も看板の「赤旗」も半減し退潮傾向は止まらないようである。しかし、問題は、薄められた左翼主義が、保守政党であるはずの自民党を深く犯していることであり、かつまた民主党をも色濃く染め上げていることである。

 平成の時代は、日本の国の姿が揺れ動いている時代ということも出来るかも知れないが、昭和の負の遺産が精算されていないことがその大きな原因であることは間違いないであろう。

 昭和の時代は、西暦で言えば1925年から1989年という極めて長期間に亘っており、その前と後では世界全体が一変した観がある。昭和天皇という御人格なくして「昭和」という時代をひとくくりにすることは不可能といってもよいだろう。世界の歴史にも稀に見る御人格であり、これほどの激動を潜り抜けてきた君主は世界のどこにもないといってよい。かつまた、その無私の御足跡も顕著であり、この天皇の御世に生を受けたことをただ喜ぶ他はない。

 平成の時代は、ある意味昭和の歴史以上の苦難の歩みであるように思われてくる。昭和の時代には少なくとも日本国民が日本国民であったが、平成の民は日本国民であることを止めようとしているとしか思えない。「美しい国日本」の再建は、国民精神の回復以外にはないように思えるのである。「美しい日本」などと言えば嘲笑する人々が少なくないのである。彼らの中には「美しい日本」は最早存在しないのであろう。結局、国は心の中に存在するものである。「美しい日本」も、国民の心の中に宿るものである。嘲笑する人々は、自分の中に「美しい日本」がないことを証明しているに過ぎない、哀れな浮浪の民に過ぎないのだ。

 昭和の時代を振り返ることは、決して後ろ向きなのではない。これから前に進むにあたって、足元を見定めて大きく羽ばたくために必要なことなのだ。だからこそ、平成生まれの若い世代に、昭和天皇の御足跡を知ってもらいたいと思うのである。

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2007年4月10日 (火)

戦略ミスは戦術ではカバーできない

 広島の市長選挙は現職の秋葉の圧勝となった。
 現職有利は世の常だが、追いすがる新人の戦略が如何にもなっていなかったといわざるを得ない。分裂を3度繰り返した自民党は、正に解党的出直しをしなければどうにもならないであろう。落選した柏村陣営は最初から読み違えがあったのではないか。

 大体、中川幹事長がなぜ柏村に声をかけたのかといえば、7月の参議院選で、子飼いの溝手と競合する柏村を排除するのが第一目的だったという勘繰りがある。それにしても、ここまで大負けするとは予想していなかったのではなかろうか。

 第3の候補、大原ははじめから現職の秋葉よりも、柏村をターゲットに運動を進めてきたように思われる。
 これも勘繰りになるが、現職の秋葉陣営が、大原立候補を焚き付け、柏村への批判の役割も含めて担わせたのではないか。そして今回は及ばなくても、次回秋葉を継ぐ形での応援の約束を取り付けたのではなかろうか。今後の流れを注視したいところだ。

 広島市長選挙を総括するならば、柏村は立候補したこと自体が間違いだった、ということになりそうだ。

 彼を知りて、己を知れば、百戦して殆うからず。
 彼を知らずして、己を知れば、一勝一負す。
 彼を知らず、己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し。

 柏村陣営は、この3行目だったといえよう。

 はじめに戦略が間違っていたら、どれほど現場で戦術的に超人的な努力をしようとも、大勢を挽回することは不可能である。

 広島では現職の自民党県議会議員が10名落選した。県の政界再編は必至であろう。

 民主党公認候補が4人当選した。民主党の基盤が地方政界に次第に根を下ろしつつあることを象徴しているようにも思える。

 そして、公明党は議席こそ守ったものの得票数を軒並み落とした。限界を露呈した観がある。

 だからといって自民党全体が駄目だというのではない。圧倒的な勝利をした候補も少なくないからである。また、無所属新人の中にも明らかな保守系当選者が散見される。

 時代の変わり目の選挙だったといえそうだ。第二ラウンドの結果を待ちたい。

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