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2006年11月

2006年11月27日 (月)

皇室とニューリッチ ~日本に「真の富裕層」を生み出すために~

 「ニュー・リッチの世界」という本を買って読み始めたところである。

 一億総中流社会が崩れて「格差社会」が”憂慮”される昨今である。しかし、「富裕層」は存在しなかったのではない。”平等”原理主義的なイデオロギーが支配する戦後の風潮の中で、「富裕層」であることをことさらに目立たないようにして存在してきたのである。

 イントロダクションの「単なるお金持ちを「富裕層」とは呼べない」という一文が興味を引いた。

 「実は「真の富裕層」というのは、もっともおカネから遠い人たちだ。この人たちは本当の意味での資産を持っているために、その資産の使い道をわきまえている。つまり、言葉を換えれば、「上流社会の人々」ということになるだろう。」

 これだけではちょっと分かりにくいかもしれない。

 「金持ちは自分たちの財産の所有者というよりはむしろ管財人であり、その立場からいつでも貧乏人に救いの手を差しのべるべきである」「管財人の仕事というのは、財産の管理を適正に行い、いかにその財産を有効に活用し、次世代に受け継いでいくかだ。だから、おカネを持ったらそれなりの義務が生じる」

 このような考え方が、「真の富裕層」の考え方であるというのである。しかし、残念なことに、「いまの日本には「真の富裕層」と呼ばれるべき人々は、少ない」というのだ。

 「日本ではいまだに富裕層の生き方が確立されず、ニュー・リッチにはその手本となる生き方が存在しない。」

 それは、日本が半世紀の間に、「太平洋戦争の敗北」と「バブル崩壊」という二つの社会システムの激変があり、近代的な富裕層が根付かず成熟を阻んだところに原因がある、というのである。「真の富裕層」が誕生するには、3,4世代かけてはぐくまれるものということである。

 現在「格差社会」は大きな問題としてクローズアップされているが、全員が経済的にも環境的にも平等であるという社会はありえない。であるから「格差が問題なのではなく、格差をちじめるためのチャンスが平等にある社会こそがいい社会だ」というのである。

 であるから、「これからの日本社会には、「真の富裕層」が必要なのではないだろうか?一般大衆がモデルとし、その羨望を受けながらも尊敬される「お金持ち」がいなければ、日本は本当の意味での豊かな社会とはなりえないからだ」というのである。

 「真の富裕層こそが、文化、価値を創造してくれる」というのが著者の主張だが、同感である。

 日本のニューリッチが、拝金主義に堕してしまうのか、それとも「真の富裕層」として、日本のためになるのか、の鍵は、ニューリッチたちの価値観にもよるが、それ以上に日本の国の制度設計にかかっているとも言える。それと、国民がニュー・リッチを妬み、嫉むような精神風土があるとすればそれを変えることだろう。

 お金持ちが気持ちよくおカネを使える社会にすることが、結果として全体を豊かにすることになることは見易い道理である。そして、おカネ持ちになるチャンスが開かれている社会であるならば、「富裕層」に「ノーブレス・オブリージ」が文化として定着しているならば、懐の深い国になる。

 金持ちに嫌われる国は、貧乏になる以外にない。

 日本人は一生懸命働いて現在世界でも有数の富裕層大国になっている。128万人のミリオネアがいるのである。これは全世界の17%に当たる人数だという。ではなぜ一般の景気回復感がないのか。それは、金持ちが気持ちよくカネを使えるようになっていないために、富裕層たちは海外でどんどんカネを使わざるを得ないということなのである。これは「愛国心」がない、といって批判できる問題ではない。ミリオネアは日本人だけではなく、日本人以外でも、日本で気持ちよくカネを使うことができるならば世界の富裕層が日本にカネをもたらしてくれることになるからである。

 日本は戦後、社会主義勢力が教育界を牛耳ったために、自由主義・資本主義国でありながら、国民の認識が極端な平等主義、社会主義に偏ってしまった観がある。この風潮を是正することは必要なことである。

 そして、表題に掲げたように、ニューリッチを「真の富裕層」に成長してもらうためにも、皇室の存在は極めて大きいと言わなければならない。皇室の歴史的、文化的、精神的伝統の価値は計り知れないものがある。皇室は、永い歴史の中で、極めて多彩で豊富な経験を蓄積し、その中で高度な精神文化を培ってきた存在でもある。一言で言えば「無私」の伝統、ということになるが、日本の「上流社会」が見習うべき鏡は、日本においては実に「皇室」が最高峰であって他を隔絶しているといってよいのだと思う。そしてそれは世界レベルで見ても最高峰であると言えるかも知れないのである。

 そのことに、ニュー・リッチたちが早く気づくことが望まれるところであり、また、最早時代遅れの共産党や社会党の長年の悪宣伝によって刷り込まれた皇室を軽んずる意識は払拭されなければならない。

 第125代天皇であられる、今上陛下のご即位20年という佳節があと数年と近づいているが、占領政策の遺制である様々な法的不備や歪みを正すことと同時に、皇室が現在の日本にとって真に救いであるということについて、階層を超えて認識を新たにし、その絶大なる価値を活かした国づくりを進めていく転換点とすべきだとも思われる。

 「不易」と「流行」、変わらざるものと移り変わるもの、そのどちらも大切なのであり、日本における「不易」の中心は、紛れもなく「皇室」であり、それ以上の存在はない。時々の政権も富裕層も「流行」であり、移り変わるものではあるが、「不易」と共にあることによってその生命を得るのだと思う。このような哲学が見直されることが、日本再生の鍵である、と思うのである。

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郵政劇場のエピローグか、新たなる政治対決のプロローグか 復党問題土壇場の動きの感想

 郵政民営化法案に反対し、自民党を離党した12名の国会議員の復党問題がクローズアップされている。

 今日(27日)を期限に、復党願いを誓約書とともに提出せよ、というのが中川幹事長の出した条件であるが、自民党の党内でも一斉に反発が広がっていることが報道されている。復党に反対するのは、直接利害関係のある、所謂小泉チルドレン組の一部の国会議員と、元幹事長の武部議員位なものというのが報道されている内容である。

 ある調査で、世論は離党組の復党に反対している、というのであるが、その「世論」は肌身に感じるものではない。それは関係者の心の中にあるやましさの反映に過ぎないというようにも見える。

 安倍総理の意向を受けていることを繰り返し繰り返し強調している中川幹事長であるが、産経新聞の記事を丹念に読んでみると、安倍総理と中川幹事長の発言内容には齟齬がある。むしろ、安倍総理と平沼議員の発言内容の方が平仄が合っているのである。

 端的に言って、「郵政民営化法案」は、昨年成立し、立法府としての意思決定は既に終了しているのである。現在作業は、行政府に移っている訳である。勿論、チェックは必要だとはいえ、既に次のステージに移った「過去」の問題、それが「郵政民営化」なのである。立法府の決断が正しかったか間違っていたかは、歴史が裁く問題である。

 その「過去」の問題を、現在の新しい状況の中で「踏み絵」に使おうということは、「筋を通す」という口吻の裏に別の意図が隠されているように思われてならない。言わば国民注視の中で、「辱め」を与えようということである。国民もバカではない。これが、現在問題としてクローズアップされている「いじめ」問題にオーバーラップしてくることは間違いない。

 文芸評論家の江藤淳氏(故人)の講演集「考えるよろこび」に次のような話が掲載されている。ケネディ大統領がまだマサチューセッツ州の上院議員に選ばれたばかりの頃に書いた「勇気の横顔」という本で紹介された、エドマンド・ロスという上院議員の話である。

 エドマンド・ロスは全く無名の人で、僅かに一期だけアメリカ合衆国の上院議員になって、次の選挙では再選されなかった人物で、ちょうどソクラテスのようなことをした。

 南北戦争が終ってまもなく、大統領のリンカーンが暗殺され、副大統領が後を襲った。これがジョンソン副大統領で、テネシー州という南部出身の人物だった。南北戦争は内乱ということになっているが、その戦闘区域の広さでは第一次世界大戦に匹敵し、作戦上も大戦を予見する大きな戦争でその結果70万人の死者を出したものである。

 ところが、リンカーンが死んだために、俄かに大統領になったこのジョンソンは、南部連合が分離したときにただ一人踏みとどまってリンカーンの補佐役になったといういきさつがあった。リンカーンの急死によって南部出身でありながら南部を占領した北部の意志を実現するまわり合わせの大統領になった。

 もともとリンカーンの占領政策は寛大なもので、ジョンソンもそれを継承したわけだが、与党共和党内に南部を徹底的に弾圧すべしという急進派が台頭し、ジョンソンのやり方を手ぬるいと非難し、あいつはもともと南部出身だからわぞと手ぬるくしているんだろう、ということになって、大統領と議会の関係は決定的に悪くなってしまった。

 議会が占領地域に対して過酷な法案を通すと、大統領はこれに拒否権を行使する。すると今度は議会が3分の2の絶対多数で拒否権をはねかえして法案を成立させてしまう。そのうちにジョンソン大統領が、共和党急進派の同調者だった陸軍長官のスタントンという人をやめさせるという事件がおこった。これに対して議会がいきり立ち、専制政治だといって下院で大統領弾劾の決議が行われるという騒ぎになった。もしこの上に上院が3分の2の多数で弾劾を決定すると、大統領は辞めねばならなくなる。

 このような状況の中で、俄かに若い新米議員だったエドモンド・ロスという上院議員が注目を浴びるようになった。なぜかというと、上院の反大統領派の勢力は3分の2にちょうど一人だけ足りず、このロス議員がキャスティング・ボードを握るというめぐり合わせになったからである。

 このロスという人物は、カンサス州の選出で、共和党急進派の根城でもあり、ロス自身もジョンソンがきらいでパリパリの急進派を売り物にして当選した人だったから、弾劾決議案に賛成するだろうというのがはじめのうちの大方の予想だった。ところが、この一年生議員がいつまでたっても態度を明らかにしない。党のボスから言われても、賄賂をもってこられても、金はほしくないとケロリとしている。反対派はとにかくこの若僧を口説き落として3分の2を得ればよいと思っている。ロスの方でも、反対派に同調しなければ、せっかく上院議員になった自分の政治生命が完全に失われるだろうことはわかっていた。・・・

 いよいよ、弾劾決議案が成立するかどうか、という日がやってきた。ロスは一生懸命に考えていた。彼の政治信条を行うために、どうすべきかを考え、反芻していた。
 上院議員がひとりづつ大審院長に名を呼ばれ、ジョンソン大統領が有罪か否かをたずねられる。ロスの名が呼ばれ、答える番になった。満場が固唾を呑んで見守る中、ロスはその雰囲気に気おされて大きな声がでなかった。誰かがもう一度、とどなり、ロスは「無罪です」といった。この一言で弾劾決議はお流れとなり、ジョンソン大統領は名誉を救われ、ロスの政治生命も、未来も、財産も、名声も総てが失われた。

 なぜ、エドモンド・G・ロスという一年生議員は、このようなことをあえてしたのか。

 それについて、江藤氏の言葉をそのまま引用したい。

 「政治家としての彼は、三権分立の精神がおかされるのを座視するにしのびないと思った。議会の多数派が、党利党略から大統領の人事に干渉しはじめたら、党派をこえた全体、つまり国家そのものの代表である大統領という地位の威信は地に堕ちてしまう。ロスはアンドルー・ジョンソンを評価していなかったし、その政策に絶対反対であった。彼が無罪を主張したのは、だからジョンソンのためではなくて、大統領というオフィスのためです。ここのところがいかにもソクラテス的な発想です。つまりこの若い上院議員は、彼のなかにある全体のために、彼を超えたなにものかの存在を証明するために、政敵の名誉を救う一票を投じた。そして自分の手で自分の政治生命を絶った」

 江藤氏が生きていたら、郵政民営化を巡る解散劇をどのように評したか、現在の復党問題をどのように評したか、想像するだに興味深いものがある。故人を起こして聞くことは出来ないが、平沼議員に対して、「政治」に対して「精神」の所在を明らかにした、ということは言ったかもしれない。「政治」が酷烈な権力闘争だけが支配する場であったらその国家はいかにも殺伐としたものとなるだろう。江藤氏は、あのときのアメリカ議会の雰囲気を「狂信的愛国主義の時代、敵を叩き伏せるためには手段を選ばない政治過剰の時代」と表現しているけれども、現在の日本の国会の状況については、「精神の過剰な不在」と「狂信的敵対心」の支配する時代とでも表現したかも知れません。

 復党問題をめぐる状況は、小泉劇場のエピローグではなく、これからはじまる、「精神を持たない化け物」と「精神をもつ人間」の何れがこれからの日本の政治を担っていくものであるのか、という戦いのプロローグであるのだ、と感じる。

 日本は、ソクラテスを殺したアテナイのように衰亡の道を辿るのか、ロスが守ったアメリカのように隆盛の道を歩むのか、その答えは一体何処にあるのであろうか。

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2006年11月25日 (土)

三島由紀夫先生の決起から36年

 三島由紀夫先生と森田必勝烈士が、陸上自衛隊市谷駐屯地のバルコニーで自決されてから三十六年目の今日を迎へる。

 元「楯の会」副班長の井上豊夫氏の「果たし得ていない約束~三島由紀夫が遺せしもの~」を今、読了した。

 決起の一ヶ月前、「蕎麦屋」で三島先生と楯の会のメンバーで夕食を取った際に、三島先生が言はれた言葉を記してゐる。「メンバーの一人が箸を両手で持ち三島氏が右手で持ち易いように差し出すと、「僕がこの日本に残したいと言っていることはこういうことなんだよ。他人に箸を渡す時に相手のことを考えて渡す心遣いであり、そんな難しいことではないんだよ」と力説しました」

 防衛庁の省昇格法案が国会に上程され、自民党の改憲試案に自衛軍が明記されるなど、三島先生が当時訴えられたことは、現在、当然のこととして議論が進んでいるように思われる。

 三島先生の評論全集の3巻に納められている政治的な評論を一頃読み込んだことがあるが、非常に当たり前のことを言われている、という印象を持ったことがある。当たり前のことを言うことが途方もない努力が必要であった時代、その極みにおいて命を捨てて日本の精神的崩壊の防波堤となられたのかも知れない。

 36年前、幼児に過ぎず、先生の死後にものごころついた自分の胸にも、先生の悲しみが、惻惻として響いてくる。井上氏の本は、今の10代、20代の若者に向けて書かれたもののように思われる。

「日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の訓練を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。」

三島先生が楯の会の会員に残された遺書の一節である。「男子たるの自負」を教えられた最後の日本の若者であった井上氏他、楯の会会員であられた方々に、「男子たるの自負」を学びたい、という思いで、今日この日を期して、拝読させて頂いた。やはり、胸迫るものがあった。

最後に、三十六年前の今日、叫ばれた三島由紀夫先生の「檄」を全文、謹載しておきたい。


「        檄

われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。
 われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの擧に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命をすてようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそ唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和四十五年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。
 これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
 銘記せよ!実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覺して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。
 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。
昭和四十五年十一月二十五日                                          」

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心優しき硫黄島総指揮官 栗林中将の絵手紙

国際派日本人養成講座に、次の記事が配信されました。

 米軍から見た硫黄島の戦い、深い鎮魂への思いが流れる
   ~映画「父親たちの星条旗」を見て~

ぜひ観てみたいな、と思いました。

硫黄島の総指揮官であられた、栗林忠道陸軍中将が布告した(と思はれる)「敢闘ノ誓」のコピーをバインダーに入れて持ち歩いています。

「       敢闘ノ誓

一、我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン
一、我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
一、我等ハ挺進敵中ニ斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン
一、我等ハ一発必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ打扑サン
一、我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ
一、我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩サン
                                     」

 硫黄島の遺骨収集団が灼熱の洞窟の中で見つけたといふガリ版刷りのものだといふことです。恐るべき闘志であり、米軍を震撼させた硫黄島の戦いは、この敢闘精神の発露として永遠に記憶されるべき、日本民族のテルモピュレーといってもよいのかも知れません。

 鬼神も避けて通る硫黄島の総指揮官の素顔は、実に心優しい父であつたことを、『「玉砕総指揮官」の絵手紙』に伺えます。絵がすばらしいもので、生き生きとした姿を描いています。そのことを奥様も感じて、絵に熱中して軍務がおろそかになるのではないかといふやうな心配を伝えたのかもしれません。こんな一節がありました。「御母さんは 御父さんの 画をかくこと迄心配してよこすが 太郎君は画でないと 御父さんの様子が分からないわね それにこんな画をかくのは 御母さんが心配する程 熱中したものでもない 言わば 一筆書きなんだよ」

 「猫だけは日本と 同じいから こんなものが非常 になつかしい 猫はほんとに味方 のような気がする程 外国は淋しいことがある」と書いているところがあります。3歳の長男、太郎君に、こんな率直な弱さまで披瀝している、子煩悩な優しい御父さんが、栗林中将(当時は大尉)だったわけです。

 子供に対する父親の心とはどういうものであるのか、伺い知ることができます。これほどこまやかに子供への思いを伝えることが、昔の御父さんには出来たのだ、ということを知ることは、たとえば今「家父長制」などという概念的な言葉でばっさりと切って捨てられる家族制度のマイナスイメージを払拭するのにも役立つのではないかと思われます。

 色々なことが思われます。

 最後に、硫黄島からの最後の電報を紹介しておきたいと思います。

昭和20年3月17日5時発 軍事極秘 警急電報

一、戦局は最後の関頭に直面せり
二、兵団は本十七日夜総攻撃を決行し、敵を撃摧せんとす
三、各部隊は本夜正子を期し各当面の敵を攻撃。最後の一兵となるも飽く迄決死敢闘すべし
  大君□□□て顧みるを許さず
四、予は常に諸子の先頭に在り
                                     栗林中将

昭和20年3月17日24時発 栗林兵団長訣別の電文

 戦局最後の関頭に直面せり 敵来攻以来麾下(きか)将兵の敢闘は真に鬼神を哭(なか)しむるものあり 特に想像を越えたる物量的優勢を以てする陸海空よりの攻撃に対し宛然(えんぜん)徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは小職の自ら聊(いささ)か悦(よろこ)びとする所なり
 しかれども飽くなき敵の猛攻に相次(あいつい)で斃(たお)れ為に御期待に反し此の要地を敵手に委(ゆだ)ぬる外なきに至りしは小職の誠に恐懼(きょうく)に堪へざる所にして幾重にも御詫(おわび)申上ぐ 今や弾丸尽き水涸れ全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方(あた)り熟々(つらつら)皇恩を思ふ粉骨砕身も亦悔いず 特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思ひ至り縦(たと)ひ魂魄(こんぱく)となるも誓って皇軍の捲土(けんど)重来の魁(さきがけ)たらんことを期す 茲(ここ)に最後の関頭に立ち重ねて衷情(ちゅうじょう)を披瀝(ひれき)すると共に只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永(とこし)へに御別れ申上ぐ
 尚父島、母島等に就(つい)ては同地麾下将兵如何(いか)なる敵の攻撃をも断固破摧(はさい)し得るを確信するも何卒(なにとぞ)宜しく申上ぐ
 終りに左記駄作御笑覧に供す 何卒(なにとぞ)玉斧(ぎょくふ)を乞ふ

   左記

 国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

 仇(あだ)討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ

 醜草(しこぐさ)の島に蔓(はびこ)るその時の 皇国(みくに)の行手一途(いちず)に思ふ


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私の母の句と歌を  ~こんな母を持って、私は幸せです~

 母から時折メールが来ます。

 今日は2通のメールが届きました。

 「合掌

  懐に孫の足入れ暖を取る      (※ふところに まごのあしいれ だんをとる)

  幸せは重きものよと孫を負う    (※しあわせは おもきものよと まごをおう)

  孫に観ゆ天使のごとき微笑みを  (※まごにみゆ てんしのごとき ほほえみを)」

 ※の読みは私がつけました。

 「善悪を越えて現す神の道、昨日も今日も明日も生きつつ。

  見えぬとも描きて観つつ真なる内なる仏尊くもかな。

  人人の心の奥に声を聴く、君よ生きよ我も生くると。  合掌」

 AUは2台で1台よりも安くなる割引制度があるので、機種変更のときにもう一台契約した分を、当時携帯を持っていなかった母にプレゼントしたのが一年前。代金はこちらもちなので、厳しい発信規制(口頭)をしていますが、その分メールのやり方を覚えて結構上手くなっています。

 写真の添付は控えてもらってますが、結構呑込みが早く使いこなしているもよう。ただし、よく置き忘れるらしいことと、充電を忘れることがあって肝心なときに連絡がつかなかったりするのが玉にキズ。それもご愛嬌。

 妹の長男のお守りを押し付けられて、この間少しこぼしていたけれど、今回の句を見て安心しました。

 母にとっては、16人目の孫になるはずですが、それでも可愛さは一入のようです。

 悠仁親王殿下と同学年になるはずなので、今から学習院大学をめざしてもらい、殿下の御側にて御守りする志を立てて貰いたい、などと勝手なことを思う伯父です。天真爛漫な妹の性格、義弟の真面目さと気さくさを受け継いでくれればよいのだが、などと思います。

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2006年11月22日 (水)

万巻の書を読むに非ざるよりは~ 本を読むといふこと

 幕末維新の先覚者、吉田松陰先生が、松下村塾で教へられた期間は、僅か1年半ほどであつた。

 そのときに、松下村塾に掲げられていた「聯」がある。「聯」とは、漢詩に於ける対句のことで、左右の柱に相対してかけるような形で掲げられるものである。

 松下村塾聯

自非読萬巻書安得為千秋人

自非軽一己労安得致兆民

(書き下し)
萬巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人と為るを得ん。

一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

(現代語訳)
多くの書物を読まずして、どうして永久に歴史に名をとどめるような立派な人物となることができようか。

自分一己人の骨身を惜しまず働かずして、どうして天下万民を安んずることができようぞ。

Photo

 吉田松陰矩方、二十一回猛士の学問といふものがどのようなものであつたのか、これほど端的に示した言葉は無いように思はれる。多くの書物を読まなければ、歴史に名を残すような立派な人物になることは出来ない、とは正に松陰自身において体認己証されたものであつた。ただ、この現代語訳にはやや疑義があつて、「千秋の人」を「歴史に名を残す」としてゐるのはやや意味がずれるのではないかと思はれる。「千秋」とは「千年」という意味であるから、そのまま読めば「千年の人」となるが、転じて「永遠の人」となる。しかし、「名を残す」というのは解釈であつて、結果論に過ぎず、歴史に名を残すことを求めて書を読むというのでは、動機において何処と無くいやらしい感じが残るのである。「千秋の人」とは、千年後の人から見ても、なるほど彼の考へたことは間違つてゐないと言はれるような人のことではないだろうか。あるいは、千年後までも良い影響を与へ続けるような影響力のある事業や思想を残すことも「千秋の人」といふことができるかもしれない。しかし、内村鑑三の「代表的日本人」にあるように、「よき生き方を遺す」ことによつて後世を奮い立たせる人となること、これこそが「千秋の人」の真の意義ではないだろうか、と思はれてくる。思ふに、如何に生きることが正しいのか、死んだ後まで恥ずかしくない生き方をするためにはどうしたらよいのか、と志したとすれば、それを探求するには書を読む他に道はない。過去に生きた人々の姿を知ることによつて、逆にどのように生きれば後世逆賊として憎まれるか、どのように生きれば後世忠臣義士として仰がれるかを知ることができる。良く生きたいという願いを達成するためには、逆賊の生き方を避け、忠臣義士の生き方に倣へば良いといふことになる。自分の名前が残るとか残らないとかいふことは、二の次の問題に過ぎないのだ。事實日本の歴史は多くの名も伝はらない民のまことの積み重ねによつてここまで伝へられてきたといへるのだから。

  「一己の労を軽んずる」、とは実に味わいのあることばだと思ふ。人は誰でも「面倒臭いなあ」と思ふ場面が生活の中では幾つも出てくるだらう。小さい頃のことを思ひ出しても、親から「ちょっとお使いにいってきて」と言はれると、「今テレビ見てるの」「今宿題やつてるの」「今ゲームしてるの」など、色々と言い訳をして愚図愚図して言うことを聞かなかつたことがあるだらう。しかし、この場合、お使いに行く、というのは家の用事であり言はば「公」のことだ、「今~してるの」といふのは、「私」のことである。宿題のケースはともかくとして(大体、これを言うのは知能犯で、きつとこう言へば諦めるだろう、といふ読みがある)楽しいこと、面白いことを優先してしまう。しかし、お使いは誰かがいかなければならない、「兆民」ならぬ「家族」が「安んぜられる」かどうかは、そこにかかつてゐるのだ。
 こんなとき、「ああ、僕がいつてくるよ」といふお兄ちやんがいる。この兄きは「一己の労を軽んずる」人物といえるだろう。それも、いやいやではなく、淡々と、無心に、軽やかにいけるところが肝心なのだと思はれる。「俺が行つてきてやるんだから感謝しろ」といふような横柄な思ひで行くなら台無しである。

 吉田松陰先生も、今、幕府を説かなければ日本が危ない、それは俺が誠を尽くしてやつてくるよ、後はよろしくたのむぜ、と軽やかに萩を出発していつたように思はれてくる。何やら特攻隊の若者たちが思はれてくる。一己の労を軽んじる人となること、それが日本を安きに致す道ではないか。そんなことが思はれてくる。

 読書のことに戻るが、松陰先生は本当に読書家であつた。学者なのだから当たり前といへば当たり前なのだろうが、それにしても素晴らしい読書力である。それで、「士規七則」の中にも読書のことがよく出てくる。

 「冊子を披繙(ひはん)せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)ふに人読まず。即(も)し読むとも行はず。苟(まこと)に読みて之を行はば、則(すなわ)ち千万世と雖も得て尽くすべからず。」

 「書物を読めば、立派な言葉が沢山あつて、勢い良く私たち一人一人に迫つてくるものだ。ところが世の人々は書物を読まない、たとえ読んだとしてもその立派な言葉を自分の身に行つて見ようとはしないのだ。本当に、これらの立派な良い言葉を読んで行おうとするならば、千万年かかっても行い尽くすことは出来ないほどなのである。」(試訳)

 読書の功を言つて之ほど切なる言葉は中々あるものではない。更にこうも言っている。「人古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば、則ち鄙夫のみ。読書尚友は君子のことなり」

 現在、読書離れが進んでいると言われている。しかしおよそ何か事を成そうとするならば、読書なくしては有り得ないといふことを知らなければならないだろう。下らない本に付き合うことはないが、自分の生き方を正してくれる立派な本に巡り逢ふことほどの人生の楽しみは少ない。そのことを知ると知らぬとは大きな岐路となるだらう。

 読書への開眼は何歳位から培うべきか、幼少から絵本に馴染むことも大切だろう。そして、10歳前後の頃の知識欲の爆発を、よく導いてやること。この頃の読書は、人間としての基礎を築くものと言つて過言ではない。


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2006年11月21日 (火)

女子中学生との会話から・・・女性は神様である、ということについて

 おおげさなタイトルをつけたのは、読んでもらうためにわざとしたことです。まずはごめんなさい。

 さて、今晩(というか昨日夜)、9時過ぎ、とある市の商工会議所の出口のところでのことである。会合が終って駐車場に行こうと玄関の自動ドアを通ると、階段のところに中学生らしい女の子が二人座って携帯メールかなにかをしていました。

 変なおじさんと思はれるかも知れないという危惧も忘れるほど、なにやら可愛げな様子で、ニコッと笑って「寒いでしょ」と声をかけると、二人もにこっと笑って「寒いですよ~」とこたえてくれた。「中に入ればいいのに」というと、何やら困ったような笑顔を返してくる、とその時、後ろから来ていた若い女性が「早くおかえりなさい」という意味の言葉をとても女性とは思えない乱暴な言葉で投げかけて風のように通りすぎました。二人の顔が俄かにかきくもりそうになったのを見て「~~というのにも一理あるよね」(にこっ)と言うと、寸でのところで笑顔が戻ってきた。「おやすみなさい」と手を振って駐車場に行き、先ほどの若い綺麗な女性に、「おつかれさま~」と声をかけて、車に乗り、駐車場から出ようとしてふと見ると、もうあの二人は居なくなっていた。

 変なおじさんを警戒してのことは明らか(笑)だが、帰るみちみち、つぎのようなことを考えていた。

 冷たい階段に座るとおしりが冷える。おしりが冷えるとおなかが冷える。それは単に体に悪い、というだけではない。日本では、女房は山の神でおかみさん、つまり神様で、旦那は、お父さんといって”尊い人”つまり、神様に仕える神主なのですね。なぜ、女性は神様なんだろうか。それは、女性は神社と同じく、「お宮」を体の中に持っています。「子宮」がそれです。旦那は、いつもそれを拝んでいるわけですね。おなかが冷えると、「子宮」が冷える。「子宮」が冷えると、固くなる(かもしれない)。すると、雲の上からやってくる(「生まれる前の子育て」参照です)赤ちゃんが、おなかの中で、固い布団にくるまれることになる。(「子宮」が赤ちゃんの「布団」と見立てて)すると、赤ちゃんは居心地が悪くて困る。赤ちゃんは「三歳までは神の内」だから、神様が困るようなお宮にするのは、女性としてはとてもいけないこと、ということになる。

 だから、早く暖かいおうちに帰りな、と言ってあげるのがよかったかな、と思ったのでした。

 変なおじさんは、そんなこと大切なことを、ぼやっとして言いそびれてしまいましたが、あの若い”綺麗な”女性は、一言で、その核心をずばっと言ってのけたわけで、やはり女性は素晴らしいな、と思いました。

 おしまい。

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2006年11月20日 (月)

秋の一日

 一雨ごとに秋が深まっていくこのごろ、今日は数日ぶりに雨が上がってほの温かい日となった。

 紅葉も、今が盛りだ。山々も赤く色づいている。

 秋という季節は、最も郷愁を誘う季節かも知れない。万葉の昔、中大兄皇子が中臣鎌足に春の花と秋の紅葉のどちらがすぐれているかを競わせた。そのとき額田王が次の長歌を示して、秋を褒めた。

 冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取り手も見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山われは

 花咲き初める春、若葉青く萌え出づる初夏、そして木々の葉が赤く黄色く照り映える深秋。何れにも趣があるけれども、万葉人は秋を好んだようだ。

 秋の夕日に照る山紅葉

 濃いも薄いも数ある中に

 秋を彩る楓や蔦は

 山の麓の裾模様

 もう夕暮れです。

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2006年11月18日 (土)

「赤ちゃんと話そう! 生まれる前からの子育て」を読んで

 「三つ子の魂百まで」という、古くから日本にあることわざは、多くの人が知っていることでしょう。

 しかし、厚生労働省が、「三歳児神話に科学的根拠なし」ということを厚生労働白書で打ち出して以来、このことわざは封殺される傾向にあることは否めません。

 「三歳児神話」という言葉が何を指すのかは、いまひとつはっきりしませんが、これによって「ゼロ歳児保育」「乳幼児保育」などが推進しやすくなったことは間違いないでしょう。また、この白書の狙いもそこにあるようにも思えます。

 ところが、その後、文部科学省が、所謂三歳児神話には相応の根拠があるという報告を発表しましたが、殆ど無視されているように見受けられます。

 三歳児についてのことわざは他にも「三歳までは神の内」というものもあります。

 人間の成長過程にあって、三歳(満二歳)というのは大きな分岐点なのかも知れません。

 さて、表題の本についてですが、現場の産婦人科医の池川明先生の著書で、日本で始めて3500人規模の「胎内記憶」「誕生記憶」のアンケート調査を行った方です。

 「胎内記憶をおぼえている子」33%。「生まれたときのことをおぼえている子」20.7%という結果だったとのことです。

 実は、この本を読んで、何気なく話題にしていたら、自分の子もおなかの中にいたときのことを話してくれたことがある、というお父さんがいました。とても身近なことなのだということがわかりました。

 思えば、日本には「胎教」という言葉があって、赤ちゃんがおなかにいるときから教育は始まっているのだということは常識だったのですね。

 昔から長く言い伝えられてきたことには、何か真実が含まれているのでは、ということが思われます。

 「笑う門には福きたる」「泣きっ面に蜂」なんかもそういう知恵のこもった言葉かも知れません。

 赤ちゃんは、親を選んで生まれてくる、というのは本当に面白いことです。色々と不思議なはなしも沢山ありますが、子育てに悩むお父さんお母さんにはぜひ読まれたらよい、と思いました。


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2006年11月17日 (金)

40年前に、いじめ・自殺問題の真因をたった3ページ半の文章で指摘した数学者

 いじめ・自殺問題がクローズアップされている。

 これほど短期間に続けて子供が、校長先生が、自ら命を断つという痛ましい事件が起これば無理もない。

 ただ、凶悪犯罪を犯す人々が絶えないことや、モラルを完全に置き去りにしたような経済犯罪が多発することなども、その人たちが学校を経てきていることを考えれば、根っこに同じ問題があることが伺えるだろう。

 もう自殺予告の手紙が出ても驚かなくなっている自分に気づく。一つ一つの事件が、昔であれば半年一年は話題として保つくらいの深刻な内容を伴っているにも拘らず、そんなことが続くと、もう感覚が麻痺してくるのだ。それは一つの救いであって、一々心を痛めていたらこちらの身がもたない。

 さて、そうはいっても何でこんなことが続くのか、考えてみる。いわゆる頭のよい人たちの中には、別に青少年の凶悪犯罪が増えているわけではない、としたり顔で説く人もいる。昔もあったのだから今さら騒ぐことはない、という醒めた見方であるが、知識ばかりあたまに詰め込んだ人の常で、庶民の感じていることとは余りにもかけ離れているのだ。昔は、こんなことが立て続けにおこることはありえなかった。特定の一人が病んでいるというよりも、全体が病んでいるというように思える。

 ふと手にしたのが、「日本のこころ」という本だった。1967年というから、もう39年も前に出た本である。

 著者の岡潔博士のプロフィールは、この本によれば次の通り。

 1901年大阪生まれ。三高卒業後、京大物理入学。数学科に転じ1925年卒業。奈良女子大名誉教授。理学博士。学士院賞・朝日文化賞受賞。主著「春宵十話」「風蘭」「紫の火花」「春風夏雨」「月影」他

 日本を代表する数学者である。1978年に没しておられる。小林秀雄氏との対談「人間の建設」もある。

 題名は「日本のこころ」だが、全編教育についてのエッセイであり、岡博士が憂慮し、見通していたことが、現在正に実現しつつある、ということなのだと、改めて実感させられる。

 岡博士の最初の教育問題についての警鐘が「春宵十話」というエッセイだった。その最初の話「人の情緒と教育」というたった3ページ半の文章が、現在の問題の真因を抉っていると思う。

 また、教育荒廃の問題は、日本のみならず先進国に共通する問題だが、その原因も言い当てているように思われる。

 「これは日本だけのことでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみてはどうだろうか。これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。しかし、こんな学問はまだないし、医学でも本当に人を生理学的にみようとはしていない。」

 「人に対する知識の不足が最もはっきり現れているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。」

 小林秀雄氏が、今の学問は冷たくなった。人間にとって最も大切なことは、幸、不幸の問題であるのに、今の学問はそんなことにはまったく無関心だ、といわれたことがある。それを思い出した。

 更に次の言葉「動物性の台木に、人間性の芽をつぎ木したもの」が人間だ、という例えは解りやすい。この「人間性の芽」というものは、実は歴史・文化・伝統なのではないか、と思われるのだが、それが全て否定されて、動物性の台木を伸ばすことに血道を上げてきたのが戦後の教育だといえば、なるほどそうだと思い当たる。

 「人の人たる所以のところを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか。ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実にむずかしい。」

 いじめなどは、正に「人の感情」がわからないところに止め処もなく死に追い詰めるまでやってしまうことになっているのであり、また周囲の子らも「人の感情」がわからずにそれを黙認する、ということなのだろうか。
 更にいえば、仮にわかる子が居たとしても、猛獣の檻の中で、猛獣にたてつくようなまねをして、標的にされるのが恐ろしいということなのかも知れない。

 教師にしても、「人の感情」がわからないから、いじめしている子もされている子もわからない、ということなのではないか。

 「どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なことにあると気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない。」

 学力低下についても、その根本の原因がこのようなところにあるとすれば、未履修問題で騒然としているけれど、必須科目を未履修にしてまで受験科目を詰め込んできた学校のやり方が、実は、底深いところで学力低下を招いてきた、といえるように思われる。

 「ちょうどこんなふうに、乾いた苔が水を吸うように学問を受け入れるのがよい頭といえる。ところが、動物的発育のためにそれができない頭は、妙に図太く、てんで学問なんか受け付けない。中学や高校の先生に聞いても、近ごろの子はそんなふうに教えにくいといっている。」

 妙に図太く、てんで学問など受け付けない頭の子は、恐らくこの頃とは比較にならない位増えているように思われる。学ぶ意欲の低下が指摘されるが、それは動物性ばかりが発育したために、人間性の芽が育たなかったためではないだろうか。低学年からの即物的性教育などが導入されて、動物的発育に拍車をかけているようにも思われる。根は一つである。

 今こそ、岡潔博士の警鐘は読まれなければならないと思う。

 「六十年後の日本」という文章にはこのように書かれている。

 「その矢先だった。三歳児の四割までが問題児だと聞いたのは。厚生省がそう発表したと二ヶ月ほど前の毎日新聞にのっていたのである。医学的にみてはっきりとわかる者の数であって、きわめて重大な欠陥にしか目をつけていないのに、これだけの数字を示している。となると残り六割の半分に当たる三割も疑問といえる。この状態がそのまま続くとすれば、六十年後には国民の四割が廃人ということになり、国民のうち本当に頼れるのはとても三割はないと思うべきだろう。それで国がやっていけるものだろうか。」

 岡博士の予言から40年が経過しているが、日本は正にその道をまっしぐらに進んでいるように思えてならない。

 「ところで、これらの点を充分務めても、六十年後には日本に極寒の季節が訪れることは、今となっては避けられないであろう。教育はそれに備えて、厳寒にして顕れるといわれている松柏のような人を育てるのを主眼にしなくてはならないだろう。この寒さに耐え抜くことができさえすれば、一陽来復も期し得られるかもしれないが、私は、人力だけでここが乗り切れるものだろうかと思っている。」

 「道は断崖にきわまっていることを知ったから、どれくらい深いかとのぞき込んでみたのだが、谷底は見るよしもなかったのである。もし転落し始めたら、今度こそ国の滅亡が待つばかりであろう。」

日本の国という水槽の水の入れ替え方―憂国の随想集

岡潔―日本の心

情緒の教育

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2006年11月15日 (水)

「愛国心教育」の是非について

 「愛国心教育」の是非について様々な議論がなされている。

 俗耳に入りやすいことばに、「愛国心は自然にあるものであって、殊更に教育などで強調するのは何かその裏に魂胆があるに違いない」というものがある。

 しかし、「愛国心」は本当に「自然」にあるものなのだろうか。自然にあるものだとしても、教育する必要がないほどプリミティブなものなのだろうか。この二つの問いに答えることが出来なければ、上記の言葉は成り立たないはずである。

 「愛国心」は何もせずに自然に生まれるものではない。

 このことについては、平泉澄氏の「物語日本史」のはしがきに書かれている敗戦下の小学校での出来事でよくわかるように思われる。山間の小学校で、平泉氏は「皆さんは日本という国を知っていますか?」と問うと、小学生はみな「知らない」とこたえたということでした。「では、アメリカという国は知っていますか?」というと、「それは聞いたことがある」という答えが返ってきました。講演では日本の国の歴史の話をしたのですが、子供たちは一心に聞き入っていて、氏が帰る時にもじっと博士を見つめていたという。

 最近、同じような話を聞きました。ノンフィクション作家の関岡英之氏が、都内の小学校で子供たちに話をした。日本の最初の天皇陛下を知っていますか?と問いかけると、そそっかしい男の子が「推古天皇」と答る。「うーん、違うね、他にいますか?」すると、今度は女の子が「ハイ、仁徳天皇です」と答えたという。「では、今の天皇陛下は何代目かわかりますか?」と問いかけ、ひとしきり答えた後に、「125代です」と答えを言うと、「えーっ」とびっくりした。それで、歴代天皇の系図を子供たちに見せると、男の子は「すげえ」と言って見つめ、女の子は黙ってじっと見つめていたという。話が終って職員室に居ると、子供たちがやってきて、先生、さっきの系図のコピーはいただけませんか?という。どうして?これはテストにでるわけじゃないよ。というと、テストは関係ないんです、とにかく知りたいんです、というのだった。

 子供たちは誰もが確かに自分の生まれた国を愛する素質を持っていると思われる。しかし、「日本」という言葉さえ聴いたことが無ければ、日本を自分が生まれた国と知ることが出来ないだろう。知らなければ愛する心が生じることもない。

 ここまで考えてくれば、「愛国心」は「自然」に育つのだから、殊更教える必要はない、というのが如何に子供に対して愛の無い言葉であるか、自然に理解できることだろう。

 何を、どのように教えるのか、ということは教育上大いに研究すべき課題であることがわかるだろう。

 それは、何も「国を愛せ」というように、一つの教条を刷り込むというようなことでないことは言うまでもない。ところが、「愛国心教育」に反対する人々は、大雑把に言えば大体このようなグロテスクな光景を想像させるのである。それは、ためにするプロパガンダにすぎないだろう。本気でそう信じているとすれば、そんな光景は教育でも何でもないことに気づかないその人の迂闊さを示すに過ぎないだろう。

 そもそも「愛する」とは如何なることであるのか。

 「愛する」ということが、「性愛」ばかり思い浮かべる風潮は、この言葉の語義を混乱させているといえるだろう。

 キリスト教は「愛」の宗教だ、といわれる。この場合の「愛」とは一体何であるのか。

 昔、「惜しみなく、愛は奪う」などといフレーズがあった。「愛」とは奪うことなのか?確かに、キリスト教は、大航海時代に、世界を奪う尖兵となったとはいえるかもしれないが、それがキリスト教の本質だといえば、決してそうではないであろう。むしろ、キリスト教における「愛」とは、「献身」の別名であり、自己を神に捧げ尽くすことが理想とされたのであろう。そうでなければ「殉教」などという行為が讃えられ、崇められるはずはない。

 「愛」とは「献身」の別名であるのか。

 「国」とは何か。「愛」とは何か。「心」とは何か。

 これが一つ一つわからなければ、「愛国心」など解りようがない。

 理屈でいけば、このようなことを延々と考えつめていかねばならないだろう。それはそれで必要なことであり、哲学者には是非ともこのところを説明してもらわねばならない。

 しかし、歴史上、初めて「愛国」という言葉が使われた時、それはどのように使われたかを考えれば、それはやはり「献身」という言葉が文字通り当てはまる。大伴部博麻という一介の農民に対して持統天皇が詔を賜った故事を考えれば、それはやはり感動的なエピソードである。

 愛国心は理屈で説けば難しくなるだろう。そしてそのような理屈を精緻に作り上げても、「愛国」的な行為が日常、あるいはいざというときに取れなければ何の意味もないであろう。

 そうなってくると、「愛国心」という言葉を教え込むことには余り意味はない。むしろ、国を愛し尽くした人のことをになってくるのではないか。大体において、国を愛するという行為は決して甘いことではない。極めて厳しい行為である。日本の第一の忠臣として愛国者の鏡とされる楠正成公のことを考えてみても、自分の生命のみならず、一族を挙げて、天皇に殉ずるという行為は、余りにも厳しいものであるといえよう。愛とは厳粛なものである。
 愛国心とは恐らく極めて厳しいものであるということに気付くだろう。

 人間は、歩くことができる。這っていた赤ちゃんが、立ち上がろうとする。不思議なことだが、それは周りの大人が立って歩いているから、同じようにしようとするのだろう。もし、周りの大人が皆這っていたら、果たして赤ちゃんは立ち上がろうとするだろうか。今、国を愛するといえば忌み嫌われる、蔑まれる、敬遠される、不思議なことであるが、そういう大人ばかりが周りにいて、「愛国心」など育つわけがない。ましてや教育など、出来るわけもない。

 しかし、そのような風潮を生み出したものもまた、「教育」であったと思えば、何をかいわんや。しかし、「教育」によって破壊されたものは、「教育」によって再生することもまた、可能であるかもしれない、と思えば、多少無理があっても「愛国心教育」を取り組んでいく必要があるのだと思う。

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2006年11月14日 (火)

昭和天皇記念館を拝観して

 秋も深まる先日、久々に上京する機会があった。

 友人と久々に再会するために、立川駅に行ったところ駅に「昭和天皇記念館」のポスターがあり、ああこんなところにあったのかと思い、友人と別れた後、拝観に赴いた。迂闊にも立川市にあることを失念していたのだが、幸運に恵まれた。

 国営昭和記念公園は、丁度バザーの最中で賑わっていた。そのことはいいのだが不思議とこうしたバザーの光景には「地域」がない。扱っている品物や出店にはそれなりのものがあるのだが、全体となると雑然として、どこでやっても同じような、独特の現実離れした雰囲気である。それはそれで楽しめばよいので野暮なことを言い募る気はないのだが、何か人工的な臭いがしてならないのである。

 いきなり余談から入ってしまったのだが、ある意味極めて戦後的な風景の向こう側に、昭和天皇記念館はあった。

 実は、最初、どれがその建物なのか、全く判らなかった。それもそのはず、建物の上を人口の丘として作ってあり、記念館の上を、それと解って歩くことができるのである。これは、後から考えると極めて不敬なことではないか、と思われてきた。

 更に、最初はどこぞの公共施設と全く選ぶところのない、市民ホールのような空間が広がっていた。どこが記念館なのかさっぱりわからない。少し進むと、昭和天皇の御製が天井から垂れ幕になってぶら下げられていたり、昭和天皇にゆかりのある植物学者についての展示コーナーがあって、間違ってはいないということがようやく確認できるのである。しかし、ここまではどうも少年自然の家のような雰囲気で、どこが昭和天皇記念館なのかといぶかしく思った。

 ふと、横の壁際を見るとロッカーがある。その横に券売機がある。そして、一人添乗員のような人物が立っていた。何と、ここからが「昭和天皇記念館」になるのだ。ロッカーに荷物を置いて、入場券を購入した。大人一枚500円である。入り口も直ぐにはわからなかった。券売機の横の、非常口のような目立たない扉があって、その前に立つと自動ドアがゆっくりと開いたのである。

 正面に受付兼売店があり、女性が2名、男性が1名案内していた。右に入ると、そこからが展示室になっていて、更に2名程の案内の年配の男性がおられた。

 展示はとても綺麗で、ご生誕から、摂政宮の時代、そして即位、第二次世界大戦(太平洋戦争と表現していたのはいささか気になったが)、終戦のご聖断、敗戦下の全国御巡幸、外交親善というテーマで、それはとても整然としていたが、一言でいえば綺麗過ぎた。

 コーナー毎にモニターがあって、映像にテロップが流れる形で、昭和天皇のご足跡がたどれるようになっている。主な御製も掲げられていて、昭和天皇の大御心を偲ぶことができるようにもなっている。

 上部に5つ並んだモニターがあって、最初にイントロダクション的な9分ほどの映像を見ることができた。丁度団体の方々が入ってこられて、一緒に見ることになったのだが、案内の方がその前後で詳細に解説までしてくださった。

 全国御巡幸の全行程図があって、各地での映像が流れていた。

 また、皇居内にあった生物学ご研究所の内部が再現されてあり、生物学者としての昭和天皇の一面を御偲びすることができた。

 開戦の詔書の複製、終戦の詔書の複製も展示されてあった。

 久しぶりに、昭和天皇の竜顔を拝し、玉音を拝聴したが、胸詰まる思いがした。

 確かに、昭和の雰囲気が偲ばれるようになっていた。

 しかし、である。

 きれい過ぎるのである。

 激動の昭和を天皇として君臨され、日本を統治された昭和天皇をお偲びするには、余りにも簡略に過ぎ、そして深刻な悲劇の時代としての昭和という本質にはまったく触れられていないのだ。昭和天皇の御聖徳を語り継ぐ事は極めて重要なことである。しかし、何故、昭和という時代の悲劇、それは大東亜戦争と敗戦、復興という表面の時代の推移の深部にあるものが判らなければ、昭和天皇の偉大さも何も、本当には判らない、伝わらないということになりはしないだろうか。

 現在の様々な矛盾軋轢は、昭和の時代から既に全て存在したものなのである。それでも国の分裂という悲劇に陥らずに、国家の統合が果たされてきたこと、それが正に昭和天皇がおわせばこそ、ということ、そのことをどのように後世に実感として伝えることができるのか。これは極めて大きな課題であると思われる。

 昭和がわからなければ、平成の現在もわからないのである。

 これはこれで素晴らしいものだとは思うが、2千年の我が国の歴史に未曾有の大戦と敗戦という激動の時代と、その時代を国家国民の為に捧げ尽くされたご生涯を送られた昭和天皇の御聖徳を伝えることはできないのではないか、という思いがした。

 拝観を終えて一歩外に出てみれば、そこに「昭和天皇記念館」があることすら容易には伺えない。そのこと自体実に象徴的な気がした。

 戦後的な、ニュートラルで空っぽで抜け目のない経済活動だけがそこに営まれているという、抽象的な空間が広がっているばかりなのだ。うわべだけの広場の光景は、昭和の悲劇が底深く続いていることを、その不在によって証しているようにさえ思われた。

http://www.f-showa.or.jp/2_jigyo/1_kinenkan.html

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2006年11月11日 (土)

「夜の神々」を読んで

 皇學館大学の松浦光修助教授の短編集「夜の神々」を読んだ。

 氏は知る人ぞ知る三重県の教育正常化運動の立役者の一人であり、三重県の日教組から数十億円の不当な過払い金を国に返還させた人物である。(詳細は同氏著「いいかげんにしろ日教組」参照)

 本業は勿論学者で、日本思想史を専攻しておられる。幕末維新期の国学者である大国隆正の研究で研究書も出しておられる。

 どんなすさまじい國士なのか、いかつい風貌を想像すると間違う。この本の中でも、自分の風貌について、面白い一文があった。第3章逆流に生きる、”私の虚像”について、で「東京では講演の前、ある教養ある御老人から、こんなことを言われた。「松浦先生といえば、私は西郷さんのような豪傑を想像していましたが・・・」。岡山では、講演会の会場で受付の青年から会場費を取られそうになったという。「青年から、「失礼しました。あまりにお若いので・・・」と謝られた。八十歳以上の”憂国の老人”があらわれる・・・と信じていたらしい。」。そしてPHPの女性編集者からは「この本の著者って、『ランボー』(主演/シルベスタ・スタローン)みたいな人かしら?」といわれたということである。
 そのつど、「坊主頭にして、犬を連れて会場に行けばよかったかもしれない」「水戸黄門のような格好をして、日の丸の鉢巻をして会場にいけばよかったかもしれない」「ボディビルに通う元気は、もうない、上半身裸で歩くには、もう寒い。」と、期待に応える自分を戯画化している。茶目っ気たっぷりであるが、これも氏の風貌の一つといえよう。

 一文が短く、長年に様々なところに、色々なきっかけで書いたものを集めた本なので、バラエティに富んでいて面白くて読み易い。そしてどの一文にも、氏の風貌が覘いて見えるのである。

 さて、松浦氏の風貌には、本質的に、詩人の魂が宿つてゐる。この本を読んで更にその意を強くした。詩人は物事の本質をズバリつかみだして一つの形を与える力を持つ。

 「敗軍失策の功」といふ薩長を論じた中岡慎太郎の言葉を引用して、大東亜戦争を論じるところは、短いながら実に印象深い。
  「負けてよかった史観」といふ、思想の左右に関係なく存在する一つの退嬰的な大東亜戦争観がある。これは日本人の一断面でもあるかもしれないが、負けて目が覚めたから繁栄した、というものであり、ばかな戦争をしたものだ、という考えにつながる。
 しかし、それは違う、と松浦氏は断じる。
 「巨視的に歴史を考えれば、攘夷戦争も大東亜戦争も、戦ったからこそ”次”があったのである。それこそ「敗軍失策の功」であるが、その言葉に秘められているような、深い知恵を欠いている人が、現代にはあまりにも多い。」「堂々と全力で戦い、その結果、敗北することは、悲しいことではあっても、決して恥ずかしいことではない。恥ずかしいのは、敗北に懲りて「引きこもり」のようになり、一室に安住し、延々と「負けてよかった」などと繰り言をつづける退嬰的な姿勢である」「「負けてよかった」などと言っているうちは、日本人の「心の占領体制」は終るまい。悲しみの涙が乾くことはないにせよ、人々が「それでも、戦ってよかった」と、誇りをもって父祖たちの戦いを想起できるようになったとき、日本は真の独立国家として、世界に堂々たる一歩を踏み出せるのではあるまいか。」

 最後に、この本は、やはり夜読むべきであろうと思はれる。

 「客観性、理性、知性」の「昼の科学」が、者會に不可欠のものであることは言うまでもない。しかし、人がそれのみで”生きる”には、かなり無理があるのではなかろうか。/無理くらいですめばいいが、とくに現代社会では、「昼の科学」の偏重が、人に、”生きる”ことのバランスを崩させ、さまざまな深刻な事態を引き起こしているようにさえ思われる。今こそ「感性、情緒、直観、霊感」の「夜の科学」を、人は意識的にとり戻す必要があるのではなかろうか。/本書は、そのような思いをこめて「夜の神々」と名づけた」

と、著者自ら記してもいる。

 「あるいは、人は夜の闇の中でこそ、神々に、より近づくことができるのかもしれない」

 静かな秋の長夜に、お薦めの一冊である。


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2006年11月 7日 (火)

いじめ自殺予告を文科大臣に送つた子へ

 君が文部科学大臣に宛てて送つた手紙が公表されてインターネット上で拝見することができましたので一読いたしました。しつかりした文面から見て、男の子の中学生で、しかも極めて頭の良い子だと思ひました。いじめ自殺が続発し、大変な社会問題になつてゐる今、君が文部科学大臣に手紙を送り、いじめをしている同級生や、見てみぬふりをする教師や学校、教育委員会に対して痛烈な逆襲をしやうとしていること、実にインパクトのあるやり方であると思ひます。また、君が如何にお父さんお母さんを愛してゐるかも、もういちどお父さんとお母さんの子として生まれたいといつてゐることからもよく伺えます。兄弟や姉妹はいるのですか?一人つ子なのかも知れませんね。

 あまりにもひどいいじめを繰り返す同級生を心底恨んでいること、まともに取り合つてくれない教師や学校、教育委員会に対して憤つてゐること、文面を通して伝はつてきます。そしてそれはきつと本当のことなのでせう。君が指摘するように本当のことが隠されて無駄に死ぬのではなく、復讐につながるやうに手を打つなど憤りの中にも冷静な計算ができる頭のよさを感じさせられます。しかし果たして君が計算したとおりになるのだろうか。君も予想しているやうに、誰一人責任を取つて自殺するような人はないででせう。もしそのやうな気概がある人々ならはじめからいじめなどしないでせう。君も予想しているやうに、時間が経過すれば風化して嫌な思ひ出として封じ込められることでせう。しかし、君が一番愛してゐるご両親だけは、いつまでも君の事を忘れずに悲しい人生を送ることになるのではないでせうか。恨み、悲しみ、憤りにまみれて。

 君は、本当は思いやりのある人なのだと思ひます。だからご両親をそのやうな目に遭わせることに気づけば、必ず理解して考え直すことができると思ひます。人は一人一人神様から与えられた使命があります。それを果たすことなく途中で命を断つといふのは決して褒められた話ではありません。どんなに厳しい試練をも乗り越へて立派に生き抜いた人々は歴史の上に沢山居ます。「愚者は体験から学び、賢者は歴史から学ぶ」といふ言葉をご存知でせうか。今の現実がどんなに厳しく感じられやうとも、それを試練であると受け止めるやうに自分の心持ちを変へれば、必ず乗り越へて行けるはずです。同級生や教師や学校や教育委員会が悪いのは本当でせう。しかし、それは君の責任ではありません。君が責任を取らなければならないのは君自身の人生についてではありませんか?他の人々はそれぞれ自分の課題を抱へて生きています。それは彼ら自身の課題であり責任です。君が彼等にそれを気づかせてやるのが自分の役割だと思ふのであれば何もいふことはありません。

 しかし、君には責任があります。ご両親に対して、自分自身に対して。それを全ふすることが、君自身の責任ではないでせうか。それは、今、死を選ぶことなのでせうか。そうではない、と私は思ひます。もし同級生や教師が許せないといふのであれば、一生懸命に勉強して10年20年後に見返してやればよいではないですか。学校や教育委員会が悪いといふであれば、更に一生懸命勉強して、そのやうな悪い教育システム自体を改革するやうな仕事ができるだけの人物になれば良いではないでせうか。そちらの方が、今、死を選ぶよりも遥かに厳しい道ではないかと思ひます。

 今から百五十年前の幕末といふ時代、吉田松陰といふ人物がいました。松陰は三十歳で幕府に囚われて刑死するのですが、それまでに懸命に学問をして、日本が滅ばされないやうに真剣に考え、行動し、松下村塾といふ塾で多くの弟子たちを育てました。その弟子たちが、明治維新をなしとげて、日本は滅ぼされずに近代国家として発展することができたのです。
 その吉田松陰が、幕府に囚はれて江戸へ護送され、これが両親への最後の手紙といふ中に、次の和歌をしたためました。

 親思ふ こころに勝る 親こころ 今日のおとづれ 何と聞くらん

 自分が親を思つてゐる以上に自分のことを思つてくれている両親よ、自分が囚われて刑死したといふ知らせをお聞きになつたらどのように思はれるでせうか、といふ意味です。

 君は、今死んでも悔いがないほど一生懸命に生きたといふのでせうか。もつと目を開いて、一生懸命勉強して、世の中を良くしていこうといふ高い志はないのでせうか。ないのであれば仕方ありません。しかし、少しでも有るのならば、生き抜く道はあるのではありませんか?そのことをよくよく考へて欲しいと思ひます。

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2006年11月 6日 (月)

三連休も終ります

 11月3、4、5日の3連休も終ります。
 中途半端に何か用事が入って結局一日丸まる休む日はありませんでした。

 新聞なども読まず、世の中の流れから自分を遮断しておりましたが、それで別に何が不便という訳でもありません。精神衛生上は極めて宜しいといえましょう。

 読みかけている本があと少しで読了します。

 一冊は「流離譚」。安岡章太郎の歴史小説です。氏のご先祖様の幕末維新史ですが、土佐勤皇党とその後について、実に赤裸々且生き生きと描いておられるのが素晴らしい。
 小林秀雄氏の「流離譚を読む」という書評に惹かれて購入したのはもう10年近く前のことですが、5センチも厚さのあるハードカバーはそのままパラパラとページをめくられるだけで打ち捨ておかれておりました。私の読書はいつもそうなのですが、そのような積読、置い読、放っ読から始まって、ある日おもむろに手にとって読み出すのです。計画的な読書とは無縁で、以前は歯が立たなかったものが、不思議と読めるようになっていたりするわけです。「流離譚」も、以前はどうしても興味が続かなかったものですが、今はすらすらと読めるようになっておりました。

 考えてみると、この話は、血縁の父祖の物語であり、安岡章太郎氏自身の幼少の思い出や、家に残っていた様々な文書が元となって書かれたものであります。大げさに言えばルーツをたどるといった趣もあります。私自身、購入した当時と比べて、父祖や血縁のことについて思い巡らせる時間が増えてきたことと、この本への興味が途切れずに読み続けられるようになったことは恐らく関係があるものと思われます。人間、年を重ねなければ見えてこないものもあるのだと思われます。

 「歴史は、人類の巨大な恨みに似ている」「歴史は繰り返さない」「だから人は過去を惜しむのでしょう」「子供を亡くした母親にとって確実なことは、子供の死という歴史的事実ではなくて、死んだ子供そのものであり、死んだ子供への愛情が子供の死という事実を切実なものとしているのだ」

 うろ覚えの小林秀雄氏の「歴史と文学」の断片です。

 歴史は繰り返さない、ということは、生活している庶民にとって日々切実に実感していることである、とも言われています。過ぎ去ってしまったものは永久に戻っては来ない。この冷厳たる事実を身に染みて知っているからこそ、過去を惜しみ、面影を慕うのでありましょう。

 もう一冊は「第二次世界大戦に勝者なし」上巻です。「ウェデマイヤー回想録」としてアメリカでは版を重ねて広く読まれた戦記ですが、アメリカが作成した「勝利の計画」策定の責任者でありアメリカの軍事中枢に深く関与していた著者の回想録は実に興味深い内容で溢れています。

 訳者の妹尾氏がまえがきで引用している「汝、平和を欲すれば、戦争を理解せよ」との言葉を味わうならば、軍事について論じること事態をタブーしてきた風潮は、「平和を欲する」ものとはいえないことがわかります。今、中川昭一自民党政務調査会長の核武装について議論すべきだとの発言が、問題視されているが、議論そのものを封じ込めようとするマスコミは「平和を欲する」ものとは言えないのではないでしょうか。

 人は、無視すればするほど無視したものに縛られるという傾向があるのではないでしょうか。そして核についての冷静な議論を置き去りにしてきた結果、我が国を敵視する軍事独裁国家である隣国の北朝鮮に核武装を許すというディレンマを犯すことになったのでしょう。

 横道にそれたが、これは更に大きく言えば「大東亜戦争」そのものについても言えるのでしょう。単純に「日本が悪かったから戦争が起きた」という認識だけで、大局観も何もない短絡的かつ視野狭窄的な認識に陥り、日本が果たして誰と戦っていたのかさえ、まるで判っていないというパロディのような現在日本の知的状況は正に噴飯ものといわねばなりません。

 今年も残すところあと2ヶ月を切り、教育基本法改正法案の衆議院通過も目睫の間に迫りました。

 7日には、憲政記念館で、教育基本法改正法案の修正と早期成立を求める趣旨の緊急国民集会が開催されると聞いています。正に、怒涛の霜月となることが予測されます。

 休みボケをかましている場合では、ありません。

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2006年11月 3日 (金)

「日本国憲法」公布から60年、日本独立、未だ成らず

 産経新聞の連載「詳説・戦後」第3回が、11月2日掲載されている。「憲法公布満60歳」とある。

 岸信介元首相の血を受け継ぐ安倍総理と、吉田茂元首相の血を受け継ぐ麻生太郎外相のコンビ。これも歴史の因縁めいた話ではあるが、世代を超えて成し遂げなければならない志というものは確かに存在するのである。

 この特集ではコンパクトに「日本国憲法の制定過程」についてまとめている。

 「連合国による日本占領が始まった直後の昭和20年10月、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー総司令官は幣原喜重郎首相らに憲法改正の必要性を示唆した。政府は同月、憲法問題調査委員会を設置し、大日本帝国憲法の諸条項を踏襲した改正要綱を21年2月、GHQに提出した。マッカーサー総司令官は受け入れを拒否、独自の草案をGHQ民生局に作成させた。
 GHQは象徴天皇や戦争放棄を盛り込んだマッカーサー草案を10日で完成させた。政府は再考を求めて抵抗したが結局、閣議でGHQ草案に沿う政府案作成を決定。21年3月にGHQとの協議に基づいた改正草案要綱を発表。5月の吉田茂内閣の発足を経て、憲法改正案を第90回帝国議会に提出した。約4ヶ月間の審議を経て現憲法は可決成立し、11月3日に公布、22年5月3日に施行された。
 吉田氏が終戦連絡中央事務局次長に抜擢し、GHQとの折衝にあたった白洲次郎氏は21年3月の手記で「斯クノ如クシテ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今に見ていろ』ト云フ気持抑ヘ切レス ヒソカニ涙ス」と記している。」

 憲法9条については、「主権制限条項」と表現した江藤淳氏の「1946憲法―その拘束」の論文がある。そのまま読めば国の自衛権を否定しているとしか見えない、この条項は、その非現実性故に、宗教的情熱の的ともなっているのである。これは「神なき時代」の「殉教」を国民全体に「強制」した、恐るべき自民族へのジェノサイド条項と言ってもよいのかも知れない。これを改正して、自衛権を明記し、国軍を明確に規定することが憲法9条改正の要訣だが、それを「戦争のできる国」にする、いや、憲法を改正すると「戦争になる」とまで飛躍するのが改正反対派の教義なのである。殉教の情熱としか評しようのないこのようなカルティックな護憲論に、責任ある政治家が組することができないのは当然である。

 改憲を求める多くの国民与論も、「自衛権を明記し、国軍を明確に規定」することと「平和主義、国際協調路線」を維持することの間に何等矛盾は生じないことを充分理解するまで成熟してきたといえよう。そしてまた、世界には「平和を愛する諸国民」ばかりが存在するのではなく、明確に悪意を持って我が国と国民に相対している国があることを冷静に認識するようになった。そしてそのような国が「公正と信義」で我が国に対しているのではないことも「拉致」「核実験」「弾道ミサイル発射」によっていやというほど見せつけられてきたのである。

 無論そればかりでなく、南西諸島と東シナ海での脅威の増大、不法占拠され続けている竹島、そして最近国民が銃撃で殺された北方領土海域。カルティックな人々には見えていても見えないこれらの脅威が、多くの国民に認識され始めているということ。

 憲法改正、まったなしの時代が到来したのである。

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未履修問題、政治決着だけでよいのか?

 全国の高校を震撼させた未履修問題は、受験を控えた高校3年生の事情が考慮され、急速な政治決着に向かおうとしている。しかし、この問題、救済措置が出来ればそれでよいということではない。実に全国の高等学校の一割が、卒業要件を満たさないカリキュラムを実行していたのである。受験対策がその大きな理由だというが、高校は受験予備校ではあるまい。しかし、そのようにしなければ「競争」に勝ち残れないというのか。どこかゆがんでいると思われてならない。高校の時、受験批判を口にしていたことがあるが、担任の教師は、先ず受験に受かってそれから批判をすればよい、と吐き棄てるように言った。それはそれで正論であり、受験は受からなければ始まらないことは間違いない。紆余曲折はあったものの大学へは入り、卒業もした。しかしやはり疑問はなくならない。何のための高校なのか。

 6・3・3制が戦後の教育改革の中でアメリカ教育使節団によって導入されて以来固定化した我が国の教育制度の枠組みであるが、教育基本法改正を成し遂げた暁には、この枠組み自体の見直しと再編がなされてしかるべきだろう。

 幕末維新史の中で、最後まで頑強に戦った会津藩の藩校日進館では、武士階級のみとはいえ21歳まで義務教育が課されていたという。教育の力、思うべしである。

 義務教育が6・3の9年で、現在もそのままであるが、高校がほぼ全入に近い現状からすれば、6・3・3の12年に延長しても良いのではないか。中等教育と初期の高等教育を一貫制にして、5年制中学とし、次いで現在の高校3年から大学2年までの3年間を教養教育を中心とする人間形成の期間として、そこから其々の専門課程に進むシステムに変えた方が余程合理的というものである。

 すると、旧制中学、旧制高校に近くなるのであるが、これはむしろ戦前の教育制度の方が余程人間形成の実態に合った合理的な教育システムだったということであって、戦前に返せなどと主張するがために言っているのではない。
 これだけ全国の殆どの地域で問題が発生していたということは、現在の6・3・3制度の限界が露呈したということが出来るだろう。

 基本の制度としては、初等教育5年、中等教育5年、教養課程3年、本科大学3年のような形にすべきではなかろうか。義務教育は中等教育までであるが、現在の高校2年までになる。

 このようにすれば中等教育段階でじっくりと教育に取り組むことが出来るだろう。3年で駆け足で過ぎ去ってしまうところを、じっくりと勉学に取り組み人間形成をすることが出来るのではないか。教師には生徒の懲戒権を確立し、教師は敬うべき存在であるとの意識を生徒にしっかりと持たせることが大切である。それには、「教師は労働者である」などという綱領を持つ団体は百害あって一利なしであり、必然的に日教組などは過去の負の遺産として清算されていくだろう。替わって教育研究団体なり教師としての志を高める団体が主流となって教師全体のレベルアップを促すことになればよい。
 教育行政システムもこれにそって抜本的な改革が迫られることになるだろう。現在殆ど形骸化している地教委は廃止し、都道府県教育委員会を大幅改組して義務教育を見ることにする。高等教育は国が直接責任を負う。
 教員養成システムにも抜本的な改革を加え、大学の教育学部も解体的な改革を進めなければならない。かつての師範学校的な教員養成のための専門教育システムの構築が必要である。

 教育基本法改正の次に来る教育改革は更にこのように進むべきではなかろうか。

 「未履修 全高校の一割に」【産経11月2日】記事

 高校必須科目の未履修問題で文部科学省は1日、全国の国公私立5408校の緊急調査をほぼ終えた。私立2校のみ調査が未了だが、全体の約1割にあたる540校で未履修が発覚し、現状では卒業できない恐れのある生徒数は8万3743人にのぼった。割合では私立は公立の倍となった。

 また、文科省の緊急調査で289校となっていた公立の未履修校は、さらに25校発覚。総数は314校に膨らんだ。
 文科省によると、私立は調査を終えた1346校のうち16.8%の226校で未履修。公立は4045校のうち7.8%の314校で未履修が判明した。
 私・公立を合わせた履修不足の内訳は、70時間以内が6万1352人(73.3%)▽70時間超で140時間以内が1万7837人(21.3%)▽140時間超が4554人(5.4%)となっている。

 地理歴史で必修の「世界史」を履修させなかったケースが多く、「家庭」「保健」「情報」などの未履修校も多かった。

「未履修補習 実質50時間で合意 与党協議 大幅不足も例外認定」【産経新聞11月2日】記事

 全国の高校で必修科目の未履修が発覚した問題で、政府は1日、与党協議で、大半の履修不足の生徒について、上限70時間の補習を条件に卒業を認める救済案で原則合意した。ただ、与党側からさらに補習時間削減を要請され、弾力的な運用を認める方向でさらに文部科学省で検討する。学校の裁量により、補習70時間のうち50時間の出席で卒業できるようにする見通し。350時間など大幅な授業不足を抱えた高校生も、行政事件訴訟法に基づく例外的な取り扱いで卒業を認定する。2日に通知し公表する。

 伊吹文明文部科学大臣は1日の衆議院教育基本法特別委員会で、「受験前の全生徒が被害者だ。木曜日(2日)にはこういう基準でやれば卒業できるという通知を出す」と明言した。
 文科省によると、履修不足の時間数は70時間以内の生徒が約6万人と最も多い。一方で「指導要領通りに履修していた生徒とのバランスが必要だ」(伊吹文科相)との認識から、70時間を上限とする補習による救済案を検討していた。

 補習だけで卒業要件を満たせない生徒には、リポート提出や単位数を削減できる「減単制度」や「世界史B」(4単位=140時間)を近現代史中心の「世界史A」(2単位=70時間)に振り返る措置を講じる。それでも満たせない生徒や未履修のまま卒業した既卒者には、行政事件訴訟法の「事情採決」と呼ばれる例外的な規定を適用し救済を図る方針。

 事情採決は、行政判断自体が違法でも、それを取り消せば公益に著しい障害が生じる場合は、取り消さなくてよいという考え方。適用には①リポート提出を求めるなど最大限の対策を講じる②卒業認定しないことが公共の福祉に反しており、認定が本来は違法と明確にする③前例としない―などが条件となる見込み。

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