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2007年2月18日 (日)

「会津藩教育考」に見る初等教育

 知る人ぞ知る、山口のマツノ書房より、このたび復刊された「会津藩教育考」は、限定三百五十部復刻といふことで、その刊行が待望されてゐた。

 装丁の素晴らしさはさすがと評す外ない。

 この書の価値について説明する程の蓄積はないが、緒言を紹介することによつてその紹介に替えたい。

 緒言

 会津藩は徳川幕府中世以来文教武道を以て天下に名ありき、是れ決して吾等の私言にあらず、文学博士三島中州翁の曰へることあり、会津藩は尚武を以て俗を成し、往時に鳴れりと、又曰く、余天保の初に生る、当時海内の文藩は、人必ず指を会津藩に屈せり(原漢文)と、会津藩教育の淵源は既に藩祖公時代に発し、歴代益々文武を奨励して、子弟を養成したる結果、幕府の年末天下騒擾に際しては、能く力を王事に尽し、且つ宗家の為には藩国を犠牲に供するを惜まず、特に白虎隊殉国の如き、婦人殉節の如き、壮烈極まる事蹟を世に残すに至れり、近来世道人心大に弛廃し、悪思想天下に蔓延するに当り、憂国の士にして会津藩の教育に注意を惹き、其の資料を求むる者少からず、而して此の要求に応ずる良書としては、故小川渉先生の編著に係る本書に勝るものあらず、先生は会津藩士にして、幼児藩校日新館に学び、才学優秀を以て選抜せられて江戸昌平黌に留学を命ぜられ、博識能文を以て名あり、維新の後奥州斗南に移住し、同志と青森新聞を興して其の社長に挙げられ、公論正義を以て一時縣下を風靡せり、先生夙に会津藩教育の沿革を記述するの志あり、是に於て筆硯多忙の余暇を以て稿を起し、其の間或は上京して旧藩公松平家に就き諸記録を渉猟し、或は諸家の筆記を閲し、或は故老朋友に質し、苦心惨澹、数年を経て脱稿せり、本書即ち是なり、実に本書は土津公治世以来会津教育の淵源、町講所の設立、日新館の興起、市村の教育、教育制度、重なる教令、及び教育に功ありし諸名士の略伝等を年代を追うて記述し、独り文教のみならず、武術の教養及び士道の奨励に至るまで、網羅詳録せるを以て、之を通読すれば、会津教育の沿革、真相及び戊辰壮烈事蹟の由て来る所を知るを得べし、是に由て吾等相謀り、小川家の承諾を得て之を発行し以て希望者の需に応ずることとせり。(略)
昭和六年十二月         会津藩教育考発行会

 この「緒言」中、「近来世道人心大いに弛廃し、悪思想天下に蔓延」とは、昭和初期の事を指してはいるが、平成の現代に置き換えても聊かも違和感を感じない。

 悪思想の天下に蔓延すること、昔日の比ではないとも言へる。世道人心の弛緩腐廃するに於てをや。

 現在、政府は「教育再生会議」を設け、教育基本法改正後の具体的な教育改革の推進について鋭意議論を尽くさせている。民間にあっても「教育再生機構」の民間タウンミーティングが各地で開催され、教育改革の灯火は今や燎原の火の如くに広がり、この中から必ず新しい日本を支えるに足る教育が生まれるものと信ずるが、そのためにも真の意味で叡智を結集していかねばならないと痛感する。

 そのための資料として、この「会津藩教育考」が、大いなる力となると思ふのである。

文化二年の正月十九日の「幼年者心得之廉書」を一つ参考の為に転記してみたい。

其一 毎朝早く起き手あらひ口すすき櫛(くしけず)り、衣を正ふして父母の機嫌を伺ひ年齢に応じ座中を掃除し客の設け等致すべし

其二 父母およひ目上の者へ朝夕食事の給仕茶煙草の通ひすへし父母一同に食するならば父母の箸を取らさる内は食すべからす故ありて早く食することあらは其訳を告て早く食すべし

其三 父母およひ目上のものの出入りには必ず送迎すべし

其四 出る時は父母に見て暇を乞ひ行先を告け帰る時も同く其旨を告くへし凡て何事も父母に伺ひ己れ専らになすべからず

其五 父母およひ目上の人の前にて乍立(たちながら)物言ひ乍立物聞くことをせざるべし寒けれども手を懐ろにせず暑けれとも扇つかはずはたぬかず衣の裾をかかげす其外不奇麗のもの父母の見る處に置くべからず

其六 父母およひ目上の人事を命じ給はば謹(つつし)みて承(うけたまは)りそのこ事を整ひ怠(おこた)るべからず己呼ひ給はば速(すみやか)に答て走り行くべし仮初(かりそめ)にもその命に違(たが)はず不敬の応声すべからず

其七 父母衣服を重ぬる様に命じ給はば寒く覚えずとも命に従ふべし新に衣服を賜はば嗜(たしな)まざるものにても慎(つつし)みて戴(いただ)くべし

其八 父母の常に居給ふ畳に仮初にも居るべからず道の真中は尊者の通る所故片寄り通るべし門の閾(しきい)を踏まず中央を通るべからず君門は猶更(なおさら)のことなり

其九 先生又は父兄と役義を同ふする程の尊者に道に逢ふ時は路の傍(かたわら)に控(ひかえ)て礼をなすべし行先抔(など)問ふべからず共に行くとも後れ行くべし

其十 人を誹(そし)り人を笑ひ或は戯(たはむれ)に高きに登り深きに臨み危きことなすべからず

其十一 凡て学習のこと先づ貌(かほ)を正しく己を謙(へりくだ)り敬(うやまひ)て其業を受くべし

其十二 容貌(ようぼう)は徳の則なりといへば士庶人屹度(きつと)分れ見ゆる様に威儀をたしなみ不敬不遜の容體無之様にすべし尤も何程懇意(こんい)に交るとも言葉を崩さず目下のものの挨拶奴僕と等しからざる様にすべし言語も他邦に通ぜざる野鄙(やひ)の言葉は常に気を附け直すべし

其十三 父母ある時は送物の類私にすべからず人より送り物ある時は拝してこれを受け父母悦んことをいふべし凡てこれに準じ家長を称すべし

其十四 父母の助けとなることは聊(いささ)か労を厭(いと)はずまめやかに勤め行ふべし

其十五 尊者我が方に来歟或は他へ行きたる時我に上立つ人来らば其座を立て迎ひ帰りにも又送るべし客を得ては奴僕は勿論犬猫の類に至るまて叱ることすべからず尊者の前にて噦噫(えつい)し嚔(くさめ)欠伸(あくび)すべからず凡て退屈の體(てい)すべからず  (※噦噫/しゃっくり、おくび、ゲップ)

其十六 長者何事にても問ふことあらば先づ一座の人を顧望して答ふべし己先立て率爾に答ふべからず

其十七 酒宴遊興を楽とすべからず年若の時別して愼(つつし)むべきは色欲なり一生を誤り名を汚すものなれば幼年の時より男女の別を辨(わきま)ひ色欲の咄(はなし)すべからず或は戯言を以て人の笑を催し軽浮の貌(かほ)すべからず争ひは我慢より発するものなれば常に愼むべし

 十七条にまとめたのは、或は聖徳太子の十七条憲法に准えたのかもしれないが、それにしても現在においても、此の通りに身を正していけば、まず間違いの起ることはあるまいと思われる。また、奇矯なことは一切なく、実に行き渡った訓戒である。

 子供ならばこの訓戒にある条々に外れても叱られる位で済むが、大人ともなれば、ここにあること位は出来ていなければ、少なくとも上流社会では全く通用しないだろう。逆に言えば、現在、此の程度のことさえ出来ていない成人も多い中、これらのことをしっかりとわきまえて身につけていけば、自然と重きをなしていくだろう。

 会津藩では、これを童子訓として徹底していたのだから、藩全体が引き締まらないということはありえなかっただろう。

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