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2006年10月 5日 (木)

「原理主義から世界の動きが見える~キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の真実と虚像~」を読む中で考へたことの極一部

「原理主義から世界の動きが見える~キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の真実と虚像~」(PHP新書)といふ本を読んだ。
 小原克博氏、中田考氏、手島勲矢氏の三人の共著で、もう一人対談に加はつてゐるので四人の合作といつてよい。三人は共に同志社大学神学部・神学研究科の教員である。そして、もう一人の対談に加はつた森考一氏は、「一神教学際研究センター長」である。
 題名の通り、啓典の民と呼ばれることもあるユダヤ教に淵源する三つの一神教のそれぞれについて、「原理主義」と呼ばれる現象を学問的に深めたものであり、極めて興味深い本である。そして冒頭に置かれた対談は、それら個別の研究テーマを総合して論じたもので「総論」に当たるものである。
 「一神教」といふ枠組みも、欧米の近代化、世俗化の中で出てきた発想であり、それ自体一つの価値体系の中に位置づけられる言葉であるといふ。そして、其れに対してしばしば用ひられる「多神教」といふ枠組みも同様であり、日本における議論で無自覚に前提として用ひられる「一神教対多神教」といふ枠組みも日本以外から見ると普遍的に通用すう議論ではない、といふ指摘も興味深いものであつた。
 本書の目的は「イスラム原理主義」といふ用例のやうに、蔑称であり相手を攻撃するために使われる他称として使はれていることに対して、この負のイメージが、具体的な実像を必ずしも反映していないことを指摘し、そもそもの「原理主義」についての「認識のズレ」を直視して、少しでも実像に近づくことにあるといふことであり、各論の具体的な議論の展開は極めて説得力に満ちており、概論として興味深い内容であるが、それについては本書の一読をお薦めするに留めたい。
 また、原理主義は一神教のみに見られる現象ではなく、例へばガンジーの「非暴力・非服従」運動も原理主義と見ることが出来ると指摘してゐる。そこで冒頭では仮に「原理主義」の理解を「近代化・世俗化に抵抗しつつ、それを超へる文明的な原理を掲げる、思想的、政治的な運動」としてゐる。
 しかし「原理主義」(fundamentalism)がアメリカのキリスト教史の中から生まれてきた言葉であり、元々は自称であつたものが他称として攻撃に用ひられるやうになる経緯は宗教史としても社會思想史としても興味深ひものがある。事ほど左様に、「原理主義」は「一神教」を巡り論じられることが多いのである。
 三つの一神教も、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教と外から見ただけでは判らない違ひがあるといふ。十把一絡的な議論では決して見へて来ない歴史的思想的社会的な背景の違ひがあるのである。そして、これは、この三つの一神教が共に殆ど身近に存在しない日本に於て最も見へ難いものであるといふ。
 「一神教」的な文化文明から「多神教」的な文化を見直そうといふ議論についても、それを内輪の議論でなく積極的に「一神教」世界の人々に説得力ある言葉で説いてゐる論者は無いのではないかと手厳しい指摘もなされている。(自分としては、必ずしもさうは思はないのであるが)

 前置きが長くなつたが、これほど知的な人々の書であり、「一神教」に対しての該博な知識とそれに基づく議論をしてゐながら、肝心の「日本」につひての理解が余りにも弱いのではないかと感じられる部分があつた。これは、決して特殊な傾向ではなく、現在の学問の世界にある雰囲気であるやうに感じるので、敢へて部外者でもあり門外漢でもありその任でもない自分としての感想を述べて見たくなつた次第である。



 対談の中で「日本人にとつての宗教と原理」といふ項目において、一神教学際研究センター長の森氏が論じてゐるところについてである。
小原氏が、「あへていふならば「宗教多元的」な日本社会のなかで、一神教や原理主義を問ふことの意義はどこにあるのか。これを森先生におうかがひして座談会の締めとしたいと思ひます」と述べたのに続けて
(森)「いわゆる日本的な宗教のあり方、そのすばらしさは、私自身も感じてゐるところがあります。たとへば、日本のキリスト教会を訪れるときと、伊勢神宮といふか、あるいは伊勢の森といふか、そこへ行つたときに、どちらが宗教的な清清しさを感じるといつたら伊勢なんですね(笑)」と、肯定的な発言をしてをられる。更に、「理由はゆくわからないんですが、そういふ点で私は、日本の宗教性といふものに非常に惹かれるところがあるし、評価すべきところは沢山あると思ふ。」と積極的な評価までされてゐるのは興味深いところなのだが、それに続けて、次のやうに言はれるのである。
「しかし、同時に、いはゆる日本が近代化を推し進めやうとして、いはゆる天皇信仰を中心に行かざるをえなかつたことを理解したうへで、それが暴走していつたときに、それを押しとどめる力になつたものが、日本的な伝統のなかにあつたのだらうかと考へる必要があると思ふんです。」と述べるのである。近代の歴史の評価を「暴走」の一言で断罪出来る粗雑さには、三つの一神教についての理解はその中に入つて具体的に実像に迫らうとされる姿勢を持つてをられながら、父祖の歴史そのものに対しては、外部からの視線のみで断じてゐるやうに見られるのである。これには承服し難ひものを感ずる。また、小原氏が「それはまつたくなかつた」と合ひの手を入れられ、いとも簡単に同調されてゐる。続けて森氏は、
「さう。そして結局、それに対してある種の「ノー」をいつていたのは、日本以外の、それは非常に保守的なキリスト教グループであつたり、あるひはマルクス主義者だつたり、さういふある種の原理・理念に立つた者しかいなかつたといふこと。これは歴史の経験として大きいんじやあないかと思ふんですよ。」と述べるのである。
戦前・戦中の歴史に於て、保守的なキリスト教グループやマルクス主義者が何をしたのか。それが如何なる影響を及ぼしたのかについて、極めて過大な評価をされているやうにしか思はれない。これを「ある種の原理・理念に立つた者」と肯定的に評価してゐるが如何なものであらふか。「暴走」の具体的な史実につひての特定がなされず、また日本に内在的な「原理・理念」があたかも存在しないかのやうは言はれ方は、真に研究した上での言葉なのか疑はしいやうに私には思はれる。また、ゾルゲ事件や企画院事件などを持ち出すまでもなく、所謂「暴走」が、「天皇信仰」に由来してゐるかのやうな議論も極めて短絡的といはざるを得ない。更に、大戦後期から末期に於て、戦争終結への努力が、天皇とその周辺によつて始められた事實からも、所謂「暴走」を「押しとどめえう力になつたものが、日本的な伝統のなかにあつたのだらうかと考へる」際に決して無視してはならない史実ではないのか。
「だから日本的な、いはゆる自然と結びついたやうな宗教性のいいところは認めつつ、やはり、そこに決定的に欠落してゐるものを意識する必要がある。そして、反対に、一神教世界にはそれがあるといふことも。」と、いはば、一神教の優位性の主張に堕して行くのだ。そこには「一神教世界」に「決定的に欠落してゐるものを意識する必要がある」とは微塵も考へないところにに、学問の名を借りた「護教論」的な臭気を嗅ぎ取つてしまふのである。
それでいて「日本では一神教=原理主義のやうなイメージがありますが、日本はみずからの原理主義的な傾向や歴史を正しく認識するためにも、一神教世界をもつと理解し、双方の認識のズレを調整していく必要があるでせう。」と、日本人一般に御託宣を垂れるといふ御節介まで敢へてするのである。「原理」が無いといつたり、あるといつたり忙しいことだが、最後に使はれている、日本に対する「原理主義的な傾向や歴史」といふ言葉が、決して肯定的なものでないこと、「蔑称」としての「他称」の響きがあることを指摘して置きたい。これは、折角の真面目で真摯な学術的著述の価値を減ずるものでこそあれ、増すものではないからである。(引用文の原文は新仮名遣ひ)

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コメント

松蔭さま、コメントありがとうございます。

肯定的な意味で日本の本質について考へを深めていくことは大切なことと思つておりますが、それ以上に、今は、安易な歴史の断罪に対して、蟷螂の斧ではあつても反論して行きたいと思つております。

投稿: 橘 正史 | 2006年10月 5日 (木) 午後 11時13分

適切なご指摘に思えます。総論と各論に「ひらき」がありますね。

投稿: 松蔭 | 2006年10月 5日 (木) 午後 12時53分

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