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2006年8月 7日 (月)

61年目の広島原爆の日に想う

 広島に原爆が投下されてから61年目を迎えた。
 暑い暑い一日だった。

 昭和21年8月6日、占領下において行われた行事がある。「平和祭」というものだ。占領軍の司令官クラスも出席し、マッカーサーのメッセージまで読まれたといわれる。それから60年目ということになる。

 この「平和祭」は、まさに「お祭り」で、今でいうフェスティバルに近かった。当然、遺族らの反感も強かったのだが、朝鮮戦争が勃発して、昭和24年第4回の平和祭は、反米集会に利用される危険性が察知され、直前に中止された。

 勿論、この頃には、今の平和公園もなく、どのように行われたのか偲ぶよすがもない。

 昭和24年という年は、象徴的な年で、「広島平和記念都市建設法」が国会で通過し、広島市民の住民投票を経て発効したのがこの年の8月6日だった。この法律には、「原爆」のげの字もなく、憲法前文にうたわれている「恒久平和」の文字が随所に踊るものではあるが、何故広島が平和記念都市として相応しいのかについての根拠は一切明文ではうたわれていない。原爆を投下した米軍を中心とする占領軍が日本政府の上に君臨していたのだから無理もないとはいえ、現在に至るまでそのままなのは腑に落ちない。

 ともあれ、この法律が制定されたおかげで、広島の復興にも弾みがついたことは間違いない。平和公園の構想もこの法律に基づいて出てきたものなのである。実は、今でこそ広島への原爆投下は、他の都市への空襲とは別格に扱われている観があるが、当時100箇所以上の全国の都市が空襲を受けている状況の中にあって、広島だけを特別扱いすることは出来ない、という国会内の雰囲気があった。また、先に述べたように占領軍への気兼ねは今では考えられないほど大きかったであろうことは容易に想像がつく。占領軍が敷いた検閲体制の中では、原爆投下に関する批判などは勿論タブーであり、原爆投下という事実が通常爆撃とは次元を異にする深刻な意味合いを持っていたことや、放射線による後遺症の苦悩についての理解も決して広く行き渡っていたわけではない。それらの言論の自由が回復されたのは昭和27年の講和独立以後のことである。

 慰霊という意味では、いわゆる原爆慰霊碑が、正式名称を「広島平和記念都市記念碑」であり、占領下の不整合さを引きずっていることに違和感を感ずる向きもある。「平和都市広島」というのは、法律によって定められたものであって、広島市が恣意的に僭称しているわけではないのだが、原爆投下から61年も経過し、独立回復からも半世紀以上経っているのだから、法律の明文にも「原爆投下」の4文字が入れられてしかるべきであろうし、慰霊の2文字が位置づけられても少しも不思議ではないと想う。

 そのような法改正を、広島選出の国会議員は、考えてみたことがあるのであろうか。

 勿論、その議論の過程では、いわゆる「原爆投下容認論」のような、日本が戦争をしたから原爆を落とされたのだ、式の自虐的な議論も出てくるだろう。一部教科書にも掲載されているこの説は、じわじわと勢力を伸ばしており、原爆の悲劇を語り継ぐ大きな障害になりつつあるようにも思われる。この際、徹底した議論を行い、歴史認識に関する議論を出尽くすまでやりきることも重要ではないかと思う。そしてその議論は、核兵器を巡る世界の趨勢に対し、国民の眼を開かせる契機にもなるだろう。

 フランスの議会が、20世紀を総括して徹底的に議論し、「共産主義黒書」を出したように、我が国も核兵器出現の意味を問い、核廃絶の可能性と、現実的な見通しの中で人類の未来への警告をまとめるような、壮大な知的貢献をなしては如何なものか。観念論や感傷論を一切排して、徹底したリアリズムを以て世界に論争の渦を巻き起こす位の気概があっても、罰は当たらないと思うのだが。

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