« 女子中学生との会話から・・・女性は神様である、ということについて | トップページ | 私の母の句と歌を  ~こんな母を持って、私は幸せです~ »

2006年11月22日 (水)

万巻の書を読むに非ざるよりは~ 本を読むといふこと

 幕末維新の先覚者、吉田松陰先生が、松下村塾で教へられた期間は、僅か1年半ほどであつた。

 そのときに、松下村塾に掲げられていた「聯」がある。「聯」とは、漢詩に於ける対句のことで、左右の柱に相対してかけるような形で掲げられるものである。

 松下村塾聯

自非読萬巻書安得為千秋人

自非軽一己労安得致兆民

(書き下し)
萬巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人と為るを得ん。

一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

(現代語訳)
多くの書物を読まずして、どうして永久に歴史に名をとどめるような立派な人物となることができようか。

自分一己人の骨身を惜しまず働かずして、どうして天下万民を安んずることができようぞ。

Photo

 吉田松陰矩方、二十一回猛士の学問といふものがどのようなものであつたのか、これほど端的に示した言葉は無いように思はれる。多くの書物を読まなければ、歴史に名を残すような立派な人物になることは出来ない、とは正に松陰自身において体認己証されたものであつた。ただ、この現代語訳にはやや疑義があつて、「千秋の人」を「歴史に名を残す」としてゐるのはやや意味がずれるのではないかと思はれる。「千秋」とは「千年」という意味であるから、そのまま読めば「千年の人」となるが、転じて「永遠の人」となる。しかし、「名を残す」というのは解釈であつて、結果論に過ぎず、歴史に名を残すことを求めて書を読むというのでは、動機において何処と無くいやらしい感じが残るのである。「千秋の人」とは、千年後の人から見ても、なるほど彼の考へたことは間違つてゐないと言はれるような人のことではないだろうか。あるいは、千年後までも良い影響を与へ続けるような影響力のある事業や思想を残すことも「千秋の人」といふことができるかもしれない。しかし、内村鑑三の「代表的日本人」にあるように、「よき生き方を遺す」ことによつて後世を奮い立たせる人となること、これこそが「千秋の人」の真の意義ではないだろうか、と思はれてくる。思ふに、如何に生きることが正しいのか、死んだ後まで恥ずかしくない生き方をするためにはどうしたらよいのか、と志したとすれば、それを探求するには書を読む他に道はない。過去に生きた人々の姿を知ることによつて、逆にどのように生きれば後世逆賊として憎まれるか、どのように生きれば後世忠臣義士として仰がれるかを知ることができる。良く生きたいという願いを達成するためには、逆賊の生き方を避け、忠臣義士の生き方に倣へば良いといふことになる。自分の名前が残るとか残らないとかいふことは、二の次の問題に過ぎないのだ。事實日本の歴史は多くの名も伝はらない民のまことの積み重ねによつてここまで伝へられてきたといへるのだから。

  「一己の労を軽んずる」、とは実に味わいのあることばだと思ふ。人は誰でも「面倒臭いなあ」と思ふ場面が生活の中では幾つも出てくるだらう。小さい頃のことを思ひ出しても、親から「ちょっとお使いにいってきて」と言はれると、「今テレビ見てるの」「今宿題やつてるの」「今ゲームしてるの」など、色々と言い訳をして愚図愚図して言うことを聞かなかつたことがあるだらう。しかし、この場合、お使いに行く、というのは家の用事であり言はば「公」のことだ、「今~してるの」といふのは、「私」のことである。宿題のケースはともかくとして(大体、これを言うのは知能犯で、きつとこう言へば諦めるだろう、といふ読みがある)楽しいこと、面白いことを優先してしまう。しかし、お使いは誰かがいかなければならない、「兆民」ならぬ「家族」が「安んぜられる」かどうかは、そこにかかつてゐるのだ。
 こんなとき、「ああ、僕がいつてくるよ」といふお兄ちやんがいる。この兄きは「一己の労を軽んずる」人物といえるだろう。それも、いやいやではなく、淡々と、無心に、軽やかにいけるところが肝心なのだと思はれる。「俺が行つてきてやるんだから感謝しろ」といふような横柄な思ひで行くなら台無しである。

 吉田松陰先生も、今、幕府を説かなければ日本が危ない、それは俺が誠を尽くしてやつてくるよ、後はよろしくたのむぜ、と軽やかに萩を出発していつたように思はれてくる。何やら特攻隊の若者たちが思はれてくる。一己の労を軽んじる人となること、それが日本を安きに致す道ではないか。そんなことが思はれてくる。

 読書のことに戻るが、松陰先生は本当に読書家であつた。学者なのだから当たり前といへば当たり前なのだろうが、それにしても素晴らしい読書力である。それで、「士規七則」の中にも読書のことがよく出てくる。

 「冊子を披繙(ひはん)せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)ふに人読まず。即(も)し読むとも行はず。苟(まこと)に読みて之を行はば、則(すなわ)ち千万世と雖も得て尽くすべからず。」

 「書物を読めば、立派な言葉が沢山あつて、勢い良く私たち一人一人に迫つてくるものだ。ところが世の人々は書物を読まない、たとえ読んだとしてもその立派な言葉を自分の身に行つて見ようとはしないのだ。本当に、これらの立派な良い言葉を読んで行おうとするならば、千万年かかっても行い尽くすことは出来ないほどなのである。」(試訳)

 読書の功を言つて之ほど切なる言葉は中々あるものではない。更にこうも言っている。「人古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば、則ち鄙夫のみ。読書尚友は君子のことなり」

 現在、読書離れが進んでいると言われている。しかしおよそ何か事を成そうとするならば、読書なくしては有り得ないといふことを知らなければならないだろう。下らない本に付き合うことはないが、自分の生き方を正してくれる立派な本に巡り逢ふことほどの人生の楽しみは少ない。そのことを知ると知らぬとは大きな岐路となるだらう。

 読書への開眼は何歳位から培うべきか、幼少から絵本に馴染むことも大切だろう。そして、10歳前後の頃の知識欲の爆発を、よく導いてやること。この頃の読書は、人間としての基礎を築くものと言つて過言ではない。


|

« 女子中学生との会話から・・・女性は神様である、ということについて | トップページ | 私の母の句と歌を  ~こんな母を持って、私は幸せです~ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/86795/12784936

この記事へのトラックバック一覧です: 万巻の書を読むに非ざるよりは~ 本を読むといふこと:

» アルフォンス・イノウエ [多くの祭りのために ‐素晴らしき本☆との日々‐]
”聖域”であるはずの「女性性」を、甘く、ゆるく、角砂糖を溶かすみたいに少しずつ壊していくような、甘美でエロティックな本書は、あなたの淫靡な嗜好を満たすことでしょう。 [続きを読む]

受信: 2006年11月23日 (木) 午前 03時48分

« 女子中学生との会話から・・・女性は神様である、ということについて | トップページ | 私の母の句と歌を  ~こんな母を持って、私は幸せです~ »