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2005年10月

2005年10月27日 (木)

「女系」天皇容認の皇室典範改正に、断固反対します

首相官邸への意見送付

以下の意見を送りました。

「女系」天皇容認の皇室典範改正に、断固反対します

このたび政府の「皇室典範に関する有識者会議」が女性天皇、女系天皇を容認する方向で、最終報告書を取りまとめるとの報道がなされています。

事実であるなら、2600年にわたる日本の歴史上、重大な国体の変更を加えようとするものであり、断じて許されるものではありません。

敗戦後、皇統を断とうとした、米国を中心とする占領軍の思惑を、独立回復後もそのまま放置し、皇室のあり方について、おざなりにしてきたことがすべての原因であり、本来、占領軍の行った干渉、例えば、皇族の強制的な臣籍降下などを、本来あるべき姿に戻す努力もせずにきた政治の責任はきわめて重大であります。

あまつさえ、自らの責任を頬かむりし、女系天皇が、実質的な王朝交替であり、万世一系の皇統の断絶を意味することは明らかであるにも拘らず、それを推進しようということは、重大な結果を招来するものであると憂慮せざるを得ません。

明治に皇室典範が成立した際、皇室典範は明治憲法の外に並立するものとして存在しました。それは、皇室の伝統と文化の近代における集大成である明治皇室典範に、一時の政務をつかさどるに過ぎない政府が容喙するようなことがあってはならないという、当時の為政者の叡智のしからしめるところであったと思います。

敗戦後、占領軍から押し付けられた憲法の下、皇室典範はこの性格を根本から改変せしめられてしまいました。これは、異常な事態であり、このような状況は、独立回復後、すぐに軌道修正されるべきものであったにもかかわらず、その責任を歴代政府が放置した結果、このような重大な問題に関して、天皇陛下も、皇族の方々も、その会議にご臨席にさえなれないという、おかしなことになってしまっています。

皇位の神聖性を犯すことは、日本の歴史・文化・伝統に対する反逆であり、そのようなことを日本の政府は決してなしてはなりません。

女性天皇は、中継ぎの存在として歴史上存在しました。しかし、皇室の歴史を踏まえ、その総括として生まれた明治皇室典範において、女性天皇は本来の姿ではないとして退けられたわけです。単なる風潮としての世論調査のみによって、しかも、女性天皇と女系天皇の重大な違いについての区別もなく行われた世論調査を根拠とすることは、なんら根拠になるものでもありません。

「女系」とは詭弁に過ぎず、別の「男系」への移行とみなされる危険性が濃厚であり、この一点において、断じて許すことはできません。

皇室のあり方として、宮家の復興など、打つべき手は幾らでもあります。また、財政の負担という点についても、現在の皇室への献上についてのきわめて厳しい制限を行っている皇室経済法などを改正することによって、改善が可能であろうと思われます。

どうか、日本を滅ぼさないで下さい。草莽の微臣の心からなる願いであります。

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2005年10月18日 (火)

小泉八雲が見た明治日本人の生と死の形 〜小泉首相の靖国参拝に寄せて〜

ラフカディホ・ハーン(日本名・小泉八雲)が描いた明治の日本人は、平成の今から顧みて、遥かに遠い昔語りのようであり、且つ又、今の冷たい隣人以上に親しい隣人のようでもある。

この間久しぶりにハーンの本を買った。「東の国から・心」という660ページもある分厚いものである。

「心」は、岩波文庫にも納められていて、読んだことがある。また、新潮文庫の「小泉八雲集」は、古い愛読書の一つでもある。「停車場にて」や「赤い婚礼」は、忘れられない小品である。

さて、この久しぶりに買った本をパラパラと見ていた。不思議と何か語りかけてくるような感じのする本で、書店で出会って思わず買ってしまった一冊なのである。しみじみとした、暖かい感じがするのである。何気ない装丁で別に何処といって変哲なところがあるわけではないのだが。
「願望成就」という一文を見出し、何気なく読み出した。

これは、ちょうど日清戦争の時のエピソードである。

当時、熊本に居たハーンのもとに、松江時代の教え子だった小須賀浅吉が、出征の暇乞いに訪れた。

この一夜の対談が、丁度、西洋と日本の、生と死に関する対話になっている。それは、今の時点から見ると、日本人が忘れてきてしまった大切なものを、さらりと語っている。それをハーンが書き留めておいてくれたのだ。

「いまでもかれは、松江の学校で十六歳のはにかみやの少年だった時分とおなじように、あいかわらず、心はうぶのままでいることは、一見してあきらかだ。じつは、この青年は、わたくしに暇乞いをするために、わざわざ隊の許可をえて、きてくれたものなのであった。隊は、明朝、朝鮮へ出発することになっているのである。」

「かれは軍隊が好きだった。はじめは名古屋の連隊にいたのを、つぎに東京へまわされた。ところが、東京の連隊は、朝鮮へは出征しないということがわかったものだから、かれは熊本の連隊師団へ転属を申し出て、さいわいそれがうまく許可されたのであった。「それで、自分はいま、ひじょうにうれしいであります。」とかれは兵隊らしい喜びに顔をかがやかしながら、いうのであった。「自分らは、明日、出発するであります!」そういって、自分の腹蔵のない喜びを思わず口に出したのが、なんとなく、きまりがわるいとでもいうようなようすをして、もういちど顔を赤く染めた。」

うぶな青年のはにかむ様子が目に浮かぶようである。自分の喜びをあからさまにしたことを恥じて、顔を赤く染めるという心の動きは、最早この国の青年には見られなくなってしまったものの一つであるかも知れない。

会話は以下のように続く。

「君は憶えているだろうね?」とわたくしは尋ねてみた。「いつぞや君は教室のなかで、自分は天皇陛下のおんために死にたいといったことがあったっけね?

「はあ」と、かれは笑いながら答えた。「その千載一遇の機会が、いよいよ到来したわけであります。――これは自分ばかりではないであります。自分の級友たちにも、その機会がきたのであります。」

「あの連中、みんないま、どこにいるの?」とわたくしは尋ねた。「君といっしょかね?」

「いや、連中は広島師団におりましたが、みんなもう、朝鮮に征っておるであります。今岡と(おぼえておられるですか、先生。彼奴(きやつ)、ひじょうなのっぽな男でありました。)長崎と、石原――この三人は成歓の戦いにいっしょでありました。それから、自分らの教練の先生だった中尉殿――おぼえておられますか?」

「藤井中尉か、おぼえているよ。あの先生は、退職中尉だったね。」

「ところが、予備だったのであります。あの方も、やはり、朝鮮へ征かれたであります。先生が出雲を去られてから、あれからまたひとり、坊ちゃんがお生まれになりました。」

「わたしが松江にいた時分には、お嬢さんがふたり、坊ちゃんがひとりだった。」

「はあ。それが今は、坊ちゃんがおふたりであります。」

「それなら、あちらのお家でも、きっとお父さんのことをたいそう案じていらっしゃるにちがいないね。」

「中尉殿はちっとも心配しておられませんでした。」と青年は答えた。「戦争で死ぬのは、非常な名誉であります。政府は、戦死者遺家族を保護してくれるであります。でありますから、自分らの士官殿たちは、ちっとも心配しておられません。ただ、男の子がなくて死ぬのは、こいつはやりきれんであります。」

「それはまた、どうしてだね?」

「善良な父親は、たれしも、わが子の将来というものに心を砕いているからね。それが、いきなり父親をさらわれてしまったのでは、あとに残ったものが、いろいろ憂き目を見なければならんわけだろう。」

「自分らの士官殿たちの家族には、そういうことはないであります。子どものことは、親戚が面倒みてくれるですし、政府(おかみ)からは扶助料が下がるのでありますから、父親たるものは、あとあとのことを心配するにはおよばんのであります。そのかわり、子どもがひとりもおらんで死ぬものは、これはじつに気の毒であります。」

「気の毒って、その人の妻子が気の毒というのだろう?」

「いやいや、死んでゆく当人、つまり、御亭主がかわいそうだと申すのであります。」

「どうしてね?息子があったって、死んで行くものにとって、そんなもの、なんの他足にもならんじゃないか?」

「男の子は家の跡取りであります。家の名を存続させてゆくものであります。供養をするのは、そこの家のせがれでありますから。」

「供養というと、死んだ人の供養かね?」

「はあ。もうおわかりになられたでありますか?」

「そういう事実は、それはわかったがね、しかし、そういう気持が、どうもよくわからないね。いまでも軍人は、そういう信念を持っているの?」

「もちろん、持っております。西洋には、こういう信念はありませんですか?」

「ちかごろではないね。大昔のギリシャ人やローマ人は、そういう信念をもっていたがね。むかしのギリシャ人やローマ人は、先祖の御霊というものは家の中に宿っておるものであって、供え物や供養をうけて、家の者を守っていてくれるものだと思っていた。どういうわけで、そんなふうに考えていたかということは、多少われわれにもわかるけれども、むかしの人がどんな気持ちでそれを感じたかということになると、はっきりしたことは、われわれにもわからんね。つまり、自分の経験しないことを、あるいは、先祖から伝承しない感情は、われわれはわからんのだから。それと、おなじりくつで、死者に関する日本人の正直な気持ちというものがわたしにはわからない。」

「先生は、それでは、死は万事の終わりだとお考えでありますか?」

「わたしが難解だというのは、そういうことを言ってみたところで、いっこう説明にはならんのだよ。ある感情は遺伝する。――おそらく、思想のうちでも、ある思想は遺伝するだろうさ。ところが、君たち日本人の、死者についての感情・思想というもの、あるいはまた、死んだものに対する生きているものの義務といったもの、これは、西洋のそれとは、ぜんぜん、違っているのだよ。われわれ西洋人にとっては、死という概念は、完全な別離を意味している。生きているものから別れるばかりではない、この世からも別れてしまうことだ。仏教だって、死者がたどらなければならない、長い、暗黒の旅のことを説いているでしょう?」

「冥途の旅でありますか。―そうであります。みんな旅をしなければならないのであります。しかし、自分らは、死というものを完全な別離とは思っておらんのであります。死んだものは、いまでも自分らといっしょにおると考えております。そういう死んだ人たちに、自分らは、毎日話しかけております。」

  会話はまだまだ続きます。やがて、戦死者の話になります。

「しかし」とわたくしはいった。「先祖の墳墓の地を遠く離れて、異境で戦死するとは、西洋人にすら、とても気の毒な気がするねえ。」

「いや、そんなことはありません。郷里の村や町には、戦死者を弔うために、記念碑が建てられます。それに、兵隊の死骸は戦地で焼かれて、日本へ送りかえされます。すくなくとも、それができる時には、そうされるのであります。大激戦のあったあとでは、それはちょっとむずかしいかもしれませんが・・・。」

「してみると、こんどの戦争で戦死した将卒の霊も、将来また国難がきたようなときには、いつでもかならず祈念されるのだろうね?」

「そうであります。かならず祈念されます。自分らは全国民に敬慕され、尊崇されるのであります。」

浅吉は、自分がすでに戦死するときまっている人間のように、ごく自然な調子で、「自分ら」といった。そして、それなり、ややしばらく黙っていたが、やがて語をついだ。―

「自分は、昨年学校におりましたとき、行軍にまいりました。意宇の在に、英霊の祀られてある神社がありますが、自分らは、その神社に向かって行軍したのであります。あすこは、岡にかこまれた、幽邃な、景色のいいところでありまして、神社は、うっそうとした高い木の蔭になっております。昼なお暗く、冷え冷えとした、静かなところであります。自分らは神社の前に整列いたしました。もちろん、だれも物を言うものなどはありません。おりからラッパの音が、戦場への召集ラッパのように、神社の森にひびきわたりました。自分らは、みな、捧げ銃をしたのであります。その時、自分は目に涙が出たのであります。―なぜ出たのか、自分にもわかりません。朋友を見ますと、みなやはり、自分と同感のもようでありました。先生は外国人でおられますから、自分らのこの気持は、おそらく、おわかりにならんでありましょう。この気持をひじょうによく言いあらわした和歌がありますですがね、日本人なら誰でもみな知っておる和歌であります。むかし、西行法師というえらい坊さんが詠んだ歌でありまして、この西行という人は、僧侶になるまえは武士でありました。本名は、佐藤義清というのであります。―

  なにごとのおわしますかはしらねども
       かたじけなさになみだこぼるる」

ハーンの文章はもう少し続くが、これ以上は原文を是非見て欲しいと思います。
この浅吉青年は、戦死します。してみると、この言葉は、英霊の方々の思いを代表しているもののようでもあります。

この浅吉青年の体験は、別に取り立てていうほど特別な神秘体験というわけのものではありません。ハーン自身も多くの人々から同様の体験を聴いていました。

私も、学生の頃のことではありますが、半年ほど毎週日曜日に、靖国神社にお参りしたことがあります。

ご社頭で、ちょうど、昨日、小泉首相が頭を垂れて祈念されたあの場所で、静かに目を瞑り、合掌して、思いを凝らしておりますと、本殿の奥にある御神体の御鏡の方から、霊風というのでしょうか、爽やかな「気」とでもいうようなものが流れてきて、心身共に洗われて、落ち込んでいた心が沸々と元気に満たされていく、という体験を何度も致しました。

靖国の英霊は生きている、生きて日本を、我々を見守っていてくださる、と、それは観念ではなくて、実感として感じるものであります。

これを、非合理なものであるからといって、では嘘だ、思い込みに過ぎない、と断言できるものでしょうか。あるいはまた、科学的でない、の一言で、断ち切れるものでしょうか。そういう行為は、人間というものへの洞察を欠いた、薄っぺらで衰弱し切った現代人の傲慢であると思います。

奇しくも同じ苗字の小泉純一郎首相、小泉八雲は、イギリス人の父親とギリシャ人の母親の間に生まれ、アメリカで新聞記者としての職業を得て、やがて通信員として日本に渡り、日本を愛し、この国土の土になった方です。

小泉首相、靖国神社のご社頭で、英霊は、何を語りかけられましたか?

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2005年10月14日 (金)

映画「なごり雪」を、DVDで見た。

大分県臼杵市が舞台の、美しい映画だった。作られたのはまだ数年前、新しい映画であるのに、そこに描かれた世界は、懐かしい町、懐かしい人、懐かしい、昔のにっぽんだった。

臼杵には、行った事がある。

崖に掘られた石仏群を、大分市から、車で山を越えて見に行ったのだった。

野仏のような、優しい顔をした仏たちがいた。映画の中で、夏の祭りで、夜にあの野原を篝火が整然と縦横の模様をなして燃えているのが眺められるシーンがあったが、僕が見たのは、秋の昼下がりの、草原だった。ちょうど、明日香に似ている、とそのとき思った。

分かれるのは、きらい、と雪子が何度も言っていたが、確かに、分かれるというのは辛いものだろう。それも、置いていかれる方の身になったらどうだろう。

映画を見ながら、僕は、故郷のことを思い出していた。東京に上京して以来、余り戻ることのなかったところだ。今、僕の周りにいる人々は、その多くが、先祖代々この土地に暮らしてきた人たちだ。その人たちは、よきにつけあしきにつけ、全く言葉にする必要がない前提を沢山持ちながら生きている。余所者から見れば、しがらみとしか言い様のないものの中で生きている。そのしがらみを断ち切って、根無し草としての生き方、つまり決して土地に根ざさない生き方を選択したものとして、そのしがらみは、ある意味、置き去りにしてきた、何ものかを意味している。

僕が本当には、土地に根ざして生きている人々の気持ちがわからないのと同じように、根無し草の僕の気持ちが分ってもらえることもあるまい。あるあきらめの中を生きる。それはごまかしではなく、ただ違うのだ。

「なごり雪」という、誰もが知ったフォークソングを種として、臼杵という、進歩という名の破壊の浸潤を阻止してきた町を主人公として、美しい日本語の生きている世界を描いたということ。物や金をめざす生き方が、相手への思いやりを最優先して生きる生き方と対面する。

最後のシーンで、男泣きに泣く、号泣する場面があった。今、失われた最たるものの一つだろう。

壊すのは簡単でも、大切に保ち続けるのは難しいのだろう。その難しさを乗り越えて、大切に保ち続けた先に、何があるのか。変わらない町、変わらない人の思いがある。変わらないものの中で、確実に変わっていくのが齢を重ねていく人というものなのだ。

大林監督の話にあったが、言葉が明快で、ごまかしの言葉がない。きれいな日本語で通している。それが、この映画の不思議な懐かしさ、つまり今の日本にはない言葉の美しさと、それが生きる世界がどのようなものかを目の前に見せてくれた。

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2005年10月11日 (火)

「皇后陛下お言葉集 あゆみ」を見つけて

今日、夕方、書店に行った。

入り口正面に、「皇后陛下お言葉集 あゆみ」が棚一段いっぱいに置いてあった。

思わず手に取り、ページをめくった。

今上陛下がご即位されてより、今日まで、最も御側に仕へられてきた皇后陛下の生の御声が編まれていた。しかも、日英二ヶ国語の編集がなされている。監修が宮内庁侍従職とある。国内外へ向けた現在のご皇室のメッセージであることは、おそらく間違いないだろう。

ご即位10年に当たっての記者会見より、の中に、皇后陛下は、以下のように語られている。

「さまざまな事柄に関し、携わる人々とともに考え、よい方向を求めていくとともに、国民の叡智がよい判断を下し、人々の意志がよきことを志向するよう常に祈り続けていらっしゃる陛下のおそばで、私もすべてがあるべき姿にあるよう祈りつつ、自分の分を果たしていきたいと考えています。」

「人々の意思がよきことを志向するよう常に祈り続けていらっしゃる陛下」とのお言葉に、
今上陛下の、国民への祈りが、どのようなものであるのか、国民に伝えている。

「すべてがあるべき姿にあるように祈りつつ」とのお言葉も、考えさせられる。「あるべき姿」が「よきこと」であるとの確信が、皇后陛下の祈りの背後に厳然としてあるのでなければ、このようなお言葉にはならない。

ひとつひとつの言葉が、極めて優雅で高雅な調べでありながら、全く圧迫感を感じさせない、それでいて言うべきと思われたことは明快にお述べになられている。

日本語の最もよきお手本のような、珠玉のお言葉集だと思われる。

そのなかでも、御歌の素晴らしさはどうであろうか。

平成7年の御歌の中にある「広島」と題する一首を紹介したい

被爆五十年広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして

降りそそぐ雨の中を、深く慰霊の祈りを捧げられているお姿が髣髴として目に浮かび、雨の香が感じられるような御歌である。

英訳を次に掲げてみる。

Fifty years from bombing,
Now on the earth ob Hiroshima,
Dropping so gently,
A rain shedding where it falls
only the fragrance of rain

もし、皇室がなかったならば、日本という国はどうなってしまったろう。

ご皇室の弥栄を祈念すること切なるものがある。

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2005年10月 6日 (木)

信時潔氏の海道東征

最近、滅多な事では感動しなくなってしまいましたが、これには感動しました。

信時潔はご存知の方も多いかと存じます。

「海ゆかば」の作曲者であり、かつまたそのために戦後不当に黙殺されてきた作曲家です。

「海ゆかば」のすべてというCDを先ごろ購入しまして、聴きました。戦前・戦中の録音もあり、最近収録した録音もありました。名曲というのもおかしいのですが、何度聞いても飽きない、不思議なメロディです。作曲は昭和12年と、意外と新しいもので、NHKの要望で作曲されたものだということでした。

信時潔の代表作が何かといえば、おそらく議論もあるかもしれませんが、こちたき議論はさておいて、紀元2600年の奉祝のためにつくられた「海道東征」は、その一つであろうと思います。勿論、神武東征の故事をもとにした交声局で、作詞は北原白秋になります。

戦後、2度(あるいは3度か?)しか演奏されたことのないこの幻の曲が、何と、ホームページで聴けるのです!!!!!!!!!!

これには驚きました。

海道東征

そして、聴きました。これは、昭和44年10月6日に北九州市で演奏された録音だということでした。感動しました。

1、高千穂
2、大和思慕
3、御船出
4、御船謡
5、速吸と菟狭
6、海道回顧
7、白肩の津上陸
8、天業恢弘

信時潔氏は、晩年に、一度だけ再演された演奏を聴いて、これは後世に残る曲だと思っていたが、それを再認識した、と述べたということです。

※ご参照 新保祐司著「信時潔」

そして、このHPを紹介してくださった、信時潔氏の孫にあたる方の下記のHPに心から感謝しつつ。皆さんにも閲覧をお薦めします。

信時潔研究ガイド

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2005年10月 3日 (月)

徒然草〜吉田兼好と小林秀雄〜

つれづれなるままにひぐらしすずりにむかひてこころにうつりゆくよしなしごとをそこはかとなくかきつくればあやしふこそものぐるほしけれ

兼好法師の書かれた「徒然草」について、小林秀雄氏が書いた文章があった。
第五十段の鬼になりたる女の話について書いていた。
風評が一世を風靡すること、決して平安・鎌倉の昔の話ではない。
今も眼前に幾らでも見出すことの出来る世間の出来事である。

あちらに軍国主義の化け物が出た、こちらに戦前に回帰する愛国心が出た、右往左往するさま、果ては闘争にまで発展してけが人まで出す。ソックリそのままの世情である。

「鬼」は時代によって変るのだろうが、世間人心の中にしか存在しない虚構だということは、既に兼好法師が言っている。

つれづれなるままに、ひぐらしすずりにむかひて こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしふこそものぐるほしけれ

一体この法師には何が見えていたのだろう。

鬼に惑う都の人々の様を「鬼に虚言」とさらりと断じる同じ人が、土大根が化けて好み食べる武士を助ける話しや、豆殻で豆を煮ている音に「何で俺を煮てこんなに苦しい目にあわせるのか」「俺も燃やされて苦しいが、俺のせいではない。そんなに恨むな」と言い合うのを聴いた法師の話をそのまま載せている。

小林秀雄氏が「リアリスト」という言葉を使うとき、これらをそのまま受け取ることの出来る強靭な精神の持ち主のことを指したのだと思う。

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