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2006年7月

2006年7月29日 (土)

ハンナ・アレント「革命について」読書中

 ハンナ・アレントを読み込もうと思っているが、さすがに小説を読み飛ばすようなわけにはいかず、表題の論文も2ヶ月以上も持ちまわりながら、まだところどころ拾い読みしている段階である。

 「革命」という政治現象は、近代以前には存在しなかったものであり、政治学の対象としても新しい部類に属するものだという。20世紀が「戦争と革命」の世紀であったことは、21世紀に入って歴史対象となって確定した史実になったようにも思われるが、「戦争」という人類最古の現象と、「革命」という新しい現象が並び称され、いわばセットになって進行してきた面も興味深い事柄である。

 「革命」とは何か、について意外と確定した定義を述べることは難しいのではなかろうか。

 アレントのこの著書では、二つの革命、即ち、フランス革命と、アメリカ独立革命を比較対照しながら議論を進めていくが、前者を失敗した革命、後者を成功した革命、と位置づけていることは面白いことである。

 この文章は雑談なので込み入った話は避けたいと思うが、フランス革命をいわば神話化して其の延長に位置するロシア革命とともに、近代の金字塔のように考える思考に、極めて深刻な奈落の底をのぞくような落とし穴があるのではないか、という認識は大切なもののように思われる。

 大体、唯物弁証法は、人間の精神の自由を原理的に認めることは出来ない。全ては歴史の必然として弁証法的に進歩発展するのであり、如何なる虐殺や悲惨な社会現象も、歴史の弁証法的発展のためには許されるどころか積極的に肯定されるという側面さえ存在する。

 革命思想とは何であるのか。保守主義は革命に対する警戒から生まれた思想であるといわれるが、革命思想の本質を的確に捉えることは、決して過去の課題ではなく、現代の課題でもあると思われる。

 歴史や伝統、文化を破壊しようとする動きは、近年の方が活発かつ巧妙になってきている。ぐうたら保守は、知らず知らずのうちに革命に加担しているという現象まで起ってきる。内心の自由など、革命派にとっては本質的な価値ではなく、戦略的に利用されるべき価値でしかない。やがて、左翼全体主義の社会体制を構築を許したが最後、内心の自由など全く存在を許されない社会が現出することになるのは、「革命思想」の本質を捉まえれば自明のことに過ぎない。

 「言論の自由」が戦略的な価値でしかないことは、左翼フェミニストたちが自ら明言しているところであって、日教組などが国旗国歌反対闘争の理論的装いに「内心の自由」を持ち出すのも戦略でしかない。彼らは、国旗を大切に思う心も、国歌に込められた国の祈りに感応する心も全く認めようとはしないのであるから、彼らが「内心の自由」を本質的価値として捉えているなどということは有り得ないことは、表面だけ見ても透けて見えることなのだ。

 アレントは、アメリカ独立革命を成功した革命と捉えている。では、「革命」とは何であるのか、その概念規定を明らかにしていくことは、自分の認識を確立するために重要な課題だと思われる。

 ちなみに、この間、近所の大型書店で、ハンナ・アレントのミニフェアをやっていたが、この「革命について」は其の中においていなかった。同じちくま学芸文庫の「人間の条件」は置いてあったので、意図的に排除されたのではないかと勘繰った。そうでなければ、不見識としかいいようがない。

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深読み

 富田メモ問題は相当に大きな反響を及ぼしているが、肝心のメモの実物は、日経新聞が買い上げてしまいこんでいるらしい。

 つまり、学問では決定的に重要な、原典に当たって検証するという作業が不可能になっているのである。そのような状況で、恣意的に選択されたごく一部分のみが、真偽を検証する術さえ奪われたまま垂れ流しにされるということになっているのである。

 これを謀略といわずして何としよう。

 その議論は多くされているが、もうひとつ裏面から見た落とし穴について、気付いた点を述べてみたい。

 言うまでもなく、靖国問題は国家の存立の根幹にかかわる問題である。そして、もうひとつ、更に上位に位置する我が国の原点ともいうべき問題は、皇室典範改定問題であった。

 皇室典範改定問題の際、政府要路から流れた謀略的な風説として「これは陛下のご意向である」というものがあったことは記憶に新しい。そして、その威力は政界を一時席巻したといっても過言ではない。

 その際、三笠宮寛仁親王殿下の深憂に発せられた言説が公表され、その際に某新聞などは殿下をご批判申し上げる言説を敢えてした。

 今回の、昭和天皇のご発言メモとされる富田メモについて、これを以ていわゆる靖国神社からA級戦犯の分祀を進めようという政治的意図を逞しくしている一連の人物たちがいるが、これに対して、それは「天皇の政治利用」そのものである、という批判の論陣が張られている。それは正当な議論だと思われるが、逆説的に、陛下のご意向であっても、それは「政治的に利用されてはならない」と逆手に取られて、皇室典範改定論議に対する男系維持の皇族方のご意向に対して「政治利用してはならない」などという形で議論を形成されることも起ってくるのではなかろうか。

 こうした、もって廻ったやり方で、保守陣営に論理矛盾や混乱を起させようとする意図が働いてはいないだろうか。また、議論させることによって、天皇のご存在と靖国神社を相互に誹謗する方向にはたらかせようという意図がないだろうか。

 現在の左翼勢力は、表面はソフトに、内面はよりいやらしく、本来の革命意図は隠して行動するという生態を示しているので、こうした以て廻った謀略に対して、保守陣営はよほど慎重にならねばならないのではなかろうか。

 表面に現れた現象面ばかりを追うのではなく、隠された意図を見抜く嗅覚を働かせる必要があるように思われる。そしてそれは、単純に疑うところに磨かれるものではなく、いわば「国柄」への信頼をより深めることによって磨かれるものと思う。

 今、最も問われているのは、昔風の言い方をすれば「国体への信」なのではなかろうか。

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2006年7月21日 (金)

靖国神社の社頭にて祈るということ

 学生時代、半年ほど毎週日曜日に靖国神社に参拝したことがある。あるプロジェクトを行うのにいわば願掛けのようなものだった。分不相応なことをやろうとするとどうしてもプレッシャーが大きくなるのは致し方ないことである。毎回参拝するまではかなりエネルギーが下がっているのだが、参拝するたびに何か内から湧き出てくるようなエネルギーを感じ、力を頂いたことを思い出す。

 靖国神社への勅使参向は春秋の例大祭に併せて行われる。一度、行き合わせたことがある。普段にもまして厳粛な雰囲気が社頭を覆うのだ。

 英霊は活きてはたらいておられる。目には見えないけれどもこの国を護り続けてくださっている。靖国のご社頭でこうべを垂れ、手を合わせて祈るとき、「~してください」というようなことは決してしない。「自分は至らないものではありますが、お国のために、精一杯尽くして参ります。」というように祈る。

 「君がため まことをつくす まめびとは 神もうれしと 助けまつらむ」

 明治天皇の御製であるが、このことが実感されるように思われるのだ。英霊を感じるときというのは、国のため、公のためにと必死になって何かに取り組んでいるときだ。のんべんだらりとしていて感じられるものではない。

 国の指導者に靖国神社に参拝して頂きたいというのは、何も戦没者の慰霊をというだけのことではない。国の指導者に国のために尽くす決意と覚悟を高めて頂きたいと願うが故に他ならない。

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2006年7月20日 (木)

いわゆるA級戦犯に関するメモ ~その背景について考える~

 昭和天皇のお言葉を記したメモが出てきた、というニュースが朝日、NHKなどで流れている。元宮内庁長官だった富田朝彦氏の家族が保管していたという。いわゆるA級戦犯合祀が昭和天皇が靖国神社にご親拝しなくなった原因だというものだが、この「説」自体は別に真新しいものではない。

 しかし、敵国から見れば犯罪者でも、我が国からすれば忠臣である、ということを東京裁判当時にお述べになられていた昭和天皇が、戦勝国が決め付けたA級戦犯という評価自体を是とされたとは思われない。

 また、メモがどのような経緯で残されたものか、時、場所、場面、立ち会った人など、史料として基本的な点が不明なので、史料としてどの程度価値のあるものなのかを判定することも現段階では出来ない。

 それにしても、効果としては、昭和天皇を利用して、首相の靖国神社参拝を牽制するという、天皇の政治利用そのものとなっている。当然、その政治効果を期待しての取り上げだと思われるが、これは皇室典範の有識者会議の際に、「陛下のご意向」論が流布されたのと構図としては同じである。

 メモそのものがどの程度の意味があるのかについての冷静な判定などそっちのけで、センセーショナルに取り上げるのは一種の洗脳効果を狙ったものと思われる。富田氏が故人であるから、詳細に渡る確認など出来るはずもなく、そのメモが 昭和天皇のご真意である、というように流布させて、それが定着していく、という筋書きなのだろう。

 松岡洋右や白鳥敏夫といった日独伊三国同盟の立役者らについて、昭和天皇が内心ご不快をお持ちであられたとしても、必ずしも不思議ではない。
 しかし、それとこれとは話が違う。では広田弘毅はどうなるのか、ということになる。話が出来すぎているように思えてならない。

 敗戦の汚辱を引き受けた形で復讐裁判の槍玉に挙げられたのがいわゆるA級戦犯である。国内法においても国際法においても犯罪者ではない。敵の復讐の楯となって亡くなった方々なのである。その一点において、戦死されたご英霊の方々に通ずる。英霊の祭祀は公のことである。その人物の歴史的役割の評価という問題とは自ずから別の面があると思う。

 これからも、昭和天皇のご真意を巡るさまざまなメモのようなものが出てくると思われる。しかしそれは、真贋も含め、きちんとした精査がなされて、歴史の問題として判定されるべき問題であって、生々しい政治問題の証拠書類のような扱いがなされるべきでは断じてない。

 昭和の歴史の評価が確定するには、まだまだ長い年月が必要だと思われる。旧ソ連関連史料が明らかになるにつれてまた新しい側面が明らかになりつつある。共産中国が崩壊した暁には、また驚くべき史料が出てくることも充分考えられる。敗戦という結果だけから見れば、当時の指導者層の責任を論うことなど幾らでもできる。しかし歴史の判定となると自ずから別になるのではなかろうか。また、歴史認識や解釈によって靖国神社に御祭りされているわけではない。あくまで護国の英霊としてである。靖国神社は、護国の英霊をお祭りする神社である。国のために尊い命を落とされた方々の御霊が御祭神である。明治天皇の思し召しで東京招魂社から靖国神社とされたお社である。このことは決して軽んぜられるべきではない。

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2006年7月19日 (水)

現代の鬼を生み出したもの

 秋田の児童殺人事件が連日報道されているが、実の娘を殺し、その友達だった男の子を殺すという、正に鬼の所業としか言いようのない事件である。

 実の母親がその娘を殺すなど、余りにも無残である。悲しい話でもある。ふと法華経の中にある「鬼子母神」の説話を思い出した。

 鬼子母神の説話は仏教の話である。美しい女神であり500人の子供の母親であった彼女は、子供を育てるために人間の子供を誘拐しては食べていた。歎き悲しんだ人々はお釈迦様に相談します。お釈迦様は一計を案じて、女神の末の子供をお隠しになりました。女神は子供がいないのを知ると世界の果てまでも探しましたが見つかりません。とうとう力尽き果ててお釈迦様に助けを求めます。
 お釈迦様は言います。「500人の子供の内、たった一人居なくなっただけで、おまえはこのように嘆き悲しみ私に助けを求めている。たった数人しかいない子供をおまえにさらわれた人間の親の悲しみはどれほどであっただろう。その気持ちがおまえにも今わかるのではないか」とさとされ、子供を返されました。
 それから、鬼子母神は、心を改められ、子供の守り神となりました。

(参照 吉祥寺・さどわら鬼子母神)

 自らの子をも食い殺してしまう現代の鬼母には、お釈迦様も如何ともしがたいであろうか。それともまた別の方便で救われるのだろうか。

 心の中に萌した鬼は、どのようにして母親の内心を食い荒らしていったのか。今はすべてが自分優先の社会である。二言目には権利、権利、権利。そして自由。権利を奪い、自由を束縛するものは「悪」なのだ。とすれば、親にとって子は「悪」そのものになるだろう。子にとって親は敵になるだろう。そのような関係が凄惨にならないほうがおかしい。しかし、現代を支配するイデオロギーは、このような関係を志向している。日常茶飯事のように殺し、殺されるという事件が報道される。異常が日常化してしまっている恐るべき時代が、今なのだ。

 人間の心には「鬼」が棲んでいる。しかし、「神」も棲んでいるのである。そのどちらがその人を支配するか。それがその人の人生を決める。そしてまた、国家、社会の歩みも決めて行くのだろう。「鬼」を助長する教育か、「神」を磨き出す教育か、その何れが求められているのだろうか。答えは明白だと思われるのだが。

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2006年7月16日 (日)

国連安保理、対北朝鮮決議!

国連安保理で北朝鮮に対する「非難決議」が全会一致で採択された。

 腰砕けになることなく、ここまでこぎつけた我が外務省を今回ばかりは誇らしく思う。

  中国、ロシアが拒否権をちらつかせ、我が国が提案した「制裁決議」案を牽制し、拘束力のない議長声明に留めさせようとしたことに対して毅然としてかつ冷静に対処してきたことは評価に値すると思われる。

 本来であれば、国連憲章第七章に基づく「制裁」が課され、これ以上、周辺国及び国際社会への脅威を与えないように押さえ込むことが最善であったことは間違いない。我が国の大島賢三国連大使は「第七章が決議文の中にあれば最善だった」と述べている通りであるが、北朝鮮の庇護者として直談判までしながら袖にされた中国や、建国の影の立役者だったソ連の後継国家であるロシアをもここまで巻き込んで、全会一致で決議した意義は大きい。

 北朝鮮の国連大使は決議後45分という最短記録で決議を全面拒否すると声明したが、断末魔の叫びにも似ている。ミサイル発射を今後も継続すると啖呵を切った訳だが、最早同国とそれに同調する韓国現政権に明日はない。

 ところで、在韓米軍が15箇所の基地の管理権を韓国側に返還するという記事が出ていた。現在火を噴いている中東よりも、朝鮮半島の方が格段に危険なのだ。

  「現代コリア」佐藤勝巳氏が今年1月に書いたコラム「緊迫する朝鮮半島」を読むと、犯罪国家のリヴァイアサンののたうちまわるさまが赤裸々に記述されている。
http://www.modern-korea.net/column/20060125.html

 米国上院に、北朝鮮関連法が提出された。北朝鮮に対し、ミサイルや核など大量破壊兵器の技術や物資移転などを推進した外国企業などに対し米国大統領が制裁を行うことを義務付ける法案である。http://www.asahi.com/international/update/0715/014.html

 北朝鮮への国際包囲網は着実に狭まっている。しかし、日本国内における北朝鮮を礼賛してきた日本人や在日組織はそのままである。この人々には、きっちりと「過去を清算」して欲しいものだ。


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