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2006年4月

2006年4月30日 (日)

米大統領の心を動かした、横田早紀江さんの手紙 ~ささやかな応援~

横田早紀江さんと弟の拓也さんが米ブッシュ大統領に面会し、拉致被害者の救出への支援を訴え、大統領の心を動かした。

「私たちには時間がない」という横田さんのためにも、一刻も早く、全ての拉致被害者の救出を求め、経済制裁をはじめありとあらゆる手段で北朝鮮に迫るよう、我が国の政府にも求めたい。

米下院公聴会での証言と、米ブッシュ大統領に宛てた横田早紀江さんの手紙の全文を、新聞記事を元に、アップしておきたい。ニュース報道だけでなく、米下院そして米大統領の心を動かした、横田さんの言葉をかみしめたいと思うからである。

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2006年4月28日 (金)

お留守になって・・・

 はじめての?遠征に出て自分のところがお留守になってしまいました。

 世の中、空しくも悲しいことがあるものです。他人事とも思えないで口出ししてしまいましたが、空しいです。

 ある人が、人生における問題の7割は人間関係だ、といわれたことがあります。至言だと思いました。

 知って犯す罪と知らずに犯す罪はどちらが重いか。

 知らずに犯す方が深入りする分思いのですよね。「殺してはいけない」という言葉を知らないかのように、簡単に人を殺す事件が後を絶たないのは、この一言が脳裏に刻まれていないがためでしょう。仏教でもキリスト教でもよいのですよ。「不殺生」「汝殺す勿れ」なんてフレーズが頭の片隅にでもあれば、歯止めにもなるでしょうに。

 宗教的情操教育が重要なのは、こうした点にも言えるのであって、無神論の怖さはドストエフスキーが予言した「神がいなければ何でも許される」という人間性の暗部をのぞかせるものだからでもある。

 大体、特定宗教の戒律が、どこまで守られているのか、ということは、その宗教内の問題であって、それが説かれている、という一事が、どれほど社会に安心感をもたらすだろうか。

 教育基本法改正与党案の問題点について、今日の産経新聞に意見広告が出ていたが、日本のほとんど全ての宗教団体の念願にもかかわらず、「宗教的情操教育」の一項が消えているという。まさか、ただ一つの宗教団体のためではなかろうと思うが、昨今の状況を見ても、「宗教的情操教育」の復活は急務であろうに。

 韓国の騒動に絡んで思い出したのは、6年前、大久保駅で、線路に落ちた人を助けようと列車が来るのもかまわずに飛び込んで助けて命を落とした李秀賢さんのことである。「身を殺して仁をなす」とは論語の言葉だが、韓国の儒教精神の最も崇高な発露である。日本人として、一人の人間として、彼に感謝の心を忘れてはならないと思っている。

 戦争中であっても、国同士の戦いはそれとして、友情を確かめ合うことも出来た。今は、国同士は国交を結んでいても、友情を確かめ合うすべもない。竹島を巡る韓国の狂乱を見つつ、しかし、韓国人の中には、あの李さんのような偉大な青年がいたことをも、忘れてはならないと思ったのである。たまたま写真を見る機会を得た。本当にいい顔をした方だった。顔から受ける全体のなんともいえない明るくて、柔和で、落ち着きがある、賢者の顔をされていた。なるほど、この方は、正に神様仏様の化身であったのだ、と合点がいった。

 人間は、神にも悪魔にもなれる存在なのだ、と改めて思う。選ぶのは結局は自分自身に他ならないのである。

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2006年4月23日 (日)

張作霖爆殺事件とは何であったか

 小林秀雄氏が「歴史と文学」の中で触れたサア・ウォルター・ロオの逸話を引き合いに出して語った言葉で「一体、歴史事実の客観的な確定といふものは、極く詰まらぬ事実の確定でも驚くほど困難なものだ」ということは、よく吟味しなおしてみる必要があるように思われる。小林氏は「もっと上等な歴史事実になると、万人が等しく承諾するといふわけにいかない、種々様々の解釈堪へるからです」とも述べている。

 張作霖爆殺事件は、「満州某重大事件」として同時代の人々には”真相”は隠蔽されていた、というのが普通である。そして、その”真相”とは、関東軍参謀の河本大作大佐が、ということである。これは、もはや動かしがたい歴史事実である、とされてきた。

 ところが、「正論」平成18年4月号に、「「張作霖爆殺はソ連の謀略」と断言するこれだけの根拠」という一文が掲載された。ロシアの歴史家、ドミトリー・プロホロフへのインタビュー記事である。

 正直、この時期については、事実関係が入り乱れており、自分の勉強不足と能力不足により、簡単に記述することが難しい。当時の中国大陸が、軍閥割拠の戦国時代であり、尚且つ、欧米列強、ソ連を司令塔とする国際共産主義勢力、そして日本が権益確保を巡って入り乱れての政戦略の駆け引きと謀略の渦の巷であった。

 張作霖爆殺事件は、日本の満州支配=中国”侵略”の起点として位置づけられることでもあり、この事件の真相が、関東軍の謀略なのか、ソ連特務機関の謀略なのかは、歴史の真相に迫る上で大きな分かれ目になる。特務機関の任務内容が明らかになることは殆どなく、現在の認識がそう簡単に覆るとは思われない。

 しかしながら、一つだけいえることは、この張作霖爆殺事件の関東軍謀略説の成立過程には、ソ連の影が色濃くあるということだ。東京裁判で証言をした田中隆吉はソ連国家保安省に取り込まれていた。また、河本大作の手記なるものが公表されたのも死後のことである。また、事件当初から、日本には張作霖を暗殺して得られる利益が無いこと、つまり動機不在であることがアメリカの中国駐在公使のジョン・マクマリーにも指摘されている。東京裁判では、パル判事が、検察側の主張を退け疑問を呈していることもあげてよいかもしれない。

 「すでにまえに触れておいたように、リットン委員会は「この殺害事件の責任の所在はいまだかつて確定されたことがない」と報告している。その報告がなされるまでは、この悲劇は神秘の幕に被われていたが、右の報告は日本がそれに共謀関係を持っていたのではあるまいかという疑念を起こさせたのである。/さて、この疑念に関して留意すべきことは、張作霖は怨み深くそして強力な敵をもつという点については不自由したことがなく、日本にしても、またいわゆる策謀者らにしても、かれの壊滅によって利益を被る立場になかったということである。」
 「かようにして日本は張作霖の死亡によってなんらうるところなく、またかれの死亡後に起こった事柄には、日本側の企図の存在を示すようなものはなにもなかったのである。」(パル判決書第4部全面的共同謀議より)

 日本の年号で言えば大正から昭和にかけて、西暦で言えば1920年代から30年代にかけて、いわゆる第1次大戦終結から第2次大戦にかけての戦間期の国際政治の全体像の中で、中国大陸を巡って展開された謀略合戦の鳥瞰図がほしいところである。クリストファーソンの「満州事変とは何だったのか」は未読ではあるが、このあたりについて教えてくれるところがあるのではないかと、期待しているところだ。

 「中国への侵略」という「歴史認識」は、現在の日本の進路に色濃く暗い影を投げかけている。中国が殊更に持ち出す「A級戦犯」と「靖国」も、結局は、この歴史認識の所産である。なぜなら、「A級戦犯」とは東京裁判によって、中国大陸への侵略をはじめとする共同謀議をしたということで「平和に対する罪」という新しく創設された名目によって裁かれたことによるからである。

 歴史認識の歪みが現在の政治・外交を歪めている最大の例である。

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2006年4月22日 (土)

「あたまことば」と「こころことば」そして、愛国心教育

 むかし、日本の文化や伝統について勉強を始めたころ、気をつけなければならないと、よく先輩方が言われていたことが、この「あたまことば」と「こころことば」の違いについてだった。

 「あたまことば」とは、簡単に言えば理屈のことだといえよう。頭の中で理屈を捏ね回して観念の遊戯をする。その論理が如何に精緻であっても、そのようなものでものごとの本質は捉えることは出来ない。

 「こころことば」とは、実感に即した言葉、「切れば血の出るような」言葉である。腹のそこからの言葉、心のそこからの言葉、定義すること自体が難しいが、理論理屈のことではない。歎異抄で親鸞が法然上人に騙されて地獄に堕ちてもよい、と言い切ったような、言葉だ。

 保守VS革新という構図が意味を成さなくなり、今や世を挙げての「革新」の時代である。

 「おやっ」と思う人もあるかもしれないが、小泉内閣のスローガンを見れば「改革を止めるな」であるし、今や、古きよき日本を守れ、という政治勢力は消滅したといってよい。その意味で戦後60年が経過して、ついに日本は革命派が天下を取ったのである。

 勿論、「革新的保守」というカテゴリーも考えることが出来るし、米英流の保守主義思想には学ぶべき点が多々あることも事実である。

 しかし、肝心の「日本」そのものに依拠した政治勢力がなくなったということは、何と表現したらよいのか、奈落の暗闇を覗き込むような恐ろしさがある。

 「保守」を標榜する人々の中にも、「共和派」がいる。それは、自民党内に伏在していた、アメリカ主義者たちである。この人々は反共ではあったかもしれないが、尊皇ではなかった。

 あたまだけで考える人々は、その内容が保守的言論であろうと左派的言論であろうと、「革命派」であることに違いはない。あたまで理解しようとしたって、「天皇」はわかりっこないのだ。

 教育基本法改正法案の与党協議で、愛国心が排除され、国を愛する「態度」を養うのだという。「心」はどうでもよいというのが透けて見える。しみじみとした情感は既に枯れ果てているのだ。これが、戦後政治のなれの果てかと思うと、日本人が戦後「心」を失ってきた総決算を見るようである。

 国を憎む人々は、「良心の自由」をたてに、愛国心を否定する。愛国心を押し付けるな、という。その論理は公明党も一緒なのだが、彼らの「心」とは、国を憎むところに存在するのであって、国を憎む心の自由を国に保障しろといっているのだ。そして、教育の中では国をバカにし、ないがしろにし、憎悪する心を助長することは野放しになっている。「愛国心」を養う自由は完全に抑圧されているのだ。

 特に反日イデオロギーに凝り固まった人でなくても、「愛国心」など教育で押し付けるべきではない、としたり顔をする人もいる。自分が所属しているカテゴリーに対する親近感というものはそれなりに自然と芽生えるものではあるだろう。しかしそれを深め、意義付け、正しく導くということは、野放図にして育つものではない。
 敗戦後、アメリカという国は知っていても、日本という国の名すら知らない子供たちがいたことを、平泉澄博士は書き残している。その子供たちに日本の国の歴史の話をしたときのエピソードは、涙なくしては読めないものがある。亡国の教育を施しつづけて60年。日本はようやく本当に国を失おうとしている。

 「国はどこにあるのか」

 乃木大将が、学習院院長をされていた晩年、生徒たちに質問した。「心の中にあるのだよ」と院長先生はやさしくさとされたという。同じことを、森信三先生も書き残している。「国は心の中にある」その国を豊かにする教育を、今の言葉で言えば愛国心教育となるのではなかろうか。

 今、心の中に、「日本」を持っている人がどれだけいるだろうか。「日本」という国号を耳にして「日本」が心の中に躍動する人々は、まだまだ多いに違いない。しかし、なぜ躍動するのだろうか。「日本」とは何か。どんな国なのか。それを明快に語れる人は少ない。ましてやしみじみと語れる人をや。心の中で、「日本」が滅びはじめている。そして、心の中から「日本」がなくなる日こそ、日本という国がなくなる日なのだ。あとには、元日本人であった人々の子孫の形骸だけが残り、その中身はアメリカ文明か、朝鮮か、中国か、何れにせよそれらの亜流にしかならないだろう。

 「日本」とは何か。教えられないならまだしも、「日本」という言葉の内実が実に貶められている昨今である。

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2006年4月18日 (火)

「変り続けるのは過去なのです・・・」

 「ラディカル・ヒストリー」(山内昌之)の冒頭に引用されたロシアの歴史学者のことばの一部です。

 このことばは、あえて常識に逆らって奇をてらったことばではなく、真実のありかを示しているのではないかと思われます。

 張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略だというのが、戦後の定説だと思います。これは戦前からあった見方ではあるが定説として言われるようになったのはやはり戦後なわけです。

 ところが、最近、この定説が崩れつつあるようです。「正論」に最近掲載された論文では、ソビエトの謀略機関の仕事であったと論証しています。

 また、今日の産経新聞に、蒋介石の日記に、張学良が国民党への合流を宣言した1928年12月よりも1年5ヶ月前に既に国民党への入党を申し入れていたことが判明したとありました。

 極めて膨大なジクゾーバズルのほんの幾つかのピースが見つかったに過ぎないのかもしれないが、これまでのピースの組み方を一変させてしまう可能性があるのではないかと思われるのです。

 昔、講談社学術文庫の「パル判決書」を読んだとき、この張作霖爆殺事件について、パル判事が、関東軍の謀略との主張に対し強く疑義を呈していたことをふと思い出した。あの時点では、関東軍謀略は疑わしい一つの解釈に過ぎなかったわけだ。

 戦後、いつの間にか、これが定説になっていったわけだが、この認識の定着した過程をきちっと論証できれば、あるいはまた別の真実が見えてくるかも知れません。

 過去は変り続ける。それは、人間が現在に常に制約される存在であり続ける限り、そうなのでしょう。

 未来は、未だ来たっていないのだ。変わりようはない。それをつくるのが、自分たちの努力次第だと考えるのが自由主義で、歴史の必然と考えたのが革命主義の信仰だったわけだ。今ある現在の我々の制約、それを抜け出すことの出来た人間にだけ、歴史は少しだけ、その真の姿を見せてくれるのかも知れません。

以下、産経新聞 4月17日 一面から引用

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2006年4月16日 (日)

アクセスカウンターをつけました!

これまでつけていませんでしたが、今日現在で12624です。(操作画面では見ることができます)

気休め、自己満足、何と言われてもよいです(^^)。。。

固いことばっかり書きますが、お許しくださいませ。

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皇室典範の勉強会はやはり危ない

教育基本法改正問題が山場を迎える間隙を突いて、皇室典範改悪派=皇統断絶を策謀する連中が巻き返しを図っている。

旧宮家の皇籍復帰の特別法を提唱した小堀氏に対して、反論を浴びせかけた。顔ぶれは分からないが、隙を突いて既成事実を積み上げる策謀の一環であると思われる。

それにしても、伏見宮系統の旧宮家を、600年前の後伏見天皇から分かれた余りにも遠い家系であるという認識は胡散臭い詭弁のにおいが付きまとっている。このことを保守派が指摘しないのはおかしい。

男系こそが皇位の正統性の原理であるということから、女系導入派の詭弁が見えなくなっているのではないか。

明治天皇の皇女四方の嫁ぎ先が、伏見宮家から分かれた竹田宮家、北白川宮家、朝香宮家、東久邇宮家の四家であり、敗戦後、臣籍降下を余儀なくされた旧宮家とは、明治天皇の皇女の子孫であらせられることになる。もし、女系を男系と平等と観るならば、旧宮家が皇籍復帰してもきわめて近い間柄であり、尚且つ男系維持もされるということになるのである。

女系論者が見え透いた詭弁で、600年という数字ばかりを一人歩きさせようとしているのは、男系を断つことを第一義に考えているからに他ならない。

旧宮家の皇籍復帰が、皇室と国民の区別を曖昧にするというなら、民間男性が皇族になるという女系論者の目論見の方が曖昧どころか完全に区別をなくしてしまい、やがては皇室を無化することにつながることが見え見えである。

また、やがて男系は維持できなくなるという議論も、観念的で意図的な確率の単純計算の所産に過ぎない。数字の遊びが論拠などトンでもないことである。

勉強会なるものの実態が、結局は、革命的有識者の報告書の中身の浸透にあるのであれば、即刻中止すべきである。

※「語られなかった皇族たちの真実~若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由~」(竹田恒泰)の202ページに系図が掲載されている。

以下、記事引用


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竹島周辺海域調査へ~政府は断固貫徹を!!~

韓国による我が国への侵略行為である竹島武装占拠が始まってから半世紀以上が経過し、韓国人がよくいう日帝36年(実は35年)をはるかに上回る期間となっている。

専守防衛の建前から言っても、竹島の武装占拠状況を放置しておくことは、許されない政府の怠慢である。
北朝鮮は拉致、韓国は武装占拠。北方領土を占領し続けるロシアを除けば、我が国に対して直接的な敵対行為、主権侵害行為を継続的に行っている国は他にない。

今回、海上保安庁が竹島周辺で測量調査をするという。海路の安全を期して行われる調査活動は主権行使の一部であり、他国から干渉されるいわれはない。武装占拠している国は早速抗議を始め、「あらゆる手段で阻止する」と言っている。武力行使をするつもりなのかもしれない。これが「平和を愛する諸国民」の実態なのである。

ここで腰砕けになったら、それは「竹島」の領有権を放棄することにつながりかねない。断じて許されないことである。

島根県が竹島の日を制定して一年。教科書にも明確に我が国固有の領土と明記されるに至った。島根県民からすれば、漁業への影響をはじめ、直接生活を脅かす韓国の侵略なのだが、断固として不法な侵略を跳ね除ける決意を示すことによって、政府も少しは重い腰を上げたということなのだろうか。

国際司法裁判所にかけることすら、韓国は拒否し続けてきた。それは、まともに議論をしたら決して勝てないことを自ら認めているからである。今回の事が、ごね得を続ける韓国を国際舞台に引きずり出すきっかけになれば幸い。それとも武力行使を仕掛けてくるのだろうか。その時、我が国政府は、国民はどう判断するか。我が国のかかえる国境問題だけに、インド・パキスタンのカシミール地方のような状況になるのかも知れない。しかし、引くことのできない問題なのだ。厳しい国際社会で生き抜いていくための覚悟を突きつけられる事態に、ならないとも限らない。いや、目を覚ますにはちょうどよいのかも知れないが。

海保、竹島周辺で測量調査=戦後初、韓国は抗議-新たな対立要因に (以下、引用)

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2006年4月15日 (土)

小泉首相の功罪・・・

 今日、首相主催の「桜を見る会」が新宿御苑で開かれたそうで、1万1千人もの人々が招待されたという。

「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 細川ラガシャ夫人の辞世の歌を引き合いに出して挨拶したというが、「散るさくら 残る桜も 散るさくら」とばかりに、自民党政権そのものが、「散るさくら」になってしまうかもしれない。

 豪腕小沢が民主党の党首となり、来年の参議院選挙・統一地方選挙を睨んで、自民党の支持基盤の切り崩しにかかっている。連立与党の公明党にも手を入れ始めている。もともと公明党を抱き込んで非自民連立の絵を描いたのは小沢だったことを考えれば、そろそろ自民党との連立にも飽きた、と思い始めた公明党が民主党と組んで政権獲得へ動くということも、ありえない話ではない。また、小沢氏が適確にそこを狙っていることは、別に政界に通じていなくても分かることだ。

 小泉首相の功罪について後世がどう判断するのか分からないが、国民の圧倒的な支持を得た背景の一つに、こうした際に見せる、日本の文化・伝統に根差しているかの如き装いをするところにもあったのだろうと思う。それが本物かニセモノかは敢えて問わないが。

「ちりぬべき 時知りてこそ」首相、桜を見る会で (以下、引用) 

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伊勢神宮をお参りして

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天津国たまさかに見ゆ心地して今日は参りぬ五十鈴の宮に

朝まだき 玉砂利の音の 心地よき 参道を行く 寒さ忘れて

一歩み 歩めば歩む たびごとに すがすがしさの 満ちたらひゆく

何事の おわしますかは 知らぬとも 胸内に溢るる この思ひはも

**********
この一月に、伊勢神宮におまいりした時につくった歌です。
皇室典範問題が急を告げていたときでしたので、本当に、
緊張感を持って、祈りを捧げてまいりました。

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2006年4月14日 (金)

自主性尊重の美名に逃げる親たち

 この間、滅多に見ないテレビを偶々見ていた時、昨今の青少年の性の事情について、番組がやっていた。

 産婦人科医の院長先生のところに、17歳の女子高校生が相談にやってくる。20代後半の会社員という彼氏も一緒にだ。妊娠していることが分かり、親と相談してくるように言う。二度目にも彼氏と二人でやってきた。親の姿はない。親は自分のやった行動の結果なんだから、自分で責任を取りなさい。産んだ方がよい、と言ったという。しかし、産んでも育てられる自信がないと彼女は言う。当然だるう。3度目にやってきた時、堕胎することに決めたという。今度も彼氏と二人である。親の姿はない。手術の当日にも、親はやってこなかった。

 この先生は言う。「子供の自主性に任せる、という親は物分りが良いのではなく、子供から逃げているに過ぎない。」と。

 その通りだと思った。今、このような無責任な親が増えているという。

 大体、20代後半の彼氏という男性は、相手が17歳の高校生であり、もし妊娠しても産み育てることが難しいこと位分からないはずはない。女子供を守ることも出来ないこの弱弱しい男は一体何なんだと思った。昔ならば、先ず第一にこの男の責任が問われただろう。自分が親なら断じて許さない。

 ヒニンすればいい、などと安易なことを言う手合いは多い。学校の性教育もそちらの方向に向かっている。しかし、何かずれている。

 昔、岡潔博士が、女児の初潮年齢が低下する傾向があることについて、人間が獣化しているのだ、と指摘したことがある。博士が指摘した時代よりも更に低下しているし、欲望に歯止めをかける訓練さえ怠り、性の乱れなどという言葉でさえ生易しいほどの目を覆わんばかりの惨状である。

 性は神聖なものである、という考え方は嘲笑の対象でしかなく、コミュニケーションとしての性などということばが教科書にまで登場するようになっている。国を挙げて気が違っているとしか思えない。

 自主性尊重の美名。その裏で深く傷ついていく子供たち。大人の責任放棄。この悪循環。

 子供から逃げている親は、自分自身の人生にも決して真正面から向き合っていない。この延長線上に、今の悲惨な世相があるのだ。地獄への道は善意に満ち満ちている。子供たちを地獄へ突き落とすのは、善意に満ち満ちた大人たちなのだ。その偽善に隠れた冷酷な心で、それとは知らずに犯す深い深い罪が、あとどれだけ重ねられるのだろうか。 

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ネット環境を整理して・・・

 ネット環境を整理しようとして、色々見直しているが、あきれたことに4つもプロバイダーを契約していた。整理を始めたら金額にして月5,000円以上が節約できることが分かった。年にして6万円である。@niftyの会員になって長いが、これまで殆ど活用できていなかった。

 あと少しで整理も終わるが、なんという無駄をしてきたのかと、ややブルーになった。しかし、無駄を省いていくことによって、身軽にもなり、何か健康を回復したような爽快感もある。自分の身の回りのメンテナンスも、気をつけていくことの大切さを、改めて思う。 

 今年の春も、桜を見に出かけられなかった。移動の時に目に入る満開の桜の美しさに、しばし陶然となるが運転の最中なので落ち着いて見ることなど出来るわけもない。雨も降って、かなり散ってしまった。それでもまだ間に合わないこともないのだが。

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閑話休題~ローマ人の物語再読~

 この間から、塩野七生さんの「ローマ人の物語~パクスロマーナ~」を読み返し初めて、今、「悪名高き皇帝たち」をカリグラ帝のところまで読んできた。

 ついつい面白くて読み進めてしまうのだ。無理をせずに読めてしまうのは、やはり文章がいいのだと思う。

 それにしても、ローマの皇帝が、中国の皇帝とも、勿論日本の天皇とも全く違う存在であることには興味が引かれるところだ。しかし、時々苦情を言いたくなることがある。ローマの属国・植民地は、後世のイギリスの植民地や日本の植民地とも違う、と記述したところなどだ。

 帝国主義全盛期の西欧列強の植民地支配のやり方にも幾つかの違った特徴があったが、日本のそれは更に違うのである。それに、日本の場合、台湾、朝鮮半島以外では満州ということになるだろうが、満州は傀儡といわれながらも独立国家としての体裁を整え、軍隊さえも持っており、本土以上の経済発展を遂げていた。また、朝鮮半島や台湾にしても、建前として本土同様を目指した施策が行われたのであり、その期間の短さかの中で、殆ど全てといっていい期間財政的には持ち出しになっていて、教育なども含めてインフラ整備に努めている。半島の国会議員や軍幹部までいた。

 第一次世界大戦後に、日本の委任統治領となった南洋方面にしても、地場産業の育成に尽くしたり、教育を熱心に行ったりと、スペイン、ドイツ、アメリカなどが統治した期間とは際立った違いを見せていることも見逃せない。

 第二次世界大戦の時、マレー、インドネシア、フィリピン、ビルマ(ミャンマー)、インドシナなどについては、植民地支配というよりも、軍事占領下の軍政の色合いの方が濃厚であるし、その短期間の間に行った施策でも教育をはじめとして民族独立の準備に必要な施策を行っているのである。

 塩野さんの著作は面白くもあり、政治的色合いからいえば保守的な作家と言われているが、その専門領域がイタリア史を中心とするヨーロッパ史であることもあり、日本の保守派としては、日本の歴史などに関する知識は一般のそれを大きく出ないもののように思われる。

 しかし、そういうことはともかくとして、中々なじみのないローマの歴史について、これほどまでに分かりやすく読めることは、楽しいことであるし、一流の作家であることは間違いない。まだ主だった作品を読破したわけでなく、ルネッサンス期の様々な著作が未読なので、これからじっくりと楽しませてもらいたいと思っている。

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2006年4月13日 (木)

「比較文化論の試み」(山本七平)再読

 この間、ふと、山本七平氏の講演録である「比較文化論の試み」(講談社学術文庫)を読み直した。
 最初に読んだのは恐らく高校の頃だったと思うが、その頃にはこの本に書かれてあることを読み取るには余りにも未熟に過ぎたのだと思う。茫漠とした印象さえも残っていないのがその証拠である。

 今回、読み直して、あまりの新しさに一驚した。それは、真理というものは古くならない、という古典的な新しさである。

 山本氏は、日本でも随一といってよい「聖書学」に通じた人物だった。自身も無教会派のキリスト教信者であられたという。イザヤ・ベンダサンというペンネームにより「日本人とユダヤ人」を著し、一世を風靡した。比較文化論的なアプローチが脚光を浴びるようになるきっかけになったものではないかと思う。

 自分がなぜそのように考えるのか、という内省を経ない一切の認識は、真に客観的なものとは言い難い。「戦後人がもつ一つの確固たる迷信」という氏の言い方は、戦後の価値観にどっぷりつかりそのことに疑いを抱くことのない人々への痛烈な一針であるように思える。

 バブル以降の平成大不況がようやく回復の兆しを見せてきた、とか、格差社会が到来する、とかいう様々なご託宣が飛び交っている。しかし、その内面を見透かしてみれば、その貧弱と空洞は呆れ返るほどのものでしかない。 
 「経済的破綻がが必ずしも文化的破綻を招来しない過去の実例」を上げ、「経済的破綻は絶対の一民族の、民族的破産でも文化的破産でもなく、その更生・再生の早さをみれば、破産そのものは、一民族の歴史の全過程の中では、一挿話に過ぎないといいうるほど短いことも珍しくない」と氏は指摘しているが、経済だけが尺度の価値観がこのまま続けば、次のようなことになるのではないか。

 「文化的破産はこれと同じではありません。その破産は、経済的破産なくこれを迎えることもあれば、経済的破産とともに起り、それが回復した後も回復せず、その民族を、新しい形のまことに始末の悪い文化的内乱状態へと陥れ、最終的には回復不能の状況にしまして、一民族・一文化を人類史上から消してしまうこともあります」

 現在、日本人が祖先から受け継いできた価値観を蔑ろにして戦後60年。小手先でどうなるものでもないような人間の生き方の破綻が随所に目立つようになってきた。それは、明治以後の文明開化のひずみと、戦後それに拍車をかけたアメリカニズムの浸透が大きな影響を与えていることは間違いない。日本人が文化的な死に向かって突進している。

 この問題について、どう対処すれば良いのか、この小著の試みは極めて示唆的である。

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2006年4月11日 (火)

「日中戦争」とはいかなる戦争であったのか~児島襄氏の”問題提起”~

 近現代史の歴史小説作家であった氏は、徹底して史料を調べて「歴史」を書いた人物である。「日中戦争」の巻末に上げる「参考文献」に目を通すことさえ、素人にはとても不可能なほど膨大であり、また日本側の史料だけでなく、中国、台湾の中国語史料、アメリカの英文史料などもふんだんに活用されているのだ。

 この労作は、読み進むことも結構骨が折れる。なぜ、これほど綿密に調べ上げ、「日中戦争」という20世紀前半のエポックを浮かび上がらせる困難な作業を行ったのか、ひとつの動機とも取れるエピソードが「あとがき」につづられている。

 「昭和19年秋、第一高等学校生徒であった私は、寮生コンパの席で、中華民国政府派遣の留学生の発言に胸をうたれた。」

 早速注が必要かもしれない。「中華民国政府」とは、当時南京にあった汪兆銘の政府のことである。

 「彼は、自分たちは来春に卒業したら南京には帰らない。重慶の蒋介石政府に参加する、といい、次のように述べたのである。
 「そして、長い日本との戦争に参加します。それが中国国民としての誇りであり義務だと思うからです。いずれ戦場で出会ったら、同じ一高生として正々堂々と戦いましょう」
 私たちは拍手し、「頑張れ」と叫び、彼らと握手をくり返した。
 が、そのときも、私には彼がいう「長い日本との戦争」の意味は分からなかった。「太平洋戦争」の勃発とともに、中国で正統視される蒋介石政府は対日宣戦した。彼ら留学生が日本の傀儡とみなされる南京政府に背をむけるのも、戦意を表明するのも、国民として当然の心情だと理解したにとどまる。」

 当時、中国には3つの政府があった。ひとつは蒋介石率いる重慶の国民党政府、そこから分離し日本と条約を結び同盟関係となった汪兆銘率いる南京の国民党政府、そして毛沢東らの率いる延安の共産党政府である。他に、満州国政府を挙げてもよいかもしれないが、中国の政府ではそもそもない。そして、ここにいたるまでの中国大陸の内戦状態、軍閥割拠の時代が清朝倒壊から延々と続いていたことを改めて確認しておくことも無駄ではないだろう。

 それにしても、中国の留学生と、日本の学生のこの付き合いの爽やかさは、心にとどめておきたいものだ。愛国心の発露として日本と戦うと言う中国の留学生と、それに感銘して激励し、正々堂々と戦おう、と述べ合う、まるでスポーツマンシップのようだが、戦場を知らない世間知らずの学生の戯言と言ってしまえばそれまでだが、そこに溢れる真情は、今語られるような憎悪と憎悪がぶつかる非人間的な戦争の時代のイメージとはかけはなれていることにも注意が必要に思われる。

 

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「国家の品格」を下落せしめてきた人々~その一例~

 数日前の中国新聞の広場に、「首相の参拝 筋通らぬ」という投書が掲載されていた。

 実物に当たってもらえば氏名も掲載されているのだが、ここでは仮にH氏としよう。彼は無職の65歳男性である。

 以下、全文を紹介する。

「小泉純一郎首相は靖国神社参拝について、以前から「抵抗感を覚えない」「A級戦犯の合祀にはこだわらない」などの発言を繰り返してきた。最近では、憲法19条「思想・良心の自由」を持ち出し、「心の問題」だと強調している。
 ならば、同じく憲法20条「政教分離」について考えを問いたい。大阪高裁判決では、政教分離規定が設けられた経緯について詳しく言及している。
 ところで、教育行政の管理下にある現場では日の丸や君が代を児童、生徒、職員に強制し、従わない職員を処分している。また、教育基本法に「愛国心」を盛り込もうと躍起だ。
 自分にだけ「心の自由」があり、子どもや学校職員には認めないのは明らかに権力の乱用であり、論理的に破たんを来たしている。また、一国の最高権力者である総理が、いくら私的参拝を装ってみても多くの国民、ましてや外国の人々にはそうは映らない。
 結局、先の無謀な大戦を計画立案、強行した戦争責任者に感謝の意を表明していることになる。首相はこれほどまで靖国参拝に固執するのなら、この際、きっぱりと議員辞職をして、一民間人の立場で毎日でも気の済むまで参拝してはどうだろう。これなら文句を言う者はいないし、中国、韓国との国交改善も前進する。」

 この男性は、戦争を直接は知らないはずである。物心ついた頃にはもう敗戦となり、学校に上がった頃には既に墨塗りでさえない、戦後民主教育の洗礼を受けた世代であり、団塊の世代よりもほんの少し上の世代に属する人である。

 このドグマで凝り固まったような、短文のみで全てを判断することはできないが、ここに盛り込まれた主張は、この手の主張をする人々に特有の観念連鎖がかなり見出せるので、俎上に上げて分析してみることも、少しは意味があるかもしれない。

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「中国飢餓農民を救った日本軍」の記事に感銘

 今日の産経新聞に、「中国飢餓農民を救った日本軍」という見出しの記事を見出し、引き入れられるように全文を読んだ。

 日中戦争の際、1941年(昭和16)から43年(昭和18)まで続いた旱魃により被災者3千万人、餓死者3百万人という、途方も無い「大陸規模」の犠牲者を出した大飢饉が中国大陸を襲っていた。この災害は天災だけでなく人災の一面があって、蒋介石の中国国民党軍は、「民衆が死んでも土地は中国人のもの。兵士が死ねば日本人がこの国をわがものとする」といって、軍糧を過剰なまでに取り立てたという。日本軍は、餓死寸前の農民に軍糧を放出し、飢餓農民を救ったのだという。

 河南省の災害史を調べる中で、この歴史の真実を発見した作家の劉震雲氏はこの歴史事実を素材として「温故一九四二」という小説を出版し、それが中国でロングセラーとなり、現在映画化が決定されたというのだ。

 反日の暴風が吹き荒れた一年前とは打って変わって、このような小説が映画化されることは、日中関係にとって大いにプラスだろうと思う。当局の審査が厳しく、映画のクランクインが遅れているという。間違っても「親日映画」とならないような「検閲」が行われているのかも知れないが、小説の方は広く読まれているというのだから、矛盾が拡大するような映画を作れば、検閲の跡の方が醜く浮かび上がることになり、却って逆効果になるだろう。

 中国大陸で残虐の限りを尽くしたというイメージが定着した観のある日本と中国の教育現場、それは中国版愛国教育の直輸入も預かって力があったことが、日教組系の教職員らが中国に毎年のように渡って本場「愛国教育」を学び、持ち帰って実践してきたことの影響も大きいのだろう。中国各地に作られた「官製」愛国(反日)歴史資料館は、あるいはこうした日本の教師たちと、中国共産党政府の合作だったのかもしれない。そういえば南京に建設された南京大屠殺記念館には、当時の日本社会党の肝煎りで、日本の援助によって作られたという話を聞いたことがある。

 「歴史の偽造」は共産主義国ではさして珍しいことではないが、自由主義国家であるはずの日本人がそれを推進したとは何とも解せない話である。しかも、それほど熱心に、隣国の「愛国」教育を真似ておきながら、肝心の日本における「愛国心」教育には徹底して反対なのである。普通に考えれば、やはりおかしいであろう。

 むしろ、「官」ではない中国人の「庶民」感覚こそが、日中の懸け橋になるのでは、という期待ができるというのは皮肉なことであろう。「庶民の味方」で「反政府」の立場を少なくとも建前では日本本国において一貫してきた社会党系の人々は、一歩大陸に足を入れると、「官」べったりになり、「庶民」を無視しているのだから。面白いもので、これが本当は本音なのだろう。そもそも社会主義は極限まで「官」を肥大化させ、その重みを「民」に背負わせてきたのが、20世紀後半の歴史の示すところでもある。

 また、「日中戦争」は、歴史を政治の道具とする中国の伝統に共産主義が拍車をかけた形で、歴史事実の探求が、きわめて困難な状況が続いてきた。日米戦争に関しては、日米双方の資料をつき合わせて相当事実に近いであろう戦史の刊行が可能となっているが、児島襄氏の「日中戦争」を読んだ際どこかに書いてあったが、結局当事者である蒋介石政府は台湾に逃れ、その後、漁夫の利を得る形で中国大陸における権力奪取に成功した中国共産党が、自分たちに都合のよいように歴史を書いてきたのである。そして、現在に至るまで、双方の資料を客観的に突き合わせて歴史の事実を探求していこうという試みは、なされていないのである。

 日本国内にも、一方的に日本の「悪」のみを断罪して止まない、一群の人々が存在する。彼らの主張する日本暗黒史に少しでも疑問を抱こうものなら、ありとあらゆる罵詈雑言、あるいは物理的心理的な恐怖を与えられることを覚悟しなければならない。そうした異常もほころびつつあるとはいえ、まだまだ健在だといわねばならないだろう。日中の歴史の真実の探求は、まだまだ50年、100年というスパンでしか実現しようのない事業なのかもしれない。

以下、記事の全文引用です。

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2006年4月 4日 (火)

敗戦で失われたもの~河村幹雄博士の場合~

 大正から昭和初年にかけて、とりわけ教育問題に熱心に取り組まれ、著名であった方の一人に、河村幹雄博士がおられる。

 氏は明治十九年に、北海道石狩に生まれ、明治44年に東京帝国大学を卒業された。その後直ぐに九州帝国大学の講師を嘱託せられ、翌年には九州帝国大学工学科大学助教授に任ぜられた。大正8年には九州帝国大学教授に任ぜられ、同年理学博士の学位を受けられた。昭和5年斯道塾を福岡市に開かれたが、翌昭和6年12月27日、永眠された。享年46歳。

 短い生涯であったと言わねばならないが、「遺稿集」の編集後記に切々と述べられる言葉は、博士の遺徳を偲ぶに十分であろう。

「「私が亡くなったら書遺したものは皆焼いて灰にしてくれよ」とかねてより言い置いて博士は逝かれた。それにも拘らず今、ここに遺稿を編纂・刊行するに到つたことは、博士の心を知らない背命の所業である。我々はかかる背命の恐るべきを思はなかつたのではない。然し何人かよく直ちにこの命に従ひ得たであらう。博士を知る人にして、片々たる草稿と雖もこれを愛惜し保存すべきを力説高調しない人はなかつたのである。」

「博士の本領は、寧ろ、その行住坐臥の間、実践に於て体現され、或は講演に、或は講義に、或は座談に、そしてその公私の生活の裡に直接表現されたのである。それ故にその筆録されたものが如何に勝れてゐるにもせよ、その一部分を輯めて遺稿として刊行することは必ずや博士の偉大なる生命に外的な限定を加へることとなるであらう。時にふれ折に際し、豊かなる情意と透徹したる識見とを以てすべての者を蘇らせすべての者に力を與へられた博士の生命の全貌をここに現すことはできないからである。偉大なる生命は却つてこれに直接触れた人々を通じて無限の展開をなし、隠微の間におのづから結晶して何等かの形となるであらう。遺稿を求める我々の心は畢竟これ愚凡の迷執であるに違ひない。」

「然しながら日本は今意味深き歴史の刻々を経過しつつある。世界歴史の中心が日本に於て渦巻いてゐる。『重き悩みの近づき来るに』と博士の歌はれたその時が正に我が民族の目前に到来してゐる。この重き悩みを擔ひ了せ、歴史をして永遠の栄光に輝かしめる為には、高邁なる人生観に基く確固たる精神力と明晰なる洞察力とを有たなければならない。博士の思想は必らずこの力を我が同胞に與へるであらう。」

「かくして、遺稿に伴う必然的制約は博士を損ふこと頗る大であるとしても、遺稿が晦迷の中に陥らうとする我々の心に光を與へ、普く同胞に革新の原動力を與へるとするならば、背命の所業は寧ろ缺くべからずと思ふに到つたのである。」

 この遺稿集が編集されたのは昭和8年。全国から応募者があったという。その後、この10センチもある遺稿集をより精選して出版されたのが「名も無き民のこころ」である。これは戦後も版を重ね、読み継がれてきた。自分も戦前の版のものと昭和40年代に出版されたもの2冊を持っている。

 最近、ふとしたことをきっかけに、漫然と調べていたら、何と、最近「日米不戦論」という著書が復刊されたいたのに驚いた。博士は過去の人ではなく、今現在もなお、読み継がれ、また伝えようとする人々がいるのだということに感銘を受けた。

 そして調べてみると、「河村幹雄全集」が刊行されたことを知った。第一巻のみであるが奥付を見ると昭和20年6月20日に4000部第一版が出版されている。髪質も装丁も「遺稿集」に比べて遥かに劣るのは、戦争末期のわが国の状況を反映したものと思われ痛ましい。全4巻で計画されていたらしいが、2~4巻が見当たらないのは、やはり敗戦後の混乱期に、この試みが放擲されてしまったということなのだろうか、と推測するの他はない。もしそうだとするならば、きわめて残念なことであり、敗戦という政治軍事上の一時がもたらした、人文への痛手のひとつだと思わないわけにいかない。

 るる述べてきたのだが、本当は、次の一文を紹介したいが為に書き始めたものであった。これは、復刊した「日米不戦論」には掲載されていないらしい。女子教育にも心を砕いた博士の、女性教育論であり、今もなおまったく古びていない、貴重な一文であると思われるのだ。大正から昭和にかけての世相と、現在の世相がよく似ているということを思わないわけにいかない。それは、その頃にも「女権拡張論者」の耳障りな掛け声が世間を騒がしていたという一事のことをさしていうのである。今の世にないのは、博士のように、全人格を持って国民全体に感化を及ぼすような碩学の存在である。せめて、博士の言葉を、人として生きる道のよすがとして、紹介したいと思うのである。

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