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2006年8月13日 (日)

「人身享け難し」といふこと その2

 修身教授録2に掲載されている森信三先生の言葉の続きを紹介していきたい。

 「斯様な次第でありますから、今諸君に対して斯くの如き人生の根本問題についてお話してみても、恐らくは諸君の充分なる共鳴は得られないかも知れません。この事は、よしさうだとしましても、我が身の過去を顧みて全く無理のないことと思ふのです。即ちかく言ふ私自身が、諸君の年頃にはかういふ人生の大問題に対しては、うかうかとぼんやりして過して来たからです。が然るにも拘らず私は、今此処に諸君と相見え、互いに修養の第一歩を踏み出さんとするにあたつては、諸君が之を受容ると否とにかかはらず、どうしても先づこの根本問題から出発せずにはゐられないのです。少なくとも現在の私としては、この問題から出発する以外に真の出発点は見出し難いのであります。」

 たたみかけるように、述べていく言葉には力がこもります。それは、「修養の第一歩を踏み出す」ために「どうしても先ずこの根本問題から出発せずにはいられ」ず、「この問題から出発する以外に真の出発点は見出し難い」からに他ならないからです。この出発点を確認し、次のステップへと生徒を導きます。

「けだし我々人間にとつては、その真の根本的修養といはれるものは、結局人として生をこの世に享け得た真意義を実現すること以外いはないからであります。即ち又真に生き甲斐あり生まれ甲斐ある生涯を送るといふこと以外にないからであります。然るにその為には、私共は何よりも先づこの自分自身といふものについて深く知らなければならぬ。換言すれば、我々はそもそも如何なる力によつてかくは人間としての生を享け得たのであるか、我々は先づ此の根本問題に対して、改めて深く思ひを致さなければならぬと思ふのであります。」

 「人として生をこの世に受け得た真意義を実現すること」が「真に生き甲斐あり、生まれ甲斐ある生涯を送るといふこと」であると、森信三先生は断言されます。
 何で生まれてきたのか、何のために生きるのか、生きていることの意味は何か、こうした問いから森先生は一歩踏み込んで、人間として生まれ得たのはなぜであるか、と詰め寄っていきます。

 「さて今日多くの人々は、自分が人間として生を此の世に享け得た事に対し、格別に有難いとも思はずに過してゐるやうであります。現にかく申す私自身にしましても、お恥ずかしい事ながら、この六七年前迄はやはりその一人だつたのであります。恐らく諸君にしても、先づ大体は同様でないかと思ふのです。」

 人は自分が人間として生まれ得たことに対して、感謝の念を持っていないという「事実」を指摘しています。当たり前と思ってゐるところに踏み込み、次のように続けられます。

「併しながら翻つて考ふるに、そもそも我々のうち、果たして何人が自分は人間として生まれるのが当然だと云ひ得るやうな、特別の権利と資格とを持つてゐるものがあるでせう。そもそも私どもは、その生れ出づる以前において決して人間として生まれむことを希望し、乃至はかくと決意して生れて来た訳ではないのであります。況んや人間として生まれ出づるに値ひするやうな努力功績を積んだが為めに、今日ここに人間としての生命を享け得たわけではありません。げに我々の此の世に生を享けるや、全く自己の関はり与らない事であつて、全く自己を超えた大いなる力に催し出されてのことであります。」

 人として生まれ得るに足る、何か特別の権利や資格があるのだろうか、功績があって人として生まれることができたのか、と畳み掛け、人間として生まれ得たことが、「全く自己を超えた大いなる力」によるものであるとしか考えられないことであると断言されます。
 人が生まれるのは、単にセックスの結果であって、偶然の産物である、などとする現在のいわゆる「科学的」(これは決して科学そのものではない)認識とはまったく月とすっぽんくらい違います。これは余談ですが。(続)

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