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2005年8月18日 (木)

サンフランシスコ講和条約第11条について

東京裁判を考える上で、基本になる文献の中でも、一般の人にも手頃で読みやすく、しかも要を得た書といえば、やはり、清瀬一郎氏の「秘録東京裁判」であろう。

 清瀬一郎氏は、明治17年に生まれ、京都帝国大学を卒業、弁護士、法学博士となられ、大正9年に衆議院議員に初当選以来14回当選した。その間、文部大臣、衆議院議長などを歴任され、昭和39年に勲一等旭日大綬章を受けられた。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)において、日本人弁護団の副団長として、元首相の東条英機被告の主任弁護人として活躍された。

 つまり、日本側の当事者として、「秘録東京裁判」は、第一級の現場証言と言えるだろう。

 

その中で、「16、判決をどう受け取るべきか」というい項目がある。
 所謂「A級戦犯」の判決は、以下の通りとなった。
 絞首刑7人、終身禁固刑16人、禁固20年1人、禁固7年1人、と全員有罪の判決。弁護側としては余りにも屈辱的な敗北であったろう。但し、それが真正に公正な裁判であったならば。

 「興行的誇示と、連合国内むけの安価な復讐感覚に訴えるために仕組まれた東京裁判だが、裁判官の一人から、被告にはすべて無罪の判決を言い渡すのが当然であるとの意見が提出せられた。裁判を仕組んだ側の連合国当局の驚愕と狼狽は言語に絶した。」

 こう記して、パル判決書についての顛末を記している。裁判所は、徹底してこれを忌避し、法廷における朗読さえ拒否した。印刷頒布も占領軍当局から禁止された。

 さて、重光葵氏の起訴についての誤りを、キーナン検事から重光の弁護人ジョージ・ファーネスに宛てて出された次の書簡は、どうだろう。

 昭和27年2月9日付けの手紙である。
「1948年、裁判の終了に際して、私は重光氏が有罪の判決を受けたこと、さらに彼が裁判にかけられた人々の中にふくまれたこと自体に対して、深き遺憾の意を表しました。裁判を受くべき者を選定する仕事には、最も重要な問題がふくまれているのであり、これは裁判所条例によれば、主席検察官としての私の責任でありました。しかし十にのぼる国、または連邦構成員が戦争犯罪人訴追への努力に参加していたので、被告の人選および起訴について全員一致をとることは全く適当な方法でありました。
 私は重光をこのグループにふくむことに不本意ながら同意したのは、実にこうした理由からであります。裁判が進むにつれて、重光氏を引きいれることが、正義と公平にそうゆえんであったかどうかについて、私はますます疑問をもつようになりました。
 訴訟中止のための手段をとることは、裁判条例は必ずしもその権限を十分に認めていないし、こうした行動は裁判所のしりぞけるところとなろうと考えていました。しかし、それにもかかわらず、私はこれをなす責任を押し進めるべきであったのであります。率直にいって、彼のケースが無罪になることを期待するに十分な理由をもっていたのであり、しからざる結果になった時に非常に困惑したのであります。
 正義と公平の前に、私は彼を引きいれたことが間違いであったことを確信するに至りました。私のこうした考えは、彼が自若として、当然予期せらるべきふんまん状態を、何ら現すことなく、この状態を男らしく受けいれたことによって、ある程度安心したのでありますが、しかし、リストから彼を解除することが直截な正しい処置であることと考えます。
 さらに、現在および将来に向かって、われわれが直面している混乱した時代に、日本人は重光のごとき経験と信念の士を必要とするのでありましょうし、彼の同胞に対する影響力は、日本国民の国内および善隣関係における健全な将来に寄与することの多いことでありましょう。私は裁判当時の彼の弁護人としての書を、貴下にお送りします。私は正義の結論をもたらす権限ある当局に対しても、同様の声明または説明を喜んでなすつもりでありますが、とりあえず、この手紙はあなたが適当と思う方法で、自由にご使用願いたいものであります。
1952年2月9日        ジョセフ・キーナン
ジョージ・A・ファーネス 様  」

ちなみに、この手紙は、三木武夫氏らが「改進党」を組織した際、重光氏を引っ張り出して総裁に据えた際、その創立総会(昭和27年6月13日)日々谷公会堂において、朗読されている。

さて、判決文には、裁判の審理中、明らかに誤りと認められ、承認された修正が、全く訂正されていない箇所が随所にあった。例えば、文官であった広田弘毅氏が、「軍人参議官になった」との記事があった。当時の日本の法規では、軍事参議官は現役の大将または中将に限って就任できる地位であることから、明らかな誤りであることを法廷で証明している。ところが判決文では、元の通り、「軍事参議官」という文言がよみがえっている。そんなところから、清瀬氏は、次のように述べた。


「その他にも、証拠で固まったと思っておることが、いっこう顧みられておらぬ。いったいこれはどこから来たものであろうか。われわれ日本人は、判決書はかならず裁判官が書くものだと思いこんでおるが、東京裁判ではどうもそうではなかったらしい。」

では、判決文はどのように書かれたのかについて、次のように記している。

「昭和23年の3月に証人調べが済んでから、判決のために半年ほど休廷したが、その時に聞いたところでは、判決起草委員会なるものができ、その委員会には裁判官は出席せず、証人調べや法廷のやりとりをいっさい知らない人が委員となって、起訴状やその他2,3の書類を参照して作った作文が判決となったに過ぎないようである。」

そして、このことを裏書する証言として、判事の一人であったフランス代表のアンリー・ベルナール裁判官の言葉を紹介している。

「判決文中の事実の調査結果に対する部分全部は、起草委員によって起草され、その草案は進捗するにつれ多数と称せられる7判事の委員会に提出された。この草案の複写は他の4判事にも配布された。そしてもし必要なら草案の修正のために、この4判事は自分たちの議論の内容に鑑みて、自分らの見解を多数判事に提出されることを要求された。しかし法廷を構成する11判事は、判決文の一部または全部を論議のために召集されたことはなかった。ただ判決文の個人の場合に属する部分だけが、口頭審理の対象となった」

多数派7判事とは、アメリカのクレーマー、フィリッピンのジャラニーラ、カナダのスチュワート、中国の梅汝●(王片に傲の旁)、ニュージーランドのノースクロフト、ソ連のザリヤノフ、イギリスのパトリックの7人である。

除外された4人の判事は、裁判長=オーストラリアのウィリアム・ウェップ、オランダのローリング、フランスのアンリ・ベルナール、そしてインドのラダビノード・パール判事である。

所謂「A級戦犯」で絞首刑判決を受けた7名の刑が執行されたのは、昭和23年12月23日であった。その名前は、東條英樹氏、松井石根氏、土肥原賢二氏、広田弘毅氏、板垣征四郎氏、木村兵太郎氏、武藤章氏である。

翌24日、GHQは、巣鴨に拘置されていた残りのA級容疑者を釈放し、A級戦犯の裁判はこれで終了するという重大声明を出した。この日までに残っていたA級容疑者19名。

これに後日談がある。

「東京裁判で中国代表(実は国民党政府代表)の裁判官梅汝●(王片に傲の旁)は、1948年12月27日中共にくら替えし(中華人民共和国が宣言せられたのは、その翌1949年10月であるから、梅のくら替えはその前年)A級戦犯釈放に不満の意を表明した。そしていうには、これら19名の容疑者は、中国での戦犯行為を問われて逮捕せられたものであるから、これを中国に引き渡すべきものであるというのである。」

 中国共産党が、今に至るも執拗に「戦犯」を追及する原点がここにあるような感じがする。

「19容疑者の釈放に対してはソ連政府も抗議を出し、連合国司令官の一存でこれを釈放することは英・米・ソ・中4カ国の協定に違反するといった。このころになって連合国間の協議が破れ、冷戦が始まっておった。GHQは1949年3月(昭和24年)極東委員会を開いてソ連の反対を押し切り「日本のA級戦犯の裁判は今後絶対に行わない」と決議した。」

英・米・ソ・中の4カ国の”共同謀議”の存在を改めて知らせるソ連政府の抗議であり、先の判決も、オーストラリアを除けば、英連邦の国々とアメリカの支配下にあるフィリピン、つまりこの4カ国が書いた物語が、「A級戦犯」という判決文として創作されたことがわかる。

 しかも、英・米は早くも冷戦の気配の中で、日本を一方的に断罪する非を悟ったと見え「日本のA級戦犯の裁判は今後絶対に行わない」と決議したのだ。現在、日本で蒸し返されている”A級戦犯”論議が、中国側からの主張でしかないことは、このとき既に確定していたといえよう。(ソ連は既に崩壊した)

 「こんなわけでA級戦争裁判(東京裁判)は昭和24年3月をもって廃止せられ、爾後同裁判は再び行われないことに決定した。しかし、東京裁判で無期ならびに有罪の刑の言い渡しを受けた人々は、既決囚として依然巣鴨で服役しておったのである。」

 ところが、更にこの翌日、マッカーサーは、巣鴨で服役中の戦犯既決囚に減刑を与えた。

「1949年(昭和24年)12月25日、すなわち同年のクリスマスに、マッカーサーは巣鴨で服役中の戦犯既決囚(BCも含めて)で服役方良好の者には減刑が与えられるとし、62名を釈放し、その翌1950年(昭和25年)3月には服役中の既決囚にパロール(宣誓のうえ仮出所)を許すとし、パロール委員会を設置し、同年11月21日に重光葵を仮出所せしめたことはかつて述べた。これに対しソ連は抗議を申し込んだ。重光は出所後改進党総裁となり、保守合同で自民党に移り、鳩山内閣の外相としてモスクワにも出張し、日ソ国交回復にも尽力した。」

 占領後期には、既にGHQ自体にとって、東京裁判の茶番は耐え難くなっていたものと思われる。また、自民党は、当時のGHQの処置をどう位置づけているのか、明らかにする必要があるだろう。少なくとも自らの源流に当る「改進党」は、GHQも認めた”戦犯”赦免があって総裁が決まったのであるのだから。また、釈放された”A級容疑者”16名の中に、後の首相、岸信介がいたことをまさか認識していないはずはないだろう。

 さて、最後になるが、題として書いた「サンフランシスコ講和条約第11条」について、清瀬氏の認識を付け加えておく。

「1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ講和条約第11条では、なお残っておる既決囚の刑の執行責任は爾後日本政府にあることとなった。」

 このあっさりした記述の何処にも、「東京裁判の判決(の思想・歴史観)を受け入れる」という認識はない。そんなおどろおどろしいことではなく、「刑の執行責任」を日本政府が引き継いだ、というものであるに過ぎないのだ。しかもGHQでさえ減免をした刑を、日本政府が、条文の定める方法を踏まえて、釈放することに何ら問題は発生しなかったのであり、ましてや、東京裁判の判決書を生み出した特定の歴史認識を受け入れるなど、誰も思いもしなかったし、そのような責任も義務も、何処にも存在してはいなかった。過去においても、現在においても、そして将来に渡ってである。

 さて、今の日本の政治家の不勉強は、「思想の自由」さえ奪おうとしている。この異常な歴史認識を持って国民の思想的自由を奪おうというのである。こうした越権行為をあえてする国家は、プラトン流に言うなら「不義」の国家であり、現在最も似ている国家体制から類推すれば「全体主義国家」である。断じて、日本をそのような国家に堕してはならない。

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