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2006年4月11日 (火)

「日中戦争」とはいかなる戦争であったのか~児島襄氏の”問題提起”~

 近現代史の歴史小説作家であった氏は、徹底して史料を調べて「歴史」を書いた人物である。「日中戦争」の巻末に上げる「参考文献」に目を通すことさえ、素人にはとても不可能なほど膨大であり、また日本側の史料だけでなく、中国、台湾の中国語史料、アメリカの英文史料などもふんだんに活用されているのだ。

 この労作は、読み進むことも結構骨が折れる。なぜ、これほど綿密に調べ上げ、「日中戦争」という20世紀前半のエポックを浮かび上がらせる困難な作業を行ったのか、ひとつの動機とも取れるエピソードが「あとがき」につづられている。

 「昭和19年秋、第一高等学校生徒であった私は、寮生コンパの席で、中華民国政府派遣の留学生の発言に胸をうたれた。」

 早速注が必要かもしれない。「中華民国政府」とは、当時南京にあった汪兆銘の政府のことである。

 「彼は、自分たちは来春に卒業したら南京には帰らない。重慶の蒋介石政府に参加する、といい、次のように述べたのである。
 「そして、長い日本との戦争に参加します。それが中国国民としての誇りであり義務だと思うからです。いずれ戦場で出会ったら、同じ一高生として正々堂々と戦いましょう」
 私たちは拍手し、「頑張れ」と叫び、彼らと握手をくり返した。
 が、そのときも、私には彼がいう「長い日本との戦争」の意味は分からなかった。「太平洋戦争」の勃発とともに、中国で正統視される蒋介石政府は対日宣戦した。彼ら留学生が日本の傀儡とみなされる南京政府に背をむけるのも、戦意を表明するのも、国民として当然の心情だと理解したにとどまる。」

 当時、中国には3つの政府があった。ひとつは蒋介石率いる重慶の国民党政府、そこから分離し日本と条約を結び同盟関係となった汪兆銘率いる南京の国民党政府、そして毛沢東らの率いる延安の共産党政府である。他に、満州国政府を挙げてもよいかもしれないが、中国の政府ではそもそもない。そして、ここにいたるまでの中国大陸の内戦状態、軍閥割拠の時代が清朝倒壊から延々と続いていたことを改めて確認しておくことも無駄ではないだろう。

 それにしても、中国の留学生と、日本の学生のこの付き合いの爽やかさは、心にとどめておきたいものだ。愛国心の発露として日本と戦うと言う中国の留学生と、それに感銘して激励し、正々堂々と戦おう、と述べ合う、まるでスポーツマンシップのようだが、戦場を知らない世間知らずの学生の戯言と言ってしまえばそれまでだが、そこに溢れる真情は、今語られるような憎悪と憎悪がぶつかる非人間的な戦争の時代のイメージとはかけはなれていることにも注意が必要に思われる。

 

 「しかし、戦後になって私の認識も変化せざるを得なかった。疑問に誘われた。
 『東京裁判』では、「満州事変」「支那事変」が日本の中国大陸支配をめざす計画的侵略戦争である旨の「立証」がこころみられ、「南京虐殺」その他の非道行為も語られた。
 では、「日中戦争」とは、ほかには動機も理由もなく、ひたすらに領土を求めて、「邪悪なる強者」日本が「聖なる弱者」中国に襲いかかっただけなのか。
 赤い夕陽、果てしない大地、黙々と鍬をふるう開拓民・・・・・・というのが、終戦まで私たちが抱いていた満州のイメージである。この人たちも飢狼のような侵略者であったのか。」

 いわゆる東京裁判史観といわれるものは、この極東国際軍事裁判によって証明されたものである、というよりも、証明しようとした検察側の主張そのものであると言った方が正確かもしれない。なぜなら、判決では明らかに排除された事柄までもがいわゆる東京裁判史観では日本の犯罪として断罪されているからである。

 「赤い夕陽の満州」という、引揚者の手記を集めた本を読んだことがあるが、昭和40年代に生まれた自分にとっては、「満州」が日本と結びつくまで、相当な時間が必要なほど、遠い時代の出来事だったことを記憶する。大陸に日本人が開拓民として出かけていったということも、途方も無い非現実的な夢のようなことに思われて、そうした歴史があったこと自体が腑に落ちるには相当な時間が必要だった。日本とアメリカが戦ったことを知らないいまどきの若者を笑うことはできない。

 歴史を知るということは、知識としてではなく、今の日本につながり、自分につながってくるものとして知るためには、想像力も必要であり、共感する力も必要であり、何よりも謙虚さがなければならないだろう、と思う。なぜなら、前提として何も知らないのだから。そして、知っていると思っていることもよく考えれば、時代風潮の中でただなんとなく耳に入ってきたものを無批判に受け入れていたものである場合が多いのだから。本当に知るためには、一度、しっかりと吟味して正誤を確かめなければならないはずであり、それには先入観や決め付けは邪魔でしかないはずだからだ。しかし、いわゆる歴史認識を声高に主張する人々は、まずはじめに謝罪ありき、というスタンスで居丈高に語るスタイルをやめない。おかげで、彼らを嫌う人々は確実に増えつつあるのだが・・・。

 続けて児島氏は幾つもの疑問を投げかける。

 「「日中戦争」では、日本は五十万余人の戦死者を数え、戦いの様相は泥沼と形容される。では、連戦連勝といわれていた当時の戦いの実体はどうであったのか。その損害は残虐行為の代償でしかなかったのか。」

 「中華民国総統蒋介石は、「支那事変」がはじまると「日中戦争」が第二次世界大戦に組み込まれて日本が敗北することを予見し、長期戦を計画し、指導した、と、日誌に記述している。では、戦争の計画性はむしろ中国側にあったのではないか。」

 「また、中華人民共和国の「抗日戦史」には、終始して「日中戦争」の主役をつとめた蒋介石軍にはほとんど触れられていない。それでは、私たちが拍手したあの留学生たちの青春を捧げた献身の覚悟は歴史から抹消されたのか。なぜ?」

 これらの疑問に率直にこたえられる政治家も評論家・学者先生も決して多くはないだろう。しかし、これらの疑問は、児島氏のいわば真率の表白でもあり、また戦後の日本人が問わなければならなかった問いでもあるのだと思われる。「日中戦争」はこの疑問を解くために書かれたのであろうけれども、書き終えて結局はこの疑問に戻らざるを得なかった、というのがこの「あとがき」の示すところなのだろうと思われる。

 「「日中戦争」が日本の歩みの歪みの起点であり、歪みそのものであることもいうまでもない。
 だが、「日中戦争」は以上に述べたほかにも中国共産党の役割もふくめて疑問点が多く、世界の戦争史の中でも複雑な特質を持つ。その意味で、「日中戦争」は、その背景、誘因、経緯のいずれについても、たんに乾いた断罪にとどまることなく、相互に冷静で綿密な実証的検討が必要になる。
 それがなければ、日本も中国も、その体質内にひそむ脆弱点を摘出することができず、反省と教訓を汲みとることもできないはずだからである。」

 ここに述べられたような歴史の検証が日中共同事業として取り組まれる日がいつ訪れるのかは別として、少なくとも自由主義の体制の国であり、歴史の真実の追求が唯一可能な政治体制にある日本が、せめてその準備を進めなければならないし、それがこの国の学者の使命でもあるのだろう。しかし、この国の学界はどこまでその負託に応えているのだろうか。昨今の教科書騒動を見ても、暗然たらざるを得ない。「学問の自由」があるはずのこの国の大学のレベル低下が言われて久しいが、歴史学界の知的退廃の度の深刻さと無縁でないかも知れない。司馬遼太郎氏の存在といい、平安前期に正史の伝統が途絶えたわが国では、歴史記述は民間の歴史小説家の役割なのであろうか。少なくとも「歴史学界」が左派に牛耳られてきた戦後という時代は、戦前以上に学問的不自由の時代であった、(ある?)ことは間違いなさそうである。

 この率直な児島氏の「あとがき」は、後世の学徒に対する遺言のような気がしてならない。歴史は、プロパガンダによって歪められることはあるが、時間と、真率な学者の手によって、その真の姿を現す日がいつかは来ることもあるのだ。江戸時代の学者は「大日本史恐ろしく候」と言ったというが、戦後の学者にはこのような謙虚さはどこにもなかった。しかし、それも下卑た敗戦後遺症の一部なのだろう。

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