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2006年8月25日 (金)

「修身教授録」を読む~「人身享け難し」といふこと ~その4~

森先生は、更に生徒に分かりやすいように、具体的に如何に人間として生を得たことが稀有のことであるのかを生徒に自覚させるため、次のように注意を向けます。

「諸君試みに寄宿舎の庭に立つて諸君の周圍を飛翔匍匐する動物は暫く措くとしても、せめてそこらに見らるる植物の數だけでも数へてごらんなさい。恐らく諸君は正確にはその數を數へ得ないでありませう。けだしその數は諸君の幾十百倍あるか知れないからである。成程大樹の數となれば極めて少ないでせうが、もし雑草の一々を數へたとしたならば、恐らく全庭の植物の総數は本校生徒の幾十百倍をも超えることでありませう。沿んや更に動物をも勘定に入れて、その邊にゐるくも、みみず、あぶ、はへ、地蟲等迄數へたとしたならば、實に際限なきことでありませう。しかるにお互に今それ等動植物の一つとして生まれないで、此處に特に人間の一人として生まれ出たことに對して何人かその資格ありと言ひ得る者があるでせうか。牛馬犬猫蛇蛙、更にはうぢ蟲などに生まれなかつた事に對して、何か當然の理由乃至資格ありといひ得る者があるでせうか。洵に地上の生物の數は、人間のそれに比して如何程多いか實に測り難いことであります。しかもお互いにそれらの何れでもなくして、此處に人間として生まれ得た事が何ら我が力によらざる事に思ひ及べば、何人も、享け難き人身を享け得た事に對してしみじみと感謝の心が湧き出づる筈であります。」

この地上には、様々な生命体が満ち溢れています。そのなかには大樹もあれば雑草もある、馬や牛、犬や猫もいれば地蟲もいる。そうした動植物の数は、人間の何百倍にもなることは生徒にも容易に理解されます。そしてそのような動植物に生まれずに、人間として生を享けたこと、そこに当然の理由や資格があると断言できるものが生徒諸君、否人間のなかにいるであろうか、と。そして、人間として生まれ得たことに対してしみじみとした感謝の念を感じせしめるよう導いていきます。きめ細やかな指導であると思います。

しかして、「感謝の念」を持つことは中々難しいこととて、信仰薄い現代人の特性にも説き及びながら、人として生まれ得たことへの「感謝の念」の大切なことを生徒の心に刻み込んでいかれるのです。



「そもそも我々現代人は、自らが人身を享け得たことに對して深き感謝の念をもつものが甚だ少ないやうであります。昔は「人身享け難し」といふやうな言葉もあつて、人々はわが身が人間として生を此の世に享け得たことに對して衷心より感謝したもののやうであります。事實そのことは、この「人身享け難し」といふ一語のうちにこもつてゐると思ふのです。そもそも自己が此の世に人間として生を享け得たことに對して、感謝の念が無くなつたといふことは、つまりは自らの生活に對する眞劍さの薄らいで来た何よりの證據といへませう。實際我々は自己に與へられてゐる恩恵を當然と思つてゐる間は、決して十分にそれを生かすことは出来ないのであります。之れを「辱い」と思ひ、「元来與へられるべき資格もないのに與へられた」と思ふに至つて、初めて眞にそのものの意義を生かすことが出来るのです。自分は人間として生まるべき何らの功徳を積んだ者でもないのに、今牛馬犬猫となることを免れて此處に人身を享け得たことの辱さよ!この感慨あつてこそ、初めて人生も眞に厳粛なることを得るのでありませう。故に今諸君も、この「人身享け難し」といふ言葉をもつて単に過ぎ去つ昔の言葉と思つてはならぬ。我々現代人は、今や改めてこの言葉の示す深遠なる意義に對して敬虔なる態度にたち還つて、人生の眞の大道を歩み直さねばならぬと思ふのです。ではそこまで。」

感謝の念がなくなったということは、自らの生活に対する真剣さが薄らいだ証拠である、と断ずることによって、人間として生まれたことへの自覚、人生に真剣に取り組む心構えを生徒の心に打ち込まれます。人として生を享けたことへの感謝、そしてそれを無駄にしないために、人生の目的に向かって歩み出させる力強さ。修身という教科には、このような人生に臨む心構えを与える力があったことに、現在の教育に欠落したものを見る思いが致します。(了)


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