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2006年1月 7日 (土)

「こころ」「ことば」「こと」

昨年、このブログを立ち上げてから折々に拙い雑文を書いてきました。
雑文はいくら書いても雑文の域を出ません。スケッチ的な思いつきばかりで、中途半端なものばかりですが、その時々の思いつきも、何かの種として保存することは、必ずしも無意味なことばかりではないと思い、続けていきたいと思います。

なるべく触れずにおきたいと思っていた時事的な問題への感想や意見なども継続して書いてみたいと思います。

「徒然草」百五十七段には次のように書かれています。

筆を執れば物書かれ、楽器を取れば音をたてんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、骰子(サイ)を取れば攤(だ)うたん事を思ふ。心は必ず事に触れて来る。かりにも不善の戯れをなすべからず

この「心は必ず事に触れて来る」の一言は、実に含蓄のある言葉だと思います。心は形がありませんが、事に触れて形を現す、ということですが、その触れる事により、心もまた影響を受けるということです。

心と言葉と事の関係は、「こころ」「ことば」「こと」という音にもあるように深い結びつきがありますが、兼好法師はここで「心」と「事」の関係について述べているわけです。

人は自分が生きている時代から自由ではない。日々生まれてくる「事」が、自らの「心」に影響を与え、「言葉」によって表されていく。そしてまた「言葉」が「心」に影響を与えて、次なる「事」が生まれてくる。人が人として生きている限り、その時代を無視して生きることが出来ないことはあまりにも明白な事実であるにも関わらず、なかなかそれに気付こうとしないものなのでしょう。

しかしまた、人は「言葉」によって、時代の制約を超えて、「現在」を見ることも可能になります。日々生じる「事」を、「言葉」によって把握するとき、その「言葉」は、時代を写すとともに、時代を超えたものでもあるからです。時代を超えて、先人の言葉に触れ、それにより現代を見ることが出来る。人の「心」は常に全歴史を抱くことが可能なのだと思われます。

いわゆる「反時代的考察」などというものも、この「言葉」の本質的な働きなくしては不可能なのでしょう。

今年も、「こころ」「ことば」「こと」の3つをキーワードとして、手探りを続けて参りたいと存じます。

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