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2005年10月18日 (火)

小泉八雲が見た明治日本人の生と死の形 〜小泉首相の靖国参拝に寄せて〜

ラフカディホ・ハーン(日本名・小泉八雲)が描いた明治の日本人は、平成の今から顧みて、遥かに遠い昔語りのようであり、且つ又、今の冷たい隣人以上に親しい隣人のようでもある。

この間久しぶりにハーンの本を買った。「東の国から・心」という660ページもある分厚いものである。

「心」は、岩波文庫にも納められていて、読んだことがある。また、新潮文庫の「小泉八雲集」は、古い愛読書の一つでもある。「停車場にて」や「赤い婚礼」は、忘れられない小品である。

さて、この久しぶりに買った本をパラパラと見ていた。不思議と何か語りかけてくるような感じのする本で、書店で出会って思わず買ってしまった一冊なのである。しみじみとした、暖かい感じがするのである。何気ない装丁で別に何処といって変哲なところがあるわけではないのだが。
「願望成就」という一文を見出し、何気なく読み出した。

これは、ちょうど日清戦争の時のエピソードである。

当時、熊本に居たハーンのもとに、松江時代の教え子だった小須賀浅吉が、出征の暇乞いに訪れた。

この一夜の対談が、丁度、西洋と日本の、生と死に関する対話になっている。それは、今の時点から見ると、日本人が忘れてきてしまった大切なものを、さらりと語っている。それをハーンが書き留めておいてくれたのだ。

「いまでもかれは、松江の学校で十六歳のはにかみやの少年だった時分とおなじように、あいかわらず、心はうぶのままでいることは、一見してあきらかだ。じつは、この青年は、わたくしに暇乞いをするために、わざわざ隊の許可をえて、きてくれたものなのであった。隊は、明朝、朝鮮へ出発することになっているのである。」

「かれは軍隊が好きだった。はじめは名古屋の連隊にいたのを、つぎに東京へまわされた。ところが、東京の連隊は、朝鮮へは出征しないということがわかったものだから、かれは熊本の連隊師団へ転属を申し出て、さいわいそれがうまく許可されたのであった。「それで、自分はいま、ひじょうにうれしいであります。」とかれは兵隊らしい喜びに顔をかがやかしながら、いうのであった。「自分らは、明日、出発するであります!」そういって、自分の腹蔵のない喜びを思わず口に出したのが、なんとなく、きまりがわるいとでもいうようなようすをして、もういちど顔を赤く染めた。」

うぶな青年のはにかむ様子が目に浮かぶようである。自分の喜びをあからさまにしたことを恥じて、顔を赤く染めるという心の動きは、最早この国の青年には見られなくなってしまったものの一つであるかも知れない。

会話は以下のように続く。

「君は憶えているだろうね?」とわたくしは尋ねてみた。「いつぞや君は教室のなかで、自分は天皇陛下のおんために死にたいといったことがあったっけね?

「はあ」と、かれは笑いながら答えた。「その千載一遇の機会が、いよいよ到来したわけであります。――これは自分ばかりではないであります。自分の級友たちにも、その機会がきたのであります。」

「あの連中、みんないま、どこにいるの?」とわたくしは尋ねた。「君といっしょかね?」

「いや、連中は広島師団におりましたが、みんなもう、朝鮮に征っておるであります。今岡と(おぼえておられるですか、先生。彼奴(きやつ)、ひじょうなのっぽな男でありました。)長崎と、石原――この三人は成歓の戦いにいっしょでありました。それから、自分らの教練の先生だった中尉殿――おぼえておられますか?」

「藤井中尉か、おぼえているよ。あの先生は、退職中尉だったね。」

「ところが、予備だったのであります。あの方も、やはり、朝鮮へ征かれたであります。先生が出雲を去られてから、あれからまたひとり、坊ちゃんがお生まれになりました。」

「わたしが松江にいた時分には、お嬢さんがふたり、坊ちゃんがひとりだった。」

「はあ。それが今は、坊ちゃんがおふたりであります。」

「それなら、あちらのお家でも、きっとお父さんのことをたいそう案じていらっしゃるにちがいないね。」

「中尉殿はちっとも心配しておられませんでした。」と青年は答えた。「戦争で死ぬのは、非常な名誉であります。政府は、戦死者遺家族を保護してくれるであります。でありますから、自分らの士官殿たちは、ちっとも心配しておられません。ただ、男の子がなくて死ぬのは、こいつはやりきれんであります。」

「それはまた、どうしてだね?」

「善良な父親は、たれしも、わが子の将来というものに心を砕いているからね。それが、いきなり父親をさらわれてしまったのでは、あとに残ったものが、いろいろ憂き目を見なければならんわけだろう。」

「自分らの士官殿たちの家族には、そういうことはないであります。子どものことは、親戚が面倒みてくれるですし、政府(おかみ)からは扶助料が下がるのでありますから、父親たるものは、あとあとのことを心配するにはおよばんのであります。そのかわり、子どもがひとりもおらんで死ぬものは、これはじつに気の毒であります。」

「気の毒って、その人の妻子が気の毒というのだろう?」

「いやいや、死んでゆく当人、つまり、御亭主がかわいそうだと申すのであります。」

「どうしてね?息子があったって、死んで行くものにとって、そんなもの、なんの他足にもならんじゃないか?」

「男の子は家の跡取りであります。家の名を存続させてゆくものであります。供養をするのは、そこの家のせがれでありますから。」

「供養というと、死んだ人の供養かね?」

「はあ。もうおわかりになられたでありますか?」

「そういう事実は、それはわかったがね、しかし、そういう気持が、どうもよくわからないね。いまでも軍人は、そういう信念を持っているの?」

「もちろん、持っております。西洋には、こういう信念はありませんですか?」

「ちかごろではないね。大昔のギリシャ人やローマ人は、そういう信念をもっていたがね。むかしのギリシャ人やローマ人は、先祖の御霊というものは家の中に宿っておるものであって、供え物や供養をうけて、家の者を守っていてくれるものだと思っていた。どういうわけで、そんなふうに考えていたかということは、多少われわれにもわかるけれども、むかしの人がどんな気持ちでそれを感じたかということになると、はっきりしたことは、われわれにもわからんね。つまり、自分の経験しないことを、あるいは、先祖から伝承しない感情は、われわれはわからんのだから。それと、おなじりくつで、死者に関する日本人の正直な気持ちというものがわたしにはわからない。」

「先生は、それでは、死は万事の終わりだとお考えでありますか?」

「わたしが難解だというのは、そういうことを言ってみたところで、いっこう説明にはならんのだよ。ある感情は遺伝する。――おそらく、思想のうちでも、ある思想は遺伝するだろうさ。ところが、君たち日本人の、死者についての感情・思想というもの、あるいはまた、死んだものに対する生きているものの義務といったもの、これは、西洋のそれとは、ぜんぜん、違っているのだよ。われわれ西洋人にとっては、死という概念は、完全な別離を意味している。生きているものから別れるばかりではない、この世からも別れてしまうことだ。仏教だって、死者がたどらなければならない、長い、暗黒の旅のことを説いているでしょう?」

「冥途の旅でありますか。―そうであります。みんな旅をしなければならないのであります。しかし、自分らは、死というものを完全な別離とは思っておらんのであります。死んだものは、いまでも自分らといっしょにおると考えております。そういう死んだ人たちに、自分らは、毎日話しかけております。」

  会話はまだまだ続きます。やがて、戦死者の話になります。

「しかし」とわたくしはいった。「先祖の墳墓の地を遠く離れて、異境で戦死するとは、西洋人にすら、とても気の毒な気がするねえ。」

「いや、そんなことはありません。郷里の村や町には、戦死者を弔うために、記念碑が建てられます。それに、兵隊の死骸は戦地で焼かれて、日本へ送りかえされます。すくなくとも、それができる時には、そうされるのであります。大激戦のあったあとでは、それはちょっとむずかしいかもしれませんが・・・。」

「してみると、こんどの戦争で戦死した将卒の霊も、将来また国難がきたようなときには、いつでもかならず祈念されるのだろうね?」

「そうであります。かならず祈念されます。自分らは全国民に敬慕され、尊崇されるのであります。」

浅吉は、自分がすでに戦死するときまっている人間のように、ごく自然な調子で、「自分ら」といった。そして、それなり、ややしばらく黙っていたが、やがて語をついだ。―

「自分は、昨年学校におりましたとき、行軍にまいりました。意宇の在に、英霊の祀られてある神社がありますが、自分らは、その神社に向かって行軍したのであります。あすこは、岡にかこまれた、幽邃な、景色のいいところでありまして、神社は、うっそうとした高い木の蔭になっております。昼なお暗く、冷え冷えとした、静かなところであります。自分らは神社の前に整列いたしました。もちろん、だれも物を言うものなどはありません。おりからラッパの音が、戦場への召集ラッパのように、神社の森にひびきわたりました。自分らは、みな、捧げ銃をしたのであります。その時、自分は目に涙が出たのであります。―なぜ出たのか、自分にもわかりません。朋友を見ますと、みなやはり、自分と同感のもようでありました。先生は外国人でおられますから、自分らのこの気持は、おそらく、おわかりにならんでありましょう。この気持をひじょうによく言いあらわした和歌がありますですがね、日本人なら誰でもみな知っておる和歌であります。むかし、西行法師というえらい坊さんが詠んだ歌でありまして、この西行という人は、僧侶になるまえは武士でありました。本名は、佐藤義清というのであります。―

  なにごとのおわしますかはしらねども
       かたじけなさになみだこぼるる」

ハーンの文章はもう少し続くが、これ以上は原文を是非見て欲しいと思います。
この浅吉青年は、戦死します。してみると、この言葉は、英霊の方々の思いを代表しているもののようでもあります。

この浅吉青年の体験は、別に取り立てていうほど特別な神秘体験というわけのものではありません。ハーン自身も多くの人々から同様の体験を聴いていました。

私も、学生の頃のことではありますが、半年ほど毎週日曜日に、靖国神社にお参りしたことがあります。

ご社頭で、ちょうど、昨日、小泉首相が頭を垂れて祈念されたあの場所で、静かに目を瞑り、合掌して、思いを凝らしておりますと、本殿の奥にある御神体の御鏡の方から、霊風というのでしょうか、爽やかな「気」とでもいうようなものが流れてきて、心身共に洗われて、落ち込んでいた心が沸々と元気に満たされていく、という体験を何度も致しました。

靖国の英霊は生きている、生きて日本を、我々を見守っていてくださる、と、それは観念ではなくて、実感として感じるものであります。

これを、非合理なものであるからといって、では嘘だ、思い込みに過ぎない、と断言できるものでしょうか。あるいはまた、科学的でない、の一言で、断ち切れるものでしょうか。そういう行為は、人間というものへの洞察を欠いた、薄っぺらで衰弱し切った現代人の傲慢であると思います。

奇しくも同じ苗字の小泉純一郎首相、小泉八雲は、イギリス人の父親とギリシャ人の母親の間に生まれ、アメリカで新聞記者としての職業を得て、やがて通信員として日本に渡り、日本を愛し、この国土の土になった方です。

小泉首相、靖国神社のご社頭で、英霊は、何を語りかけられましたか?

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 小泉首相靖国参拝されて与野党ひとしきり賛否の論議あるやうなれど、任期たかだか数年の一介の総理ごときの参拝にては英霊慰むべくもなからむ。やはりここは天皇陛下に正しき終戦の日たる「七月八日(1945/8/15)」に頂きたし。8/15ならば侵略の正当化にあたる等と中国韓国等から抗議民衆デモなど起こしかねねど、「七月八日」ならば太陰太陽暦まの伝統に東南アジアから極東まで深く思ひを致す契機となるべし。朝三暮四の諺はここに生きたる見本を見出すべし。  明治初期に何故目前の財政困難の打開を当て込む不純の動機に出... [続きを読む]

受信: 2005年10月19日 (水) 午後 07時27分

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