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2006年8月20日 (日)

「人身享け難し」といふこと ~その3~ 森信三先生、「修身教授録」より

さて、「修身教授録」の「人身享け難し」の紹介を始めて3回目となります。
授業の記録ということもあって、繰り返し「人身享け難し」という言葉を発し、生徒の心を発奮せしめながらしかも押し付けるようなところのない、見事な語り口であります。

「否ひとりそれのみでない。我々は此の世に生を享け得た後と雖(いえども)、相當永い間、自分が此の世に人間として生まれ出た事を気付くことなくして過し来たつたのであります。そもそも我々人間は、何人も厳密には自己の生年月日とその生誕の場所とを知らないのであります。かく申せば諸君は定めし私の此の言を怪しむでもありませう。併し乍ら、諸君の知れりとする自らの生年月日は、實は御両親より教へ聞かされた結果に外ならぬのであつて、我々は直接自己の生年月日乃至生誕の場所を知り得るものではありません。否それのみでない。恐らく諸君は自分のお尻に褓襁(おむつ)のついけられてゐた事さへ之を記憶してゐる人はないでせう。即ち我々人間は、ひとり自己の生年月日を知らないのみならず、更には褓襁のとれる年頃までも、自己の成長について殆んど何等知る處がないのであります。それ故私は常にこの事を以て、我々人間の根本的無知の一事例と考へてゐるのであります。かかる有様でありますから、諸君にしても今日生後二十ケ年に垂んとしつつしかも生を人間として享け得たことに対して、しみじみとその辱(かたじけな)さを感ずることが出来ないのである。否二十年どころか、うつかりすると私のやうに四十の声を聞くやうな年頃になる迄ついひに心の眼が開かれずして了るのであります。即ち我々人間は、うつかりすると我が子を持つ年頃に至つても尚且つ深くこの人生の根本問題に想ひ到らぬといふやうな愚かさにもなるのであります。」

人間は生まれ落ちたときにはまったく無力な存在です。両親の愛情に育てられ、ようやくものごころつくまでの記憶というものは、実は後々両親などから聞かされたことなのです。しかし、人として生まれ得たことの意義について無自覚であるならば、未だ赤子と同然ではないのか、と森先生は言われたいようです。

「處が私の考へでは、我々人間は、自分が此處に生を人間として享け得たことに對して多少なりとも感謝の念の起らない間は、未だに眞に人生を生きるものとは言ひ難いと思ふのです。それは丁度今食券を貰つたとしても、それと引換へに食物の貰へることを知らなければ、食券も単なる一片の紙片と違はないでありませう。即ちさうと知らなければ、或は人によつては之を捨てるかも知れず、又仮に捨てないとしても、之を食券として生かす事は出来ないでありませう。同様に今我々にしても、この人生そのものの眞意義を知らなければ、如何に人の形をして生まれはしても、眞に人間として生き甲斐ある生き方は出来ないでせう。しかも人生の意義を知るには、何よりも先づこの我が身自身が、今日ここに人間として生を與へられてゐる事に對して、感謝の念が起らねばならぬと思ふのです。然るに斯くの如き人身を享け得たことに對する感謝の念は、實は「人身享け難し」との深き感懐よりして初めて發し来るものと思ひます。」

ここで、森先生はズバリ指摘されます。人間は、自分が人間として生を享け得たことに対して感謝の念が起こらない間は、真に人生を生きることは出来ない、と。そして、卑近な例として食券を挙げます。たとえ食券を持っていても、その使い道を知らなければ唯の紙切れに過ぎない。人生もその意義を知らなければ、生き甲斐ある生き方は出来ない、と。そして、生き甲斐を知るには、先ず感謝の念が起こってくるほど自分が人間として生まれ得たことを自覚することだと。そして、それには、「人身享け難し」ということを深く感じることから来るのだと、述べられています。(続)


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