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2006年10月

2006年10月31日 (火)

「東京大空襲被害、国に賠償請求へ」の記事を見て

 先ずは産経新聞の10月30日付けで掲載された記事の全文を転記してみよう。

  来年3月に集団提訴
 昭和20年3月10日未明、米軍B29爆撃機の大編隊が来襲し約10万人が死亡したとされる東京大空襲の遺族や負傷者が29日、東京都内で開いた集会で、国に損害賠償と謝罪を求める訴訟を来年3月9日に東京地裁に起こすことを決め、各地から138人が参加する原告団を結成した。請求額は一人あたり1000万円で原告数は今後も増える見通し。原告団によると、空襲被害についての集団訴訟は初めて。

 原告団に加わるのは東京のほか北海道、愛知、大阪、長崎など21都道府県に住む87~56歳の遺族ら。政府の戦後補償が軍人軍属とその遺族が中心で、民間人犠牲者に補償がなかったことは、憲法で保障された法の下の平等に違反している、などと主張する方針。大空襲から62年の来年3月10日は土曜のため前日の9日に提訴する。(以上記事)

 空襲で焼かれた都市は100を下らない。東京大空襲が最大の被害を受けたことは間違いないが、この訴訟が成立すれば、同様の訴訟は限りなく起こされることは想像に難くない。訴訟ビジネスのネタとして垂涎の的となることも又必定であろう。

 東京大空襲が、モラルを欠いた戦時国際法違反の大虐殺であったことは明らかであり、それを画策したルメイの名を断罪することはユダヤにおけるナチス同様であってもおかしくはない。

 民間人の無差別殺傷がいかに人道に外れたことであるかは論を待たない。

 しかし、この記事にあるような訴訟は果たして成立するのか。主張する争点が「憲法で保障された法の下の平等に違反」という点に絞られるようである。確かに、これならば、現実に爆弾を落としたアメリカを弾劾する必要もなく、謂わば嫉妬心を巧みに利用して国のみを訴えることが可能になろう。嫉妬心というのは、軍人軍属の遺族と民間人の別ということについてである。終戦60年を過ぎて、遺族年金や旧軍人年金も終息に向かおうとしているこのときにあたって、新たにこのような問題が起こされるのは何故なのだろうか。それは、軍人軍属という存在についての実感が無くなったことが大きな要因であろう。

 何故軍人軍属には遺族年金があり、民間人にはないのか。差別ではないか、というのがこの訴訟の理屈であるように思えるからである。これは間接的な靖国攻撃でもある。だが果たして、このような訴訟にモラルは存在するのだろうか。

 軍人軍属は、国家の命令によって死地に赴いた人々である。当然国家はその責任を負う義務がある。

 一方、民間人に対して、国はそのような義務を負ってはいない。そこに厳然たる区別があることは論を待たない。

 しかし、「戦争犠牲者」ということでは同じではないか、というように戦争を知らない世代は考える。軍人軍属の戦死を「戦争犠牲者」という言葉で片付けようとしたところに、そもそも問題があったということになるだろう。

 結論だけ言えば「軍人軍属」は決して「戦争犠牲者」ではない。というよりも、「戦争犠牲者」という言葉自体が極めて粗雑な言葉であって、現実に戦争を語るのにそぐわない言葉なのである。

 一民族の大量虐殺や抹殺を考え一部でもそれを実行したという点において、ナチスドイツとルーズベルトのアメリカは同罪なのである。ところが、戦後日本はユダヤ人とは対照的な対し方をした。象徴的なのが言わずと知れたいわゆる「原爆慰霊碑」である。少々短絡して言えば、いわゆる「原爆慰霊碑」の思想が払拭されない限り、上記のような訴訟は手を変え品を替え、際限なく起こされることになるだろう。そしてその時に訴えられるのは常に日本国である。

 「法の下の平等」であるからこそ、法律で定められた「軍人軍属」と「民間人」の区別をつけることが「法の下」の「平等」であるという当たり前のことをあえてはぐらかすのである。

 どうせ訴えるのならば、堂々と戦時国際法違反の虐殺行為をアメリカに対して訴えればよいものを、それはしない。

 上記の理屈でいけば、南京で虐殺にあったと主張する老女は、日本政府ではなく、中国政府を訴えなければならないはずであるが、そういう話はついぞ聴いたことがない。まあ、中国政府が戦死者の遺族に対してどの程度の補償をしているのか寡聞にして知らないので、下手な類推は出来ないのかも知れないが。

 私の言い方は、あるいは東京大空襲の被害者の方々に対して冷酷に響くかも知れない。そのようなつもりは一切ないのは勿論である。原爆死没者の慰霊や被爆者への援護が、余りにも強調されたためかどうかは知らないが、東京大空襲の被害者の方々がこれまで余りにも無視されてきたことは否めない事実である。その意味で、一半の共鳴はするのであるが、「法の下の平等」を言うのであれば、「軍人軍属」との対比ではなく、「原爆死没者」や「被爆者」との対比でなければならない。そうであってこそ論理的にも現実的にも整合性がつくというものである。

 広島としては、原爆の総決算をしなければならない時期を迎えているとも言えるかも知れない。

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高校未履修問題 「調査書改竄は犯罪」の記事を読んで思うこと、二、三・・

 産経新聞10月30日に、夜回り先生・水谷修氏「調査書改竄は犯罪」という記事が掲載されていた。

 「大学に提出する調査書や生徒の成績などを示す指導要録は絶対に改竄(かいざん)してはいけない学校の『公文書』。もし教師が授業を受けていない生徒の科目の成績を付けていたのであれば『公文書偽造』にあたり、立派な犯罪だ」と指摘。

 「改竄にかかわった教師は自ら名乗り出て、処分を受けるべきだ」と話した。

 水谷さんは、今回の問題で最も早急に対応しなければならないのは「今、行われている大学の推薦入試だ」とし「もし、調査書の改竄が原因で、(学習指導要領通りに履修していながら)入試に落ちた生徒がいるなら、大学側はすぐに調べて救済すべきだ。これでは教育の平等が保たれない。文部科学省も早急に対策を講じるべきだ」と話す。

 水谷さんは横浜市立高校の元社会科の教師。学校現場を知り抜いており、「市教委、県教委に学校から移動してくる教員がいるのだから、今回の問題を放置してきた教育委員会の責任は大きい」と批判。必修科目の未履修問題が生まれる背景には、大学進学実績を重視する学校の姿勢があると指摘し、「学校というのは、生徒の人格形成を築く場であるはずなのに、大学に受かることだけが目標にされている。教育の成果は学力だけで測るものではない」と話す。

 卒業できない恐れのある生徒の今後の補習についても、「なぜ、卒業間際の大事な時期に、大人が犯した過ちを子供に押しつけようとするのか。文科省が率先して、子供たちを救済すべきではないのか」と訴えた。

(以上、記事から)

 指摘されているように、この問題は、学校側の確信犯的な犯罪行為であるということである。

 更に、水谷氏が指摘する「調査書の改竄」が仮に現実にあったとするならば、未履修問題以上の恐るべき犯罪であるといってよい。なぜなら、教師が気に入らない生徒は、いかに優秀であっても、受験について極めて不利な立場に立たされるからである。未履修とは逆に、履修しているにも拘らず履修できていないという改竄がされていたならば、どんなに努力しても、その生徒は受験を突破することは不可能という事態になるからである。

 この間、教育講演会があって、このような問題が実際に起こり得ることの実例を聞いた。

 小学校での話しである。歴史の授業で先生の気に入らない答えをした児童が、それ以来どうも成績が伸びない。普通かそれ以下ばかりだというのである。そんなに出来ない児童ではないのだが、と首を傾げていたところ、中学に入った途端、ぐっとトップクラスの成績になったというのである。

 ここで示唆される問題は、その児童の担任教師は、自分の意に沿わない児童の成績を故意に操作して、成績を低く抑えていた可能性があるのである。

 もし、この児童が中学受験に臨んでいたとすれば、間違いなく落ちただろう。それは本人の能力や努力不足の問題では全くなく、担任教師の意に沿わなかったから、ということになる。対策は、教師の意に沿うように言動に気をつけるしかない。そして迎合するもののみが受験に通る、ということになるのであれば、人間性が歪められていくのは当たり前ということになる。

 未履修問題は、そのような可能性が、学校現場に蔓延している可能性を示唆するものである。そして、このような想像が、単なる妄想ではないということを、皮膚感覚として感じるのである。

 イギリスの教育改革の運動は、このような皮膚感覚を元として、身近な教育現場での不正を一つ一つ暴き、それを「教育黒書」として公表するところから始まったといわれている。広島の教育正常化運動も、正に具体的な危機感から広がっていったのである。

 日本の将来に暗い影を落としている「ゆとり教育」の後遺症は、この教育がなされた機関の児童生徒たちの将来に暗い影を落としている。悪いことに、この世代は丁度ワーキングプアといわれる世代に重なっている。どちらが先なのかわからないが、恐ろしいことである。「ゆとり教育」は、元々日教組の発案であり、彼等の運動の柱の一つでもあった。この「ゆとり教育」を文部省に広めたのは、広島に派遣され赴任した寺脇研教育長(当時)である。広島の日教組は、新社会党支持という、他県の教組から見ても更に左に寄っており、正に化石的存在であるが、彼等に妥協する中で洗脳されたのでもあろうか。この一事を取ってみても、広島の教育界の罪は重いといわざるをえない。隣県への教育難民の発生は、広島では常識でさえあった。産業誘致が教育の問題でつぶれたケースもあるといわれている。未履修問題は広島では教育正常化の過程で明るみに出て、是正されてきた経緯があり、今回、広島の公立学校でただの一校も未履修問題が無かったのも、既に是正されてきたという経緯があったからに過ぎない。広島の改革は、全国を少なくとも3年追い越した、ということが言えるかもしれない。逆に言えば、広島の教育正常化はどのようになされたのかを知れば、これから全国で起こってくる更に恐るべき実態が豫想出来るというものであろう。

 教育基本法改正の国会審議が始まった正にこの時期にこのように問題が明るみに出てくるということは、決して偶然ではない。戦後の教育の病弊が、今このときに当たって一気に吹き出てきたといえるだろう。

 いじめ問題、生徒の自殺。ここ一ヶ月だけでも余りにも痛ましい事件が続発しすぎている。どんな言葉も及ばないほど、日本は病んでいる。そしてその原因が教育にあること、少なくとも大きな原因の一つであることもはっきりしている。

 教育基本法改正の国会論議がどのようなものになるのか。党利党略でなされるならば早晩そのようなことをした政党なり政府は手痛いしっぺ返しを国民から受けることになるだろう。

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2006年10月26日 (木)

敵に似る愚を冒す勿れ

 北朝鮮の核実験は、我が国にとって弾道ミサイルより数段痛烈な目覚ましだったようだ。
 弾道ミサイル発射で、安部政権成立の後押しをした金正日は、今回の核実験で、真正保守政権としての安部政権の基盤強化に貢献したといえよう。
 まことに皮肉なめぐり合わせであるが、結果からすればそうとしかいえない。

 北朝鮮の独裁体制は、極めて異様な全体主義国家であり、擬似君主制独裁国家である。民主主義は勿論機能していない。この国を褒め称えてきた朝日新聞や日教組は、未だに何の申し開きもしていないようである。反省と謝罪が好きなのは、他人に押し付けるときだけだということであるのだろう。

 しかし、一方において北朝鮮全体を憎悪する愚を冒すべきではなかろう。同じ土俵で、同じような低劣な姿勢で争うのは見苦しいばかりである。結局は相手の影響を受けている点で、朝日や日教組と変わらない。

 敵に似る愚を冒す勿れ。而して内を養え。

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再び、必修科目の未履修問題について

 地歴科の独立は、戦後教育史の中でも画期的な出来事の一つだった。

 地理・歴史という学科は、戦後アメリカからもたらされた社会科という枠組みでは収まりきらない、人文の学問である。教養本来の意義からしても重要な意味を持っている。

 しかし、受験科目ではない。

 そのため、進学校では常に冷や飯を食わされることになるわけだ。

 世界史必修が導入されたとき、それは画期的なことと認識された。勿論自國の歴史が必修であった方がよいのは勿論だが、そちらは地理と日本史と選択科目となった。

 地球規模でものを考えろなどというかっこよい言葉に対して冷笑的に黙殺されたのが、「世界史」だった。日本人が精神が矮小化していくのもこんなところに原因があるのだろう。

 江戸時代、荻生徂徠は「学問は歴史に極まり候」と言った。現在、国が歴史の宝庫に触れる機会を設ければ、学校現場では受験という実用に向かないと切捨てられる。

 教育の荒廃とは、このような点にも顕れている。そして、受験にのみ集中して大学に受かった彼らは、一体何をやるのだろう。歴史の軽視という副産物もしっかりと身につけて、そしてまた、打算のためには法令も軽んじるという姿勢までも身につけて。 

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「人生は芸術を模倣する」

 イギリスの作家、オスカー・ワイルドの言葉をふと思い出した。

 新しいテレビドラマの記事を新聞で見たからである。何でも中学生が妊娠出産して母親になるというストーリーだという。なるほど、世も末だ。

 テレビなどトンと見ないもので、テレビドラマなどという茶番劇を見る機会もないのであまり気にも留めなかったが、いやまてよ、と思った。どんなにくだらない物語でも、それを漫然と見ていれば影響も受けるだろう。テレビが垂れ流す低俗な番組がどれほど日本人の精神性を害しているか計り知れないものである。

 テレビなど無くても充分生活していくことが出来る。いや、無いほうが余程すがすがしい。

 紀子様はテレビのない家庭で育ったというではないか。気品のある子供を育てたければ、テレビなど売り払ってしまうがよい。

 いや、最近は衛星放送など、無数のチャンネルがあり、有用なものもある、という反論が帰ってくるかもしれない。

 なるほど一理ある。しかし、番組を選ぶ主導権は手放すまい。番組の奴隷となるな、である。

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教育基本法改正は民主党が政権担当能力があるかどうかを試すリトマス試験紙である

 安部内閣において、教育問題が国政の最重要課題としてクローズアップされている。

 これは、森内閣の時に教育改革国民会議が行われてから継続した議論の上に成り立っている国民的な問題であることは論を待たない。ようやく、国政の最重要課題として位置づけられるにいたったわけだ。

 その最大の焦点として、教育基本法改正がある。先の通常国会で継続審議となった連立与党の妥協の産物である政府案と民主党案がこの臨時国会での成立に向けて愈々論戦が始まった。

 妥協でよいものが出来るはずもなく、民主党案の方が多くの点によいてよほど良い。ただし民主党内ではこれは通すために出したのではなく政府案と抱き合わせで廃案にするために出したのだという、まことに不まじめな説明がなされているという。

 本当だとすれば、民主党にはいよいよ政権など担当してもらうわけにはいかない、ということになるだろう。逆に、民主党が主導権を発揮して、政府案の修正を成し遂げて、国民待望の新しい教育基本法を成立させたとすれば、二大政党の時代も決して遠くはなくなるだろう。

 いや、むしろ、基本政策が水と油ほども違う自民党と公明党という野合の連立政権よりも、国家の為になる、と国民は判断するかも知れない。政府改正案の致命的問題点である愛国心や宗教的情操の欠如などを克服している民主党案が生かされるとするならば、民主党は党内の極左勢力を充分抑えて国家の舵取りをすることが可能であることを示す絶好の好機であるといっても過言ではない。

 政局を作り出すために、ころころと基本政策の軸を捻じ曲げるような曲芸政党に誰が国家の命運を託すことができるだろうか。政局政治に長けた人物が党首ではあるが、そのようなサーカスは見世物としては面白いが、国家の運営はサーカスではないことを、国民は本能で知っているのである。

 ある月刊オピニオン誌によれば、自民党総裁選がもし小泉選出と同じ方式であったならば、小泉氏を越える圧倒的な支持率で安部氏は当選していた、という分析がある。安部氏が掲げた「美しい国日本」という理念は、いまや多くの国民が待望する理念であるといってよいと思われる。

 教育基本法改正に対して民主党がどのような指導力を見せてくれるのか、国民の関心もそこに注がれることになるだろう。既に終っている過去の泡沫政党に擦り寄って、政権担当能力があることを訴えることが出来る、千載一遇のチャンスを逃すこと勿れ。

 

 

 

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高校必修科目履修漏れ多発に見る遵法意識の欠如

 全国各地の高等学校で、学習指導要領に定められた必修科目を履修させず、このままでは多数の高校3年生が卒業資格を得られないことが判明した。

 その多くが進学校といわれる高校で、大学受験に必要な英語や数学などの科目に振り替えて、直接受験には関係のない地理歴史科の「世界史」が履修されていなかった。

 履修「漏れ」というのは、ケアレスミスのようなニュアンスに聞こえるが、実際は、受験対策に血道をあける親と学校が、確信犯的に履修科目を除外しており、教育委員会への「虚偽報告」まであえてしていたのだというから、開いた口がふさがらない。

 今回、広島県でも一校確認されたが、広島では既に何年も前から問題として指摘され、是正されてきた事態でもあり、まだ残っていたのかという思いが強い。また一方で、これだけ全国に渡る多くの学校で「法律違反」が常習化していたことは、学校現場のモラルハザードとして極めて深刻な問題として受け止められなければならない。

 何年も続けていた学校もあるというが、成績はどのようにつけられていたのであろうか。虚偽報告は公文書偽造にもあたる刑法犯罪である。詳細な実態調査が臨まれるところだ。

 教育基本法改正論議が始まりにあわせたような報道であるが、法的拘束力のある学習指導要領がここまでないがしろにされている実態は、教育基本法改正がなされても、現場をきっちりチェックできなければ何も変わらないのではないかということにもつながるであろう。

 教育委員会が全く知らなかった筈はない。また知らなかったとすれば監督不行き届きも良いところであろう。親にも、利己主義ばかりが目に付く。このような教育現場の精神的荒廃は、いじめ問題に通底するように思われる。

 教育委員会制度の廃止、教育に対する国の責任を明確化、教師養成システムの抜本的改革など、このような問題の抜本的改革には、不可欠な問題であるように思われる。

 そして、その根柢において道義心・忠誠心の確立、そして愛国心の涵養が重要なのだと思われる。

 全て、戦前には我が国に存在していたものである。

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2006年10月21日 (土)

皇后陛下72歳御誕辰の御言葉を拝して

 地久節であるといふことを、うかうかと過してしまつたが、昨日の夜に皇后陛下の御言葉を拝して、様々なことが思はれた。

 取り分けて、悠仁親王殿下の御事について、「悠仁はまだ本当に小さいのですから、今はただ、両親や姉たち、周囲の人々の保護と愛情を受け、健やかに日々を送って欲しいと願うばかりです。」との御言葉に感銘を受けた。

 国民として、皇后陛下の御心に沿い奉り、静かに健やかなご成長をお祈りすること、「今はただ」といふお言葉に、切々たるものを拝し、さかしらな議論で騒がしくすべきでないことを思つた。

 天皇といふご存在は、日本人にとつて余りに身近であり、とても他人事とは思へないのが皇室の御事なのである。

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「攘夷の思想」を拝聴して

 松浦光修先生(皇學館大学教授)の講演CDを拝聴して、色々なことを考へさせられたが、ともかくも一番痛烈に感じたことは、「人任せ」ではいけないといふことだつた。

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「日本国家にとって「神宮」とは何か」を読んで

 故幡掛正浩先生が著された、伊勢神宮崇敬会叢書1の表題のパンフレットは、随分前に伊勢の神宮会館で購入したものであつたけれども、今回何の気なしに手にとつて通読してみた。

 平成7年に著されたこの小著は、しかし著者の国を憂い、神宮を思ふ熱情に溢れたものであつた。

 伊勢神宮は、言ふまでもなく、皇室の祖先神である天照大御神が鎮座まします日本第一の神宮である。その御神体は、天照大御神が天孫ニニギの命に授けられた、御神鏡であることも、本来は日本人の常識であらねばならない御事である。

 宮中の賢所に奉祀せられている御鏡は、伊勢の御神鏡の代器であり、三種の神器の本体は伊勢の御神鏡であること、その関係は不分一体であるといふことに尽きる。

 占領軍が昭和20年12月15日に出した神道指令は、日本の国のあり方に対する根底的な打撃を与へる意図を持つものであつた。 この著書の中で、占領下の紆余曲折が語られているが、止むを得ない事情から、占領下に作られた法律である「宗教法人法」の枠内で、伊勢神宮をお守りするほかに道がなかつたといふことである。

 しかし、独立回復後において、この占領下に加へられた歪みは正されたのか。「神宮制度是正問題」といふことがあつたことを詳細に亙つて記されてゐる。

 皇室経済法に、皇位と共に伝わるべき由緒あるものとして三種の神器は現在法制の枠内では規定されているが、伊勢神宮が民間の一宗教法人であるといふことでは、宗教法人の一存で解散も可能といふことになる、といふことで、根本的に国家と神宮の関係を正す必要があるといふのが、この一連の問題であつたといふ。

 これも紆余曲折があつたことはこの著書に記されてゐるが、皇室の伝統を考える国会議員連盟が誕生して、占領下に歪められた皇室制度を見直して、皇室をお守りするためのアプローチが国会においてもようやく取り組まれることになつた現在、神宮の御事についても十分考へておかねばならないと思はれた。

 占領遺制の全面的な見直し、その上で我が国の本来あるべき姿を模索すること。「美しい国」づくりとは、このやうなプロセスを疎かにしては決して成り立たないであらうと思ふ。

 左翼は未来に空想を描き、過去を断罪する。真正保守は、過去を尊重しつつ、反省すべきは反省して新しい事態に対処してゆく。

 左翼にとつて伝統は否定すべき過去の遺物に過ぎないが、真正保守にとつては伝統は核心そのものといふことが出来る。

 左翼は空想するが、真正保守は思想する。

 安倍政権をして真に真正保守政権たらしめるには、日本国家の本質の問題を避けて通ることは出来ない。「美しい国」とは言葉遊びでなければ、未来に描く空想でもない。伝統に根ざした悠久の理想である。

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「本居宣長補記」を読み返して

 昨日、高速バスで移動する時間が往復で4時間以上あつたので、小林秀雄全集(昭和58年頃刊行)別巻1を持参しました。最新の全集ではなく、一つ前のもので、その巻を持ち出したのは特に理由があつてのことではありませんでした。

 最初に収録されてゐたのが「本居宣長補記」でした。何度も読んでいるはずなのですが、今回久しぶりに読み返して、何も読み取れていなかつたことに気付きました。

 さわりは、プラトンの第7書簡の話や、昔のエジプトの文字を発明した神様の話、ソクラテスの話などですが、主要部分は、「本居宣長」では触れなかった「眞暦考」についての話でした。

 この話、ぼやつと理解してゐたつもりだつたのですが、全く理解していなかつたことに気付きました。

 大陸から暦が入つて来る以前にも、古代人は暦を持つてゐたといふことについてなのですが、その証拠は、「暦」といふ漢字を「こよみ」と訓読みしたことで明らかだといふ訳です。

 その古代人の「暦」を、「眞暦」と宣長は言つたわけです。

 大陸から入つた暦は太陰暦で、四季の運行と月の巡りをあわせるために、閏月などが何年かに一度入るなどの特徴があります。眞暦はそのような不完全なものではなかつた、といふのです。

 絶対に狂はない暦、それが眞暦である、といふこと。

 このことの意味を、これまで良く分かつていなかつたことに気付いたのでした。

 現在使用されている太陽暦であるグレゴリウス暦も、四年に一度2月29日があるなどの調整が必要で、決して完全なものとはいえません。しかし、眞暦は狂はない、といふことはどういふことなのだらうか。

 これは、文字以前の言葉と、文字以後の言葉との関係のやうなものであることが、冒頭に何故文字以前についての話があるのか、分かります。

 自分の外にあるものとしての言葉、それが文字で綴られた言葉ですが、文字以前にあつた言葉は、全て自分の内にあるものであつた訳ですね。暦も同じだといふ事なのです。古代人は、四季の巡りと、月の巡りは別のものであるといふ事を認識してゐた、と。それを無理矢理合理的な説明をしやうとしたところに伝来の暦の様々な不具合が生じたといふ指摘はなるほどと思はれました。

 そして、古代人の認識は、現代の最新の科学にも繋がるやうなところがあるのだといふ指摘も面白いものです。

 人間の頭で捻り出した理屈などは、素直に大自然に直面してゐた古代人の認識に、到底及ばない。

 今、人間の頭でこねくり回す理屈が社会を支配しています。ジェンダーフリーや人権擁護法案などはその最たるものだと思はれます。それは言語魔術であり、中世の暗黒と少しも変はらないといつてよいのだと思はれます。

 人は誰しも古代人と同じ自己本然の姿を持つてゐるのだといふこと。そのことをよくよく考へねばならぬと思はされました。


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2006年10月16日 (月)

国連安全保障理事会、北朝鮮制裁決議を採択

 国連安保理が北朝鮮制裁決議案を採択した。7月の弾道ミサイル発射に対する非難決議から、当然のことながら更に一歩進んだ国連憲章第七章(加盟国への義務規定)を踏まえた決議である。軍事制裁の部分は外したとはいえ北朝鮮が自らもたらした包囲網の輪は更に狭まったといえよう。次にもう一度核実験なり弾道ミサイル発射なりをすれば、軍事制裁を含む決議採択へと進み、中国・ロシアも最終的に北朝鮮の現体制を見放すことになるだろう。もう土壇場まで来ていると言って間違いない。

 一方、拉致被害者全員の即時無条件返還と、拉致実行犯の引渡し、全容の徹底解明など、日本政府が当然求めるべき要求を北朝鮮に突きつける状況に政府として動き出したことは喜ばしいことであると同時に、正念場とも言える。あらゆる手段を尽くして拉致被害者の救出に当たらなければならないが、政府の行動を支えるのが国民の確信と信念である。

 また、北朝鮮に核兵器の開発・保有を促進した、国内の協力者を徹底的に洗い出す必要があると思う。政党、団体、企業、個人、様々なレベルで存在するであろう。

 北朝鮮制裁決議の全文(日本語訳)/読売新聞10月16日記事より

■前文

 安全保障理事会は決議825(1993年)、決議1504(2004年)、特に決議1695(2006年)などの関連決議と2006年10月6日の議長声明を想起する。

 核、化学、生物兵器とその運搬手段の拡散は国際の平和と安全に対する脅威であることを再確認する。

 北朝鮮が2006年10月9日に核実験を行ったとする主張、こうした核実験が核拡散防止条約(NPT)ならびに核兵器不拡散のグローバルな体制の強化をめざす国際的な努力に突きつけた挑戦、地域内外の平和と安定にもたらす危険に対し、最も重大な懸念を表明する。

 核兵器の不拡散の国際的な体制は維持されるべきだという確信を表明し、北朝鮮はNPTの核兵器国の地位を得ることはできないことを想起する。

 北朝鮮のNPT脱退表明と核兵器追求に強い遺憾の意を示す。

 北朝鮮が前条件なしの6か国協議復帰を拒んできていることにも強い遺憾の意を示す。

 中国、北朝鮮、日本、韓国、ロシア、米国が2005年9月19日に発表した共同声明を支持する。

 北朝鮮が安全保障と人道に関する国際社会のほかの懸念に対処する重要性を強調する。

 北朝鮮が行ったと主張する核実験が地域内外の緊張を高めたことに深刻な懸念を表明し、国際の平和と安全に対する明白な脅威があると認定する。

■対北非難・要求

 国連憲章7章のもとで行動し、7章41条に基づく措置を講じる。

 1 北朝鮮が関連の諸決議、特に決議1695(2006)と、こうした核実験は国際社会全体の非難を招き、国際の平和と安全に対する明白な脅威になるとした2006年10月6日の議長声明を公然と無視し、核実験の実施を宣言したことを非難する。

 2 北朝鮮がさらなる核実験や弾道ミサイル発射を実施しないよう要求する。

 3 北朝鮮がNPT脱退表明をただちに撤回するよう要求する。

 4 北朝鮮がNPTと国際原子力機関(IAEA)保障措置に復帰するよう要求し、NPTに加盟するるべての国が条約上の義務に引き続き従う必要性を強調する。

 5 北朝鮮は弾道ミサイル計画に関連したあらゆる活動を停止し、この関連において、ミサイル発射凍結に関する既存の公約を再び掲げるよう要求する。

 6 北朝鮮はすべての核兵器と既存の核計画を検証可能かつ後戻りできない形で完全に放棄しなければならないこと、NPT加盟国の義務とIAEA保障措置協定の条件に厳格に従って行動しなければならないこと、それらに加えてIAEAが要求もしくは必要と見なす個人、書類、装置、施設へのアクセスを含む、透明性ある措置をIAEAに提供しなければならないことを決定する。

 7 北朝鮮はその他の既存の大量破壊兵器と弾道ミサイルの計画もすべて、検証可能かつ後戻りできない形で完全に放棄しなければならないと決定する。

■調達・輸出の禁止

 8 以下の措置を決定する

 (a) すべての国連加盟国は、以下の品目について、北朝鮮に対し、直接であれ間接であれ、出所が自国内であろうとなかろうと、領土内を通過したり、その国民が行ったり、自国籍の船舶や航空機を使ったりする供給、売却、移転を阻止しなければならない。

 (ⅰ) 通常兵器移転国連登録制度のために定義された戦車・装甲戦闘車両・大口径火砲システム・戦闘機・攻撃ヘリコプター・軍用艦艇・ミサイルまたはミサイルシステム、補修品を含む関連資材、安保理または後記の12で設立される委員会が認定する品目。

 (ⅱ) 北朝鮮の核、ミサイル、他の大量破壊兵器に関連する計画に資する可能性のある品目、物資、装備、物品及び技術。これらは(決議に付属する)文書S/2006/814とS/2006/815で示される。決議採択から14日以内に制裁委員会がその条項の改訂や仕上げを終えられない場合はS/2006/816にあるリストも考慮に入れる。安保理または制裁委員会が認定する場合もある。

 (ⅲ) ぜいたく品

 (b) 北朝鮮は前記(ⅰ)(ⅱ)の全品目の輸出をやめなければならない。すべての国連加盟国は、その出所が北朝鮮であろうとなかろうと、これらの品目について、自国民による調達や自国籍の船舶、航空機を使った調達を禁止しなければならない。

 (c) すべての国連加盟国は前記(ⅰ)(ⅱ)の品目の供給、製造、維持、使用に関連した技術的な訓練、助言、サービス、援助が、自国民によって、あるいは自国の領土から、北朝鮮に与えられることを阻止しなければならない。また、同様の訓練、助言、サービス、援助が北朝鮮の国民によって、あるいはその領土から、外部に与えられることを阻止しなければならない。

■金融制裁

 (d) すべての国連加盟国は、本決議採択後に自国の領土内にあり、委員会または安保理によって、北朝鮮の核、他の大量破壊兵器、弾道ミサイルに関連する計画に関与または支援していると指定された個人または団体、その代理または指示で動いている個人または団体が、直接または間接的に所有・管理している資金、他の金融資産と経済資源について、各国の法的プロセスに従ってただちに凍結しなければならない。また、資金、金融資産や経済資源が、加盟国の国民や領土内の個人または団体によって、利用可能にされること、その利益になることを阻止しなければならない。

 (e) すべての国連加盟国は、委員会または安保理が、北朝鮮の核、弾道ミサイル、他の大量破壊兵器に関する計画に関連した諸政策に対し、その支援や促進などを通じて責任を負っていると指定した人物について、その家族を含め、入国や領土の通過を阻止するために必要な措置を講じなければならない。

 (f) 8の要求を遵守させ、核、化学、生物兵器とその運搬手段、関連物資の違法な取引を阻止するため、すべての国連加盟国は、自国の国内法上の権限及び国内法令に従い、かつ国際法に適合する範囲内で、必要に応じて、北朝鮮に出入りする貨物の検査などを通じた協調行動を取ることが要請される。

■適用除外

 9 8(d)の条項は関係国が以下のように認定した金融その他の資産には適用しないと決定する。

 (a) 基本的な支出に必要なもの。食料品、家賃、住宅ローン、医薬品、医療費、税金、保険料、公共サービス代への支払い、または専門職に対する妥当な支払いとリーガルサービスに関連して負った支出の返済、さらに、関係国が委員会に対して、凍結した資金、他の金融資産、経済資源へのアクセスを認める意思を通知し、かつ委員会が通知後5日以内に否定的な決定を下さない場合、これらの資金の維持に対して国内法に従って支払う費用。

 (b) 特別の支出に必要なもの。この認定は関係国から委員会に通知され、委員会が承認した場合に限る。

 (c) 司法、行政、仲裁裁判上の担保先取引権や判決債務の対象になるもの。この場合、資金や他の金融資産、経済資源はこれらのために使ってもよい。ただし、本決議の日付に先立つものであること、8(d)で言及された人物や安保理または委員会が特定した個人または団体の利益にならないこと、関係国から委員会に通知されていることが条件になる。

 10 8(e)が科す(入国・通過禁止の)措置は、委員会が宗教上の義務を含む人道上の理由で正当な渡航と認定した場合や委員会が他の方法よりも本決議の目的を果たすのに役立つと結論付けた場合は適用されないものと決定する。

 11 すべての国連加盟国に対し、8の項目を効果的に実行するために講じた措置について、本決議採択から30日以内に安保理に報告するよう要請する。

 12 安保理の暫定的な手続き規則の中の規則28に従い、すべての理事国で構成される委員会を設立することを決定する。委員会は以下の任務を果たす。

 (a) すべての国、特に前記の8(a)で触れた品目、物資、物品、技術を生産もしくは所有する国から、8が科する措置を効果的に実行するために取られた行動に関する情報、さらに有益と考えられるあらゆる追加情報を求める。

 (b) 決議の中の8が科した措置の違反とされる情報について検証し、適切な行動を起こす。

 (c) 9と10で示された適用除外の要望について検討し、決定を下す。

 (d) 8(a)(ⅰ)(ⅱ)のための追加的な品目、物資、装備、物品、技術を決める。

 (e) 8(d)(e)が科す措置に従わなければならない追加的な個人と団体を指定する。

 (f) 本決議が科す措置の実施を促進するために必要な指針を公布する。

 (g) すくなくとも90日ごとに作業状況について、とくに8で科す措置の有効性を高める方法に関する所見や勧告を添えて、安保理に報告する。

■「6か国」再開奨励

 13 挑戦半島の検証可能な非核化の達成と挑戦半島及び北東アジアの平和と安定の維持を目指し、中国、北朝鮮、日本、韓国、ロシア、米国が2005年9月19日に発表した共同声明について、迅速な実施のために、すべての関係国が外交努力の強化、緊張を高めかねない行動の自制、6か国協議の早期再開促進に努めることを歓迎し、奨励する。

 14 北朝鮮に対し、6か国協議に無条件で即時に復帰すること、中国、北朝鮮、日本、韓国、ロシア、米国が2005年9月19日に発表した共同声明の迅速な実施に向けて作業を行うことを要請する。

 15 北朝鮮の行動を継続的に点検しなければならないこと、条項8に盛り込まれた措置について、北朝鮮の決議遵守状況に照らして必要になるかもしれない強化、修正、停止など、妥当性を見直す準備をしなければならないことを確認する。

 16 追加的な措置が必要な場合はさらなる決定が求められることを強調する。

 17 この問題に引き続き積極的に関与することを決定する。

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2006年10月 5日 (木)

「原理主義から世界の動きが見える~キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の真実と虚像~」を読む中で考へたことの極一部

「原理主義から世界の動きが見える~キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の真実と虚像~」(PHP新書)といふ本を読んだ。
 小原克博氏、中田考氏、手島勲矢氏の三人の共著で、もう一人対談に加はつてゐるので四人の合作といつてよい。三人は共に同志社大学神学部・神学研究科の教員である。そして、もう一人の対談に加はつた森考一氏は、「一神教学際研究センター長」である。
 題名の通り、啓典の民と呼ばれることもあるユダヤ教に淵源する三つの一神教のそれぞれについて、「原理主義」と呼ばれる現象を学問的に深めたものであり、極めて興味深い本である。そして冒頭に置かれた対談は、それら個別の研究テーマを総合して論じたもので「総論」に当たるものである。
 「一神教」といふ枠組みも、欧米の近代化、世俗化の中で出てきた発想であり、それ自体一つの価値体系の中に位置づけられる言葉であるといふ。そして、其れに対してしばしば用ひられる「多神教」といふ枠組みも同様であり、日本における議論で無自覚に前提として用ひられる「一神教対多神教」といふ枠組みも日本以外から見ると普遍的に通用すう議論ではない、といふ指摘も興味深いものであつた。
 本書の目的は「イスラム原理主義」といふ用例のやうに、蔑称であり相手を攻撃するために使われる他称として使はれていることに対して、この負のイメージが、具体的な実像を必ずしも反映していないことを指摘し、そもそもの「原理主義」についての「認識のズレ」を直視して、少しでも実像に近づくことにあるといふことであり、各論の具体的な議論の展開は極めて説得力に満ちており、概論として興味深い内容であるが、それについては本書の一読をお薦めするに留めたい。
 また、原理主義は一神教のみに見られる現象ではなく、例へばガンジーの「非暴力・非服従」運動も原理主義と見ることが出来ると指摘してゐる。そこで冒頭では仮に「原理主義」の理解を「近代化・世俗化に抵抗しつつ、それを超へる文明的な原理を掲げる、思想的、政治的な運動」としてゐる。
 しかし「原理主義」(fundamentalism)がアメリカのキリスト教史の中から生まれてきた言葉であり、元々は自称であつたものが他称として攻撃に用ひられるやうになる経緯は宗教史としても社會思想史としても興味深ひものがある。事ほど左様に、「原理主義」は「一神教」を巡り論じられることが多いのである。
 三つの一神教も、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教と外から見ただけでは判らない違ひがあるといふ。十把一絡的な議論では決して見へて来ない歴史的思想的社会的な背景の違ひがあるのである。そして、これは、この三つの一神教が共に殆ど身近に存在しない日本に於て最も見へ難いものであるといふ。
 「一神教」的な文化文明から「多神教」的な文化を見直そうといふ議論についても、それを内輪の議論でなく積極的に「一神教」世界の人々に説得力ある言葉で説いてゐる論者は無いのではないかと手厳しい指摘もなされている。(自分としては、必ずしもさうは思はないのであるが)

 前置きが長くなつたが、これほど知的な人々の書であり、「一神教」に対しての該博な知識とそれに基づく議論をしてゐながら、肝心の「日本」につひての理解が余りにも弱いのではないかと感じられる部分があつた。これは、決して特殊な傾向ではなく、現在の学問の世界にある雰囲気であるやうに感じるので、敢へて部外者でもあり門外漢でもありその任でもない自分としての感想を述べて見たくなつた次第である。



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