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2005年12月23日 (金)

「神皇正統記」に学ぶ 〜言語は君子の枢機なり〜

「正論」などに次々と論文を発表している外務省官僚の佐藤優氏が取り上げてから、「神皇正統記」がちょっとした話題になるようになった。これは誠に喜ばしいことと言える。

「神皇正統記」は、吉野朝廷の忠臣であり、主柱でもあった、北畠親房公が、新帝、後村上天皇の為に著したものと言われている。

現在の歴史の中では殆ど語られない、後醍醐天皇を中心とする建武中興とその後の南北朝の時代は、皇統が二つに分裂し、京都に室町幕府の奉ずる持明院統の北朝と、公武一統の政治をめざす後醍醐天皇の遺詔を奉ずる南朝が、二つながら存在した前後五十余年に渡る混乱の時代である。

山本七平氏は、この日本史をこの時期を境として、前期天皇制と後期天皇制という区分をしたが(「日本の歴史」上下)、この時期が日本の歴史の上で、急所であることは間違いない。

日本最大の忠臣と言われた楠木正成公とその一族が、南朝の為に一族尽く身命を捧げて歴史に埋もれていったのもまさにこの時代である。

国家の中心が二つに分裂するということが何を意味するかといえば、全国各地が、二つの正統の間に分裂し、互いに抗争するという事態が起こるということであった。それは政治思想の対立である以上に、皇統という日本の国家統治の正統性が並立したことによって惹起したと言える。

「正統」とは何か。この未曾有の悲劇の中で、北畠親房は、南朝の正統性を、強烈な確信の下に書き表したのである。

それが「神皇正統記」なのである。建武三年(1336)12月21日、三種の神器を奉じて後醍醐天皇は吉野に行幸、ここに南北朝の分裂が始まった。延元三年(1338)、5月22日、親房の息子顕家が戦死する。9月、義良親王を奉じて東国に出帆するが、暴風雨により、義良親王は伊勢に戻り、親房は常陸国東条浦に着き、神宮寺城に入る。後に小田城に入る。延元4年8月15日、後醍醐天皇が崩御し、義良親王が即位した。そして、この秋に、「神皇正統記」が成立したのである。この間一貫して、結城親朝に奮起を促す工作を継続しているのである。

この背景を考えた時、「神皇正統記」が、後醍醐天皇の忠臣として、南朝のイデオローグとしての強烈な正統意識の下、これを新帝陛下に捧げるため、延いては大義を天下に闡明するために、血肉を絞って綴ったものであることが判る。

さて、乱世はなぜ生じるのであろうか。親房はこれに明快に答えている。

『「言語は君子の枢機なり。」といへり。あからさまにも君をなひがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子といふものは、そのはじめ心ことばをつつしまざるよりいでくるなり。世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世とはいえるにや。』

乱臣賊子というものは、最初に心驕り高ぶり、言葉を慎まないところから出現するものである。世の中が衰えるというのは、太陽や月の光が変わるというのではなく、草木の色が改まるというのでもない、人の心が悪くなって行くことが、「末世」ということになるのではないか!北畠親房の血を吐くようなこの叫びは、現代にもそのまま通じるのではなかろうか。

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