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2006年6月 8日 (木)

「日本はなぜ敗れるのか~敗因21か条~」について  その4 自由について

 第十二章「自由とは何を意味するのか」に、次の一文がある。

 「私自身は、その人がどんな”思想”をもとうともその人の自由だと思うが、ただもし許されないことがあるなら、自己も信じない虚構を口にして、虚構の世界をつくりあげ、人びとにそれを強制することであると思う。」(307頁)

 この光景は、現在も、日常的に溢れかえっているもののようにも思われる。「自己も信じない虚構」を作り上げ、それを絶対化して「人びとに対して強制する」とは、強烈なニヒリズムである。


 つくる会内紛(といっても、既につくる会を出た方が主体なので「つくる会」に発した紛争とでも言い換えた方がよいのかも知れないが)の主体であるN・S氏とF・N氏とN・H氏の3名の論者のブログを対比しつつ傍観していると、上記の「許されないこと」をしている可能性のある人物がいる。ポイントは、「自己も信じない虚構」という点だが、これは「政治的な謀略」であれば正当化できるものだろうか。三者ともいわゆる「政治家」ではない。むしろ学問の場に身をおく人々である。よって「政治的な謀略」であった場合、少なくとも学問の場に身をおくこと自体を否定されねばならないだろう。と、極論を言ってみても始まらない。

 山本氏は次のように続けている。

 「ただ明治以来、「或る力」に拘束され、これを「明言」しないことが当然視されてきた。いわば自分のもつ本当の基準は口にしてはならず、みな、心にもない虚構しか口にしない。これは実に、戦前・戦後を通じている原則である。」(308頁)

 実感に基づかない”思考”、いや”思考停止”が、実に日本人全体に及んでいたというのである。この少し前に次のように書かれている。

 「この状態―すなわち、ある力で「日常性という現実を意識させないこと」が逆に一つの通常性になっているため、自分が本当に生きている「場」を把握できなくなっている状態、これが日本を敗戦に導いた一番大きな原因であろう。簡単にいえば、自分の実態を意識的に再把握していないから、「初めから無理な戦い」が出来るわけである。」(301頁)

 「なぜ、日常性に依拠した思考体系が成り立たなかったのか。なぜ、自らの日常性を一つの思想体系として構成してみて、そこの中の非合理性を追求してこれを排除し、ついでその体系を社会にあてはめて改革し、またそれを基にして体系を立てるという作業ができなかったか。」(301頁)

 山本氏は、「西南の役」についての当時の新聞記述なども取り上げてその虚構性を突いているので、「明治以来」と述べているわけだが、「大東亜戦争」の開戦の無謀さと、「日清戦争」「日露戦争」の開戦の無謀さは一体どちらが無謀であるか、比べる訳にはいかないのではないか。新聞はヤンヤヤンヤと無責任なことを書き連ね、それは戦後も一貫して変らなかったというだけのことではないのか。

 明治には「リアリズム」は決して地を払っていたわけではない。明治の指導者は、日本という国の脆弱さを嫌というほど知り、それを克服するために心血を注いだのではないのか。

 「大正」という時代が鍵である、と思う。

 しかし、どうであろうか。「ベルツの日記」には、明治日本の学生が「日本に歴史はありません、これから歴史がはじまるのです」と、明治以前の歴史を切って捨てた発言をしたことを記録している。根は、明治に胚胎し、大正に大きく根を伸ばし、昭和に到って国を覆い尽くすに到った、とは言えまいか。

 「われわれは常に再構成された過去の虚像」の支配をうけ、その「力」に従うことを強要される。これが「日本人を貫いている或る何かの力」の表れであり、その力が「軍人にこうした組織や行動をとらしめている」如くに、マスコミにも一般の指導者にもそうした行動を「とらしめて」おり、それに基づいて再構成された情報しかうけとれない形にされることによって、日本人全部を統制してしまう。従って、太平洋戦争的発想が戦後にさまざまな面に表れて来ても、そのこと自体は少しも不思議ではない。」(302~303頁)

 注意してよいのは、戦前戦中に「軍国主義」や「愛国主義」を鼓吹した人物と同じ人物が、戦後直ぐに、あるいは暫くして「民主主義」や「平和主義」を鼓吹して、同じようにそれにその「主義」に同調しないものを「非国民」呼ばわりしたことである。

 その時代の風潮の中で、絶対化された「主義」を鼓吹すること、これほど容易いことはない。そしてそれに基づいて他人を批判すること、これも容易い業であろう。その人々にとっては、「主義」を鼓吹することは身の安全のためでさえあり、かつまた正義感も満たされることになる。「正しいこと」をしているのだから当然である。

 そして、この傾向は、知識人であればあるほど、積極的に陥るように思われる。ある新聞社の記事掲載に関する基準について聞いた話であるが、北朝鮮と同和関係の記事は、例えそれが重要なニュースであっても掲載されないケースが多い、というものである。現在では幾分は違ってきているだろうが、マスコミ総てが「北朝鮮」を「朝鮮民主主義人民共和国」と言い直していた時期は決して遠い昔のことではない。

 「さまざまなことがいえる。そしてその基本にあるものの一つが、以上にのべた明治以降の奇妙な「通常性を把握しないことを通常性」とする性向、いわば、ある力に拘束されて自己の真の規範を口にできず、結局は、自分も含めてすべての人を苦しめる「虚構の自己」を主張することが通常性になっているためと仮定するなら、その拘束力を排除できなかったのは何のゆえで、何が欠如してそうなり、何を回復すればそれが克服できるのであろうか?」(309頁)

 この問いかけに対する、山本氏の回答は、「自由」であった。

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