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2006年11月15日 (水)

「愛国心教育」の是非について

 「愛国心教育」の是非について様々な議論がなされている。

 俗耳に入りやすいことばに、「愛国心は自然にあるものであって、殊更に教育などで強調するのは何かその裏に魂胆があるに違いない」というものがある。

 しかし、「愛国心」は本当に「自然」にあるものなのだろうか。自然にあるものだとしても、教育する必要がないほどプリミティブなものなのだろうか。この二つの問いに答えることが出来なければ、上記の言葉は成り立たないはずである。

 「愛国心」は何もせずに自然に生まれるものではない。

 このことについては、平泉澄氏の「物語日本史」のはしがきに書かれている敗戦下の小学校での出来事でよくわかるように思われる。山間の小学校で、平泉氏は「皆さんは日本という国を知っていますか?」と問うと、小学生はみな「知らない」とこたえたということでした。「では、アメリカという国は知っていますか?」というと、「それは聞いたことがある」という答えが返ってきました。講演では日本の国の歴史の話をしたのですが、子供たちは一心に聞き入っていて、氏が帰る時にもじっと博士を見つめていたという。

 最近、同じような話を聞きました。ノンフィクション作家の関岡英之氏が、都内の小学校で子供たちに話をした。日本の最初の天皇陛下を知っていますか?と問いかけると、そそっかしい男の子が「推古天皇」と答る。「うーん、違うね、他にいますか?」すると、今度は女の子が「ハイ、仁徳天皇です」と答えたという。「では、今の天皇陛下は何代目かわかりますか?」と問いかけ、ひとしきり答えた後に、「125代です」と答えを言うと、「えーっ」とびっくりした。それで、歴代天皇の系図を子供たちに見せると、男の子は「すげえ」と言って見つめ、女の子は黙ってじっと見つめていたという。話が終って職員室に居ると、子供たちがやってきて、先生、さっきの系図のコピーはいただけませんか?という。どうして?これはテストにでるわけじゃないよ。というと、テストは関係ないんです、とにかく知りたいんです、というのだった。

 子供たちは誰もが確かに自分の生まれた国を愛する素質を持っていると思われる。しかし、「日本」という言葉さえ聴いたことが無ければ、日本を自分が生まれた国と知ることが出来ないだろう。知らなければ愛する心が生じることもない。

 ここまで考えてくれば、「愛国心」は「自然」に育つのだから、殊更教える必要はない、というのが如何に子供に対して愛の無い言葉であるか、自然に理解できることだろう。

 何を、どのように教えるのか、ということは教育上大いに研究すべき課題であることがわかるだろう。

 それは、何も「国を愛せ」というように、一つの教条を刷り込むというようなことでないことは言うまでもない。ところが、「愛国心教育」に反対する人々は、大雑把に言えば大体このようなグロテスクな光景を想像させるのである。それは、ためにするプロパガンダにすぎないだろう。本気でそう信じているとすれば、そんな光景は教育でも何でもないことに気づかないその人の迂闊さを示すに過ぎないだろう。

 そもそも「愛する」とは如何なることであるのか。

 「愛する」ということが、「性愛」ばかり思い浮かべる風潮は、この言葉の語義を混乱させているといえるだろう。

 キリスト教は「愛」の宗教だ、といわれる。この場合の「愛」とは一体何であるのか。

 昔、「惜しみなく、愛は奪う」などといフレーズがあった。「愛」とは奪うことなのか?確かに、キリスト教は、大航海時代に、世界を奪う尖兵となったとはいえるかもしれないが、それがキリスト教の本質だといえば、決してそうではないであろう。むしろ、キリスト教における「愛」とは、「献身」の別名であり、自己を神に捧げ尽くすことが理想とされたのであろう。そうでなければ「殉教」などという行為が讃えられ、崇められるはずはない。

 「愛」とは「献身」の別名であるのか。

 「国」とは何か。「愛」とは何か。「心」とは何か。

 これが一つ一つわからなければ、「愛国心」など解りようがない。

 理屈でいけば、このようなことを延々と考えつめていかねばならないだろう。それはそれで必要なことであり、哲学者には是非ともこのところを説明してもらわねばならない。

 しかし、歴史上、初めて「愛国」という言葉が使われた時、それはどのように使われたかを考えれば、それはやはり「献身」という言葉が文字通り当てはまる。大伴部博麻という一介の農民に対して持統天皇が詔を賜った故事を考えれば、それはやはり感動的なエピソードである。

 愛国心は理屈で説けば難しくなるだろう。そしてそのような理屈を精緻に作り上げても、「愛国」的な行為が日常、あるいはいざというときに取れなければ何の意味もないであろう。

 そうなってくると、「愛国心」という言葉を教え込むことには余り意味はない。むしろ、国を愛し尽くした人のことをになってくるのではないか。大体において、国を愛するという行為は決して甘いことではない。極めて厳しい行為である。日本の第一の忠臣として愛国者の鏡とされる楠正成公のことを考えてみても、自分の生命のみならず、一族を挙げて、天皇に殉ずるという行為は、余りにも厳しいものであるといえよう。愛とは厳粛なものである。
 愛国心とは恐らく極めて厳しいものであるということに気付くだろう。

 人間は、歩くことができる。這っていた赤ちゃんが、立ち上がろうとする。不思議なことだが、それは周りの大人が立って歩いているから、同じようにしようとするのだろう。もし、周りの大人が皆這っていたら、果たして赤ちゃんは立ち上がろうとするだろうか。今、国を愛するといえば忌み嫌われる、蔑まれる、敬遠される、不思議なことであるが、そういう大人ばかりが周りにいて、「愛国心」など育つわけがない。ましてや教育など、出来るわけもない。

 しかし、そのような風潮を生み出したものもまた、「教育」であったと思えば、何をかいわんや。しかし、「教育」によって破壊されたものは、「教育」によって再生することもまた、可能であるかもしれない、と思えば、多少無理があっても「愛国心教育」を取り組んでいく必要があるのだと思う。

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