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2007年2月

2007年2月25日 (日)

中川幹事長のご都合主義?

 昨年の復党劇では、謝罪の念書まで準備して平沼赳夫衆議院議員の復党を妨害した中川幹事長が、一転して同じく郵政民営化に反対し、小泉劇場下における衆議院選挙で惜敗した衛藤氏の復党と参議院選挙比例区へのへの鞍替えについては容認するというご都合主義的な動きをしていることはどのように解釈すべきであろうか。

 衛藤氏の復党と参議院選挙比例区への公認は、安倍総理の決断で決まったという。中川幹事長は、その直前に「首相への絶対服従」を強調して顰蹙を買っていたが、安倍総理がそれを逆手に取った格好になったわけだ。
 安倍総理の政治理念、政治姿勢と自分は同じだと、(具体的な事柄については触れないのが特徴だが)常日頃からアピールしている中川幹事長であるが、安倍総理と政治理念を共有する平沼氏の復党についてはあれほど露骨な平沼排除を行った前歴がある。衛藤氏に対して昨日兵庫県の講演で、「安倍首相と同じ方向性を持つ人なら、現在どのような立場でも結集してもらわなければならない。現在や過去の立ち位置を問うより、これから始まる大きな改革への、未来への立ち位置が大事だ」と述べたというのだが、ならば平沼氏の復党に関しても同じことが言えるのではないか。

 安倍政権の支持率が下がってきているというが、これは左翼マスコミが、安倍政権を貶めるために、安倍首相が変節しただの、顔が見えないだのと、かつての超タカ派という批判の方法から一転して恰もこれまでの安倍首相の政治姿勢を支持していたかのようなスタンスからの批判をしてきたことが大きい。保守派が朝日に踊らされた結果とも言えるだろうし、朝日の戦略が功を奏しているとも言えるだろう。しかし、そのような小手先の術がいつまでも通用するわけではない。

 今回の参議院選挙は、日本の存亡を占う選挙になる。もし、与党が大敗して安倍政権が退陣し、媚中派政権でも出来ようものなら日本の先行きは真暗である。安倍政権が旗色不鮮明であるかの如き嘘を垂れ流してきたマスコミの情報操作に踊らされず、本質を見抜く目を養わねばならない。今回の衛藤氏復党・参議院選挙比例区擁立は、安倍政権が決してブレていないことの証明であり、衛藤氏が圧倒的な勝利を収めることが、政権へのインパクトになることは間違いない。

 衛藤氏の地元の大分市は、日教組が強い。元社会党の村山富一氏と同じ地区でもある。圧倒的に保守色の強い九州にあって唯一県庁所在地で自民党が勝てない選挙区なのだ。そこで悪戦苦闘してきた衛藤氏の政治センスは、戦後左傾化した国を中正に立て直すためにも必要になるだろうと思われる。

 つい先走りをしたが、安倍総理に対して中川幹事長が如何に「忠誠」であるか、これからも注視していきたいところだ。

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「日本沈没」を読んで

 23日から24日にかけて、小松左京氏の「日本沈没」(光文社文庫上下)を一気に読了した。

 少しうんざりしていたので目先を変えるつもりで、手に取って初めて通読した。一年ぐらい前にそのうち読もうと思って古本で買っておいたものだ。

 いつだったか、何かの対談で、小松左京氏が、この小説を書いた動機について、次のように語っていたのを記憶している。

~日本民族は、日本という国土から切り離された場合、果たして民族として存続できるのか、というものだった。ところが、果たして日本列島は本当に沈むのか否か、という方にばかり関心がいってしまったので苦笑している。~

 いつか読んでみたいというのも、このような氏の言葉が心のどこかに引っかかっていたからである。

 通読してみて、「誤解」される理由もよく分かった。実にリアルに描かれているからである。関西大震災などについては、本当に予言的でさえある。

 この小説は色々な読み方が出来る。

 ・災害に対する対処。

 ・組織における人間、官僚、マスコミ、財界などの人間の実態

 ・政治というものの性質と政治に携わる人間像

 ・国と国との関係の冷徹さ

 ・地球物理学

 ・日本人とは何であり、何処へ行くのか

 ディテールに至るまで、実に丹念に描かれている。文学作品であるのだから当たり前といえば当たり前なのだが。

 この作品を、日本人論として読むことは、自分の記憶する作者の意図からすれば正統な読み方なのだと思うが、この国土と切り離しがたい歴史と伝統と文化を持つ日本人の在り方を改めて眼前に突きつけられるような思いがした。

 作品の中で、何の対策もせず、この国土と共に滅びるのが日本人にとって一番良い道である、という結論が、ディアスポラの影響を考える学者たちの結論に落ち着きそうになるという話が挿入されている。その結論は結局目的の趣旨と違うということで別枠の意見書として残されるにとどまるが、胸を突かれる思いがするのである。その結論を出した後、一人の学者は極度の疲労から息を引き取る。

 最後の場面で、主人公の小野寺を介抱する摩耶子という少女が、自分の生まれた八丈島に伝わる伝説、丹那婆の話をする。それは津波で凡ての島民が流されてしまった後にただ一人生き残った丹那婆という女性の話である。丹那婆は、その時身ごもっていた。男の子が生まれ、一生懸命育てた。そしてその男の子が成長すると、この島にはたくさんの人が住んでいた。昔のようにこの島を戻さなければならない。そのためにあなたに女の子を産んであげるからと男の子の子種を得て女の子を産む。そして、そのふたりが島人の祖先になったという話である。たとえ一人になっても生き抜いて生命をつないでいく、という凄まじい話だが、それが最後に語られて第一部が終るということになる。

 (余談だが、手塚治氏の「火の鳥」に同じテーマの話が描かれていたところがあった。)

 ずっと以前に、子供の頃、テレビドラマ化された「日本沈没」を見たことがある。断片的にしか憶えていないのだが、強烈な印象が残っていた。どんな話なのだろうかという興味はずっともっていたのだが、何となく敬遠していたのだ。
 今回読んでみて、もしこの日本という国が沈んでなくなってしまったら、ということを「リアル」に考えてみて、自分の心の反応を感じることが出来た。

 今、日本が現実に沈没する、ということはないかもしれない。しかし、日本人が日本人として存続できるかどうかという命題は、決して単なるフィクションの話ではない。歴史と伝統の国としての日本の沈没は、内からも外からも有り得るということ、それに対して、何が出来るのかということは、田所博士ではないが、小野寺ではないが、考えてみる必要があるのではなかろうか。

 小松左京氏の作品は、高校時代までにある程度読んだ程度で、それ以後は余り読んでいなかった。SFは以前は好きだったのだが、大学以後は殆ど読まなくなっていた。思考実験という意味でのSFは、意義のある文学であると思う。1970年代の雰囲気を濃厚に漂わせた作品ではあるが、今の時点から見ても全く古くないところが大部分であること、特に、日本人論としての思考実験は決して終っていないことを、感じる。

 第二部が、最近出ていたはずだ。また機会を得て、いつか読んでみたいものだ。

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2007年2月22日 (木)

「世界史の中の日本~危機の指導者群像~」に学ぶ

 故、村松剛氏の「世界史の仲の日本~危機の指導者群像~」を読み返した。

 溢れる才能を、遂に活かしきることの出来なかった、とも言われる氏の遺作である。

 通史を書くには大歴史家の手腕が要る、と言われる。歴史ものを書く人間として、通史に挑戦する誘惑に駆られない人もいまいと思う。しかし、現実に着手するとなると、途方にくれざるを得ない。自ずから守備範囲が決まってくるものなのだろう。にもかかわらず、日本通史に挑戦した氏の気迫は凄まじいものがある。

 元々フランス文学が専門の氏が、ここに至ったのは、やはり日本文明の独自性を発見したマルローなどに触発されたという面もあるのだろう。勿論、親交の厚かった三島由紀夫氏の影響は見逃せまい。

 手法も、日本書紀を軸としつつ、新羅、百済、高句麗の三国史記、中国の歴史書を閲し、更に、西洋、イスラムの旅行者の史料までをも視野に入れた、壮大な文明史論とも言える著作である。改めて、氏の凄さを思い知らされた。

 中東情勢については誰よりも肉薄していた氏が生きていれば、第二次湾岸戦争とも言えるイラク戦争についても適確な視点を与えてくれたことと思われる。残念ながら、氏は既に鬼籍に入り、氏を継ぐほどの人物はいない。これも現在の日本の不幸である。

 日本史を日本の枠組みの中からだけ見るのではなく、東アジア、更には世界全体から見直すということは、今後一層魅力を持つテーマであろう。しかし、その力の無いものがやってみても陳腐な結論しか出て来ないだろう。それでは面白くない。

 現在の日本が直面する文明史的な状況は、当時に似ているとも言えるかもしれない。

 聖徳太子の精神を学びなおすことが改めて求められているのかも知れない。

世界史の中の日本―危機の指導者群像

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2007年2月21日 (水)

遂にローマ史が日本人の薬籠中のものになった・・・

 VOICE3月号で、塩野七生氏のインタビュー記事が掲載されていた。

 言うまでもないことだが、「ローマ人の物語」全15巻を完結させたことがテーマである。ローマ通史を「非キリスト教徒」が書いた稀有な、もしかすると初めての、偉業である。

 特に、日本人にとって、中国史は、史記や十八誌史略、三国志などで親しみがあり、現在でも様々な形での「通史」(と言っても中国の場合には何度か完全に国家も民族も滅び去ってしまったケースがあるので、中国大陸に展開された歴史、という意味になるが)が書かれている。

 それに対して、西洋世界における「世界史」であるローマの歴史については、これまで一般読者にまで手の届く手ごろな「通史」は存在していなかった。今回のローマ建国から6世紀に至るローマ通史が書かれたことは、大袈裟に言えば「文明史」的な「事件」である、といってもよいのではないだろうか。

 欧米の指導者の頭の中に常に存在する鑑としてのローマを知ることは、日本がこれからの地球大で繰り広げられる国家の生存競争に生き残るためにも、是非とも必要な基礎知識であろうと思われるからである。

 学校で世界史の授業をカットするという問題が昨年発覚したが、学校など放っておいて、意欲のある若い世代はどんどんこうした書物に挑んでいけばよいと思われる。

 文章的にも平易であり、人生の智慧も学ぶことが出来るだろう。

 私自身、高等学校時代は「世界史」を選択した。当時はまだ選択制だった。日本史はあえて取らなかった。日本史について本格的に勉強したのは大学に入ってからである。高校の世界史も教科書的にはそれほど面白いものではなかったが、多くの本を跋渉した。知識欲に能力が追いつかず、ややノイローゼ気味になるくらいさまざまな本を読んだ。これは余談である。

 塩野さんが日本についてコメントする部分は時折引っかかるところがある。このインタビュー記事の中でも、日本の神々についての理解がやや浅いのではないかと思われる部分があった。
 「日本の八百万の神は自然増殖した数で、かつて朝鮮半島を、台湾を占領したときに、そこの人々が信じた神も、どうぞいらっしゃいと一緒にして増えた神じゃないですね」
 この言葉は、日本の歴史と伝統と宗教に対する、極めて浅薄な知識しか持ち合わせていないことを証明したもので、現在ではまあ、同じ程度の人が殆どであり、また、知っているほどの人は、苦笑して済ませる程度の大人の人が多いと思われるので、こうした誤りが正される機会がないのかも知れない。

 塩野さんは、明治以降しか視野に入っていない。だから、明治以前は、神仏習合が多くの場合通常の姿であったことに思い至っていないのである。神仏習合などという宗教的な離れ業は、ローマ人でさえやったことはないだろうと思う。本地垂迹説や其の逆の反本地垂迹説などについての立ち入った理解がなされていればまた違った書き方もあったろう。更に言えば、日本の神社の中には、高麗神社や百済神社など、古代朝鮮半島にあった国家が滅亡して民族を挙げて日本に移民した歴史がある。その人々がその祖先を祭ることを許し、現在でもその子孫の方が神社を守っているということをどう考えるのだろうか。日本は幸いにして、歴史始まって以来領域の激変を経験しなかった国である。そして、少なくとも有史以来においては、単一民族としての意識を持つことが出来るほどの融合が存在した。
 明治以後の台湾領有や日韓併合のことを問題として対比するのは、時間的な経過から言っても無理があるように思うのである。また、戦後の学者はとかく戦前の日本を断罪するのに急で、公正さを欠くことも多かった。
 単純な比較などできるはずはないのだが、まあ通俗作家にそこまで求めるのは無理というもので、それが大きな瑕疵であるとは、思っているわけではない。

 日本の独自の政治システムである、朝廷と幕府という二重政権構造、権威と権力の分離という政治の智慧などは、西洋で対比するとすれば、ローマ教皇と神聖ローマということになるのだろうか。「ローマ世界」は「終焉」まで書かれたかもしれないが、文明としてのローマがどのように継承され、現在に生き残っているのか、という命題にまで深く突っ込んで書いて貰えればもっと面白くなると思う。

 史料の読み込みの深さが勝負というのは、江戸期の学問のようで面白いと思ったが、日本人の視点から見たローマ史が明確な形となったことの文化史的な意味もまた大きいものがあるのだろうと思われる。自分としても、これなくしてはローマ通史を自分で勉強することは到底覚束なかっただろうと思う。その意味で、大変ありがたいことだと思うのである。


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2007年2月18日 (日)

日本の教育に「規律」の回復を!

 一昨年のことだったか、ある教育オンブズマンの学校訪問に同行して、道徳教育の授業を見学したことがある。

 その学校は、決して「荒れた学校」ではなかったが、あまりのひどさに唖然としたことがある。

 教師の話を聞いている生徒は半分にも満たず、机の上にうつぶせて寝ている生徒が数名、机の上に漫画やらなにやら積んであるもの数名。机はそろっておらず、私語するもの数組。

 教師の声もボソボソとして何を言っているのか分からない。生徒に資料を読ませてもその声もボソボソとして何を言っているのか分からない。

 最初から最後までこの調子だった。後で校長室で教頭先生も含めて話をしたが、一緒に見学していた教頭は、「よい授業だった」と発言、耳を疑った。

 大体、荒れているかどうかは、教室を見れば分かる、とはある現役教師の言である。

 この学校も、そうとう病んでいるという印象を持った。

 さて、しかし、現場の教師だけを責めても解決にならない。最近少しづつ認知されつつあるが、今は親があまりにもひどいケースが多い。給食費未納問題には唖然とさせられたが、これも悪しき教育で育った子供が親になり連鎖した結果だろうと思われる。元を正せば教育に原因があるというわけだが、現在、教師たちはその手痛いしっぺ返しを受けているともいえるだろう。

 一人の教師が変れば学校が変る。確かにそうした事例は多い。立ち直った学校も数多い。それは尊いことである。しかし、一人の教師の努力に期待し、依存するというだけでは、為政者側の責任を果たしたとはいえない。

 今回、現在の規律のなくなった日本の学校にいかにして規律を回復するかについて、画期的な論考を発表した研究者がいる。

 日本の義務教育現場が如何に異常かを、徹底した調査で明らかにし、諸外国と比較しつつ、諸外国が軒並み行っていることを、日本が行っていないという点に注目し、その導入を提言している。

 いわゆる欧米におけるゼロトレランス方式もそれに入るが、それよりも身近な台湾や韓国など、アジアの国々の事例を調べているところに特長がある。

 この論文は、日本の学校と教師、そして子供たちを救う決め手となると思う。いじめ自殺など早く過去の話にしてしまわなければならない。

「小中学校における新しい組織的規律指導」・・・義務教育に規律の規定を!

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「会津藩教育考」に見る教育の規範について

 「会津藩教育考」についてもう一つ紹介しておきたい文章がある。

 それは、「講所」において定められた「六科」「六行」「八則」である。

 これを定めた目的は、「按ずるに渾て修行は目的なくしては志も立ち難き」ためである。

 目的がなければ修行に志て精を出すこともない、ということである。これは天明八年八月二十五日に発布されたとあるが、それより遥か以前、寛政二年二月十七日のところにも「六行六科に進みて日々実行を励むへし」とあることから、一貫して行われてきた教則であると見てよいのではないかと思はれる。

 その探求は兎も角、原文を転記し、大方の参照に供したい。

六科

一曰古を稽ひ事に明かに治道に通し人の所長を知る者。

二曰人を愛して物に及ほし教化安民の道に志ある者。

三曰神道和学に達し吉凶の礼古実を弁ひ時々損益することを知り清廉にして能く欽慎なる者。

四曰古聖人の善とする所を知り時宜に従ひ事を處し武備教練の意を会得し沈勇にして決断ある者。

五曰人の為に謀り人の労に代る己か事の如く心を尽し忠信にして獄訟律学に長したる者。

六曰和順にして物の性に悖らず土木百工を導くの材能ある者。

六科中に就て大に得たる者は大に用い、少く得たる者は小に用ひ、之を審(つまびらか)にするに六行を以てす。

六行

一曰善く父母に孝なる者。

二曰善く父母に事ひ弟を愛し長を敬し幼を恵む者。

三曰善く家内及ひ親族に和睦なる者。

四曰善く外親に至る迄を親み本を忘れさる者。

五曰友に信ありて人に任せられ其事を担当して久しきに耐る者。

六曰親戚朋友に災厄疾病貧窮等あれば厚く之を賑恤する己の憂に遭ふか如くする者。

八則

一曰言行を愼ますして父母を危し事に順ならす喪に居て哀戚の容なく懶惰の行ある者。

二曰薄情にして家内親戚和せさる者。

三曰兄弟に友ならす師教にした循はす長を侮り幼を愛せさる者。

四曰言行信ならす面従後言或は男女穢褻の行ありて近隣朋友に疎まるる者。

五曰怠惰残忍にして親戚朋友等の艱難苦痛を救恤せさる者。

六曰謾りに浮言を造て衆を惑はし又非理なるを強弁し道理に従はす其行悖て粉飾する者。

七曰聖人の道を信せず党を結ひ猥に政令法度及び他人を誹譏し世俗の浮説を信して私智に矜り弁舌を以て事を壊る者。

八曰文武は相資る者偏廃すへからす己か学ふ所に執滞し能を妬み技を謗り猥に偏執の心を懐く者。

此の八過の内一も其身にあれば、仮令才智芸能ありと雖も其咎逃るべからす、常に心に存して愼むへし。

 以上の通りである。

 六科が目標に当り、これを評価するに当って六行と八科を以てするということだが、特に八科については確かにこのような人々が近くに居たら実に迷惑すると思われる。六行の出来ている人物がいれば現在にあってもその人の人望は厚く、物事を任せることが出来るだろう。

 会津藩の教育だけの特徴ではないと思うが、極めて具体的に事例を示していることにより、何をすればよいか、何をしてはならないかが明らかである。これは極めて公正であるといえるのではなかろうか。

 単なる教条ではなく、人間性に深く根差した性向を踏まえた上で、国家社会、つまりは公の為、つまりは社会全体の為、つまりは己の為になる人間の育成をめざしたものである。


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「会津藩教育考」に見る初等教育

 知る人ぞ知る、山口のマツノ書房より、このたび復刊された「会津藩教育考」は、限定三百五十部復刻といふことで、その刊行が待望されてゐた。

 装丁の素晴らしさはさすがと評す外ない。

 この書の価値について説明する程の蓄積はないが、緒言を紹介することによつてその紹介に替えたい。

 緒言

 会津藩は徳川幕府中世以来文教武道を以て天下に名ありき、是れ決して吾等の私言にあらず、文学博士三島中州翁の曰へることあり、会津藩は尚武を以て俗を成し、往時に鳴れりと、又曰く、余天保の初に生る、当時海内の文藩は、人必ず指を会津藩に屈せり(原漢文)と、会津藩教育の淵源は既に藩祖公時代に発し、歴代益々文武を奨励して、子弟を養成したる結果、幕府の年末天下騒擾に際しては、能く力を王事に尽し、且つ宗家の為には藩国を犠牲に供するを惜まず、特に白虎隊殉国の如き、婦人殉節の如き、壮烈極まる事蹟を世に残すに至れり、近来世道人心大に弛廃し、悪思想天下に蔓延するに当り、憂国の士にして会津藩の教育に注意を惹き、其の資料を求むる者少からず、而して此の要求に応ずる良書としては、故小川渉先生の編著に係る本書に勝るものあらず、先生は会津藩士にして、幼児藩校日新館に学び、才学優秀を以て選抜せられて江戸昌平黌に留学を命ぜられ、博識能文を以て名あり、維新の後奥州斗南に移住し、同志と青森新聞を興して其の社長に挙げられ、公論正義を以て一時縣下を風靡せり、先生夙に会津藩教育の沿革を記述するの志あり、是に於て筆硯多忙の余暇を以て稿を起し、其の間或は上京して旧藩公松平家に就き諸記録を渉猟し、或は諸家の筆記を閲し、或は故老朋友に質し、苦心惨澹、数年を経て脱稿せり、本書即ち是なり、実に本書は土津公治世以来会津教育の淵源、町講所の設立、日新館の興起、市村の教育、教育制度、重なる教令、及び教育に功ありし諸名士の略伝等を年代を追うて記述し、独り文教のみならず、武術の教養及び士道の奨励に至るまで、網羅詳録せるを以て、之を通読すれば、会津教育の沿革、真相及び戊辰壮烈事蹟の由て来る所を知るを得べし、是に由て吾等相謀り、小川家の承諾を得て之を発行し以て希望者の需に応ずることとせり。(略)
昭和六年十二月         会津藩教育考発行会

 この「緒言」中、「近来世道人心大いに弛廃し、悪思想天下に蔓延」とは、昭和初期の事を指してはいるが、平成の現代に置き換えても聊かも違和感を感じない。

 悪思想の天下に蔓延すること、昔日の比ではないとも言へる。世道人心の弛緩腐廃するに於てをや。

 現在、政府は「教育再生会議」を設け、教育基本法改正後の具体的な教育改革の推進について鋭意議論を尽くさせている。民間にあっても「教育再生機構」の民間タウンミーティングが各地で開催され、教育改革の灯火は今や燎原の火の如くに広がり、この中から必ず新しい日本を支えるに足る教育が生まれるものと信ずるが、そのためにも真の意味で叡智を結集していかねばならないと痛感する。

 そのための資料として、この「会津藩教育考」が、大いなる力となると思ふのである。

文化二年の正月十九日の「幼年者心得之廉書」を一つ参考の為に転記してみたい。

其一 毎朝早く起き手あらひ口すすき櫛(くしけず)り、衣を正ふして父母の機嫌を伺ひ年齢に応じ座中を掃除し客の設け等致すべし

其二 父母およひ目上の者へ朝夕食事の給仕茶煙草の通ひすへし父母一同に食するならば父母の箸を取らさる内は食すべからす故ありて早く食することあらは其訳を告て早く食すべし

其三 父母およひ目上のものの出入りには必ず送迎すべし

其四 出る時は父母に見て暇を乞ひ行先を告け帰る時も同く其旨を告くへし凡て何事も父母に伺ひ己れ専らになすべからず

其五 父母およひ目上の人の前にて乍立(たちながら)物言ひ乍立物聞くことをせざるべし寒けれども手を懐ろにせず暑けれとも扇つかはずはたぬかず衣の裾をかかげす其外不奇麗のもの父母の見る處に置くべからず

其六 父母およひ目上の人事を命じ給はば謹(つつし)みて承(うけたまは)りそのこ事を整ひ怠(おこた)るべからず己呼ひ給はば速(すみやか)に答て走り行くべし仮初(かりそめ)にもその命に違(たが)はず不敬の応声すべからず

其七 父母衣服を重ぬる様に命じ給はば寒く覚えずとも命に従ふべし新に衣服を賜はば嗜(たしな)まざるものにても慎(つつし)みて戴(いただ)くべし

其八 父母の常に居給ふ畳に仮初にも居るべからず道の真中は尊者の通る所故片寄り通るべし門の閾(しきい)を踏まず中央を通るべからず君門は猶更(なおさら)のことなり

其九 先生又は父兄と役義を同ふする程の尊者に道に逢ふ時は路の傍(かたわら)に控(ひかえ)て礼をなすべし行先抔(など)問ふべからず共に行くとも後れ行くべし

其十 人を誹(そし)り人を笑ひ或は戯(たはむれ)に高きに登り深きに臨み危きことなすべからず

其十一 凡て学習のこと先づ貌(かほ)を正しく己を謙(へりくだ)り敬(うやまひ)て其業を受くべし

其十二 容貌(ようぼう)は徳の則なりといへば士庶人屹度(きつと)分れ見ゆる様に威儀をたしなみ不敬不遜の容體無之様にすべし尤も何程懇意(こんい)に交るとも言葉を崩さず目下のものの挨拶奴僕と等しからざる様にすべし言語も他邦に通ぜざる野鄙(やひ)の言葉は常に気を附け直すべし

其十三 父母ある時は送物の類私にすべからず人より送り物ある時は拝してこれを受け父母悦んことをいふべし凡てこれに準じ家長を称すべし

其十四 父母の助けとなることは聊(いささ)か労を厭(いと)はずまめやかに勤め行ふべし

其十五 尊者我が方に来歟或は他へ行きたる時我に上立つ人来らば其座を立て迎ひ帰りにも又送るべし客を得ては奴僕は勿論犬猫の類に至るまて叱ることすべからず尊者の前にて噦噫(えつい)し嚔(くさめ)欠伸(あくび)すべからず凡て退屈の體(てい)すべからず  (※噦噫/しゃっくり、おくび、ゲップ)

其十六 長者何事にても問ふことあらば先づ一座の人を顧望して答ふべし己先立て率爾に答ふべからず

其十七 酒宴遊興を楽とすべからず年若の時別して愼(つつし)むべきは色欲なり一生を誤り名を汚すものなれば幼年の時より男女の別を辨(わきま)ひ色欲の咄(はなし)すべからず或は戯言を以て人の笑を催し軽浮の貌(かほ)すべからず争ひは我慢より発するものなれば常に愼むべし

 十七条にまとめたのは、或は聖徳太子の十七条憲法に准えたのかもしれないが、それにしても現在においても、此の通りに身を正していけば、まず間違いの起ることはあるまいと思われる。また、奇矯なことは一切なく、実に行き渡った訓戒である。

 子供ならばこの訓戒にある条々に外れても叱られる位で済むが、大人ともなれば、ここにあること位は出来ていなければ、少なくとも上流社会では全く通用しないだろう。逆に言えば、現在、此の程度のことさえ出来ていない成人も多い中、これらのことをしっかりとわきまえて身につけていけば、自然と重きをなしていくだろう。

 会津藩では、これを童子訓として徹底していたのだから、藩全体が引き締まらないということはありえなかっただろう。

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2007年2月12日 (月)

よみがえる「天浮橋」 天と地を結ぶ橋

 古事記には、イザナギ、イザナミの命が、天津神から、この漂へる国を修理固成(つくりかためな)せとコトヨサシされ、天沼矛を賜ったと書かれている。

 そこでイザナギ、イザナミの命は、天浮橋に立たれて、天沼矛を挿し下ろして塩もコヲロコヲロとかき鳴らして引き上げたところ、その矛の先から滴り落ちた塩が積もって島を成したという。これが「オノコロジマ」である。

 本居宣長は「古事記伝」に「天浮橋は、天と地との間を、神たちの昇降(ノボリクダ)り通ひ賜ふ路にかかれる橋なり。空に懸れる故に、浮橋とはいふならむ。」と記している。
 また、丹後国風土記にある「天梯立(アマノハシダテ)」は「天に通ふ橋なれば、梯階にて、立ちて有りしを、神の御寝坐せる間に仆れ横たはりて、丹後の国の海に遺れるなり。」としている。そして、「こは倭の天香山、美濃の喪山などの故事の類にて、神代にはかかることいと多し」としている。

 播磨の国風土記にも「上古之時此橋至天、八十人衆上下往来、故曰八十橋」とあるという。

 遥かなる太古には、天と地を結ぶ橋が至るところに立っていて、人々は天と地を往来していたということである。

 これだけならば、神話として、お話しとして、あるいは象徴的な話として想像力を掻き立てるのに役立てればよいだけの話なのだが、近年、どうも現代版天浮橋とも云うべきものが科学者の間では研究されており、近未来においては現実のものとなることが、既に実験段階に入っているというのである。

 トンデモ科学の類かもしれないが、アメリカでは企業が既に開発に乗り出しているというのだから、単に笑い飛ばすわけにも行かない。

 それは何かというと、「軌道エレベーター」と称するものである。

 静止衛星軌道を中継基地として、地上に紐を垂らしていく。すると地上と天上の間を結ぶ紐がつながる。それを利用して、宇宙に物資を運び出したり、人が行き来できるようにするというのである。

 もし実現すれば、正に現代版「天階立」であり、静止軌道上のステーションは「天浮橋」ということになる。

 もしかすると、遥かなる太古、「軌道エレベーター」によって、古代人は天上と地上を自由に行き来していたのかもしれない。お粗末な現代科学文明など及びもつかない高度な文明を築き上げていたのかもしれない。

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