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2006年6月 6日 (火)

こんな事を考えてると頭が痛くなるなあ

順番に書いていく義務もないので、思いつくままにざっくばらんに書いてみたい。

6月に入った。今年も折り返し地点にまで来てしまったのかと、愕然となる。

色々な事があって、考えるべきこと、行動すべきこと、配慮すべきこと、諦めるべきこと、こだわるべきこと、などなど、さまざま、もろもろ。

「光陰矢の如し」  実感である。

「少年老い易く、学成り難し」  誠に尤もである。

うろ覚えだが、秋山実之は晩年に到るまで、自分一個の怠りは、帝国の怠りとなる、といい、孜々として努めておられたという。日米戦を予見した秋山参謀が存命ならば、また大東亜戦争への道も又違う道が拓けたかもしれないなどとふと思う。

  松下村塾に掲げられていたという「聯」

万巻の書を読むに非ざるよりは いずくんぞ千秋の人足るを得ん。

一己の労を軽んずるに非ざるよりは いずくんぞ兆民の安きを致すを得ん。

 意味は難しいことはないが、実践は容易ではない。特に2連の「一己の労を軽んず」ということは、無私の精神がなくては中々難しい。

 「無私の精神」と「個人主義」は対立するか?

 「無私の精神」とは、単なる自己放棄であり、盲目的追従に繋がるものなのだろうか?

 「個人主義」とは何か。インディビジュアリズムの訳語である。これ以上分割することが不可能な社会の最小の構成単位として「個人」を見出した言葉である。現実の人間は、総ての他から自立して、「個」として存在するなどということは不可能である。国家があり、社会があり、他者がいるから、自分の「個」としての存在も維持出来るのである。

 「無私の精神」は、「個人主義」と矛盾しない。というよりも、「個」としての自己を深く内省していく中で、「個」が「個」としては存在し得ないという「事実」に逢着し、「個」を生かすことと「全体」を生かすことが一致するという結論に達するのである。しかし、「全体」を生かすために「個」が犠牲にならなくてはならない場合、真の「個人主義」者は、「無私の精神」を発揮して、全体の為に「個」を犠牲にすることが出来るのである。

 以上、ひとつの論理として書いてみた。しかし、上記の論理には、陥穽がある。「全体を生かすために個が犠牲にならなくてはならない」という判断を誰がするか、という問題である。これが他者から来ると「全体主義」的な恐怖となるのではなかろうか。この判断は、自己でなさねばならない。

 あらゆる正義が、「個」の犠牲を正当化するイデオロギーに転化する可能性を秘める。

 では、自分で選んだように仕向ける、とする。これを「洗脳」と呼ぶか?

 何が「真」であり、何が「偽」か。

 「自由」という言葉がある。「フリーダム」と「リバティ」の二つの英語がある。それぞれの意味の吟味も興味深いが、「自由」という言葉そのものの意味はどうだろうか?

 自らに由る、と読める。自分自身に判断の基準を置く、ということ、これが「自由」の意味なのだろうか。

 自分とは何か。

 結局、ここに収斂されてくる。

 すると、何のことはない。古代ギリシャのアポロン神殿に刻まれていたというあの箴言に要約されることになるだろう。

 「汝自身を知れ」

 「個人主義」も「無私の精神」も、この問いの答えを自らに見つけようとするところから始まる営為なのに違いない。

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