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2005年8月 5日 (金)

「愛国心について」を読む  (1)

 いつ読んだのか、全く思い出せないにも拘らず、明らかに、かつてそのページを熱心に繰った跡がある蔵書に出会うことがある。不思議な邂逅である。

 そこに引かれた線は、その時、心に触れて光彩を放った言葉であり、その跡は、確かに自分の中に残っているものであるはずだが、その源が果たしてここにあったのかと、感慨無きを得ない。

 その驚きは、不思議な懐かしさを感じさせ、今再び、そのページを捲る自分自身の成長と共に、変らぬ理想と情熱の在り処を示してくれているのだ。

 この著者のものは、それほど多く読んだ記憶がない。この尊敬すべき人物への敬意は、却ってこの著者から自分を遠ざけていたように思える。それが今、このような新鮮な驚きと共に、かくも身近に、血肉ともなるイデアの源泉であった証しを発見して、愈々この著者への尊敬の念を深くするのである。

 その本の名は、「古典の世界から」であり、その著者の名は、「田中美知太郎」氏である。

 プラトン研究の第一人者である氏は、その知性の美というものを体現し得た稀有の人である、と僕は信じている。その信じる根拠は、出会いにあった。高校時代、何の雑誌であったか、氏の追悼特集号があった。それを手に取って何気なく読んだのが氏との邂逅であった。写真があった。決して整ったとはいえない顔立ちに、何ともいえない高貴な知性の輝きを見た。

 さて、「古典の世界から」を面白く読んだ。あとがきに、この本が著者の旧著の中から、若い編集者たちが今の若い読者のために選び出してまとめたものであったと記されている。氏は、「戦後20年の間に、ずいぶんいろいろのものが変ってしまった」と記す。また、選ばれた文章が「戦争中から戦後すぐの期間に書かれた」ものであると書き留めている。そして、「20年、わたしたちは何を得、何を失ったのだろうか。時代の嵐のようなものは、今日においてかえって激しさを加えているような一面があるとも言える。そのなかで静かに守らなければならないものは何なのか。」と問いかけるのである。この問いは、現在まで注意されることなく、更に40年もの年月を加えてしまったように思われてならない。

 「見る人に見てもらいたいようにも思う。しかしこれはわたしの自負ではない。むしろ今も悲しい思いが多いのだ」と記している言葉に、胸を突かれる思いがする。

 今回、改めて田中美知太郎氏の著書をざっと集めてみたが、思ったよりも時事的な発言が多くあった。しかもそれは現在から見てもその光彩を失わない、生き生きとした観察と本質を抉り出す叡智に満ちたもののように見える。

 全集を買いたいと思ったが、さすがに資力に余裕がない。ここに、その片鱗だけでも書き留めて、注意を引きたいと思う。

◆田中美知太郎全集(増補決定版全26巻)

1、『ロゴスとイデア』『善と必然の間に』
2、『哲学のために』『哲学初歩』他
3、『ソフィスト』『ソクラテス』他
4、『古典への案内』
5、ギリシア研究篇
6、近代思想と古代哲学
7、『ギリシア人の智慧』他
8、哲学的人生論
9、『思想の遠近』他
10、政治的関心
11、論壇時評
12、『ツキュディデスの場合』
13、『時代と私』 回想と追悼他
14、『人生論風に』『学問論』他
15、『巻頭随筆』 旅の至点他
16、『今日の政治的関心』他
17、批評的立場 書評(1)
18、『哲学談義とその逸脱』 書評(2)
19、『哲学からの考察』他
20〜22、『ソクラテスの弁明註解』他
23〜26『プラトン』

 さて、『古典の世界から』について、少し紹介しておきたい。
 この本の成り立ちについては、先に述べた。
 では、具体的にどのような文章が収められているのか、発表年月一覧から紹介したい。

ギリシア研究の意味         1946.10
西洋古典文化             1940.12
ギリシアとロオマ            1940.11
     *
狂気と正気               1941. 7
自己を語る              1942. 7
指輪                  1942.11
でうす・えくす・まあきなあ      1944.12
喜劇                  1944.12
     *
日蝕                  1939.11
難題                  1942〜43
     * 
イタリアの起源            1943. 3
歴史と創作              1942頃
シュンボロン             1946. 8
     *
あふるるばかりの精神的エネルギー 1943. 秋
プラトンの読書観を中心に      1941. 7
ソクラテスの場合           1946. 5
     *
死すべきもの              1940. 4
幸福について              1946. 5
天才について              1947. 2
なんじ自身を知れ           1942頃
     *
ギリシア詩人の倫理思想       1941.11
「われ」の自覚とギリシア思想     1946. 7
     *
パンの笛                 1966. 1
四月の言葉               1965. 4
近代化と、その先の問題       1965. 2

 どの一篇を取っても、極めて示唆深いものばかりで、簡単に紹介することは出来ないが、この文章を書こうと思った一つの動機として、「ソクラテスの場合」を取り上げてみたいと思う。

 1946年、昭和21年5月に書かれたこの文章は、もとは「愛国心について〜ソクラテスの場合〜」と、表題が逆になっている。偶々、元の冊子を入手することが出来たが、それによって確認できた。昭和41年(1966年)に出版されたこの本において、何故表題が逆にされたのか、という点について確認する術はないが、現在只今においても「愛国心」という言葉に反発を覚える政党や個人、団体が犇めいていることから類推することによって納得するしかなかろうと思う。

 逆に言えば、敗戦から一年も経たない時点で、しかも既に占領軍の検閲が始まっていた時期にあって著された「愛国心について〜ソクラテスの場合〜」という題の冊子を出版した出版社も出版社であるし、著者も著者であると言わねばならないだろう。あるいは、占領軍の検閲よりも、戦後の自主検閲の方が凄まじい統制力を持っているということなのであろうか。

 冒頭はこんな書き出しで始まっている。

 「愛国者としてのソクラテスを考える時、国を愛するということは、人を愛する場合でも、他の何かを愛する場合でも、同じように言えることなのであろうが、単純で複雑、容易でまた困難、いろいろな場合があるということを教えられるように思う。」

 そして、プラトンが「クリトン」という書物のなかで、愛国者としてのソクラテスを誰にでもわかる単純な形で描いているという。ソクラテスは七十年の生涯を通じて、自分の生まれた土地アテナイを愛し、その愛着の故に、アテナイを離れて他の土地に行ったことは、ほとんどなかった。当時のアテナイの政情において、亡命は日常のことで、刑罰を免れるためには人々は容易に国境を越えることができた。
 「別に立身出世の見込みがあったわけでもなければ、手離し難い土地や財産があったわけでもなく、むしろ世間の嘲笑迫害とか、家計の不如意とか、彼を国外に追い立てるような事情がいろいろあったにもかかわらず、なお殺されてもアテナイを離れまいとしたことは、彼の祖国に対する愛着が如何に根深いものであったかを語ると言わなければならない。」 
プラトンの「テアテイトス」で、ソクラテスは、自分が一番関心を持っているのは、自分の国のことだと、単純正直な告白をしている。

 当時にあっても、これほどまでにアテナイを愛するアテナイ人はソクラテスを於いて他になかっただろう。

 しかし、「彼が愛した国」とは、風光自然ではなかった。

 プラトンの「パイドロス」の中で、ソクラテスは、「土地や樹木は何も教えない、町に住む人間たちが自分の師匠なのだ」と方っている。「彼が深い関心を寄せていたのは、国土でなく、むしろ国民であった。就中、その青年たちのことであった」のである。

 「彼の話題は何であったか。彼が人生の一大事と考えた精神の徳についてであった。」

 「彼が最大の関心を寄せていたアテナイ人の生活は、甚だ憂うべきものが多々あったのである。彼の愛国心は根強く、強烈ではあったが、盲目的ではなかった。彼は30年にわたるペロポンネソス戦争を戦わなければならなかったアテナイの宿敵、スパルタの政治にも学ぶべき点が少なくないことを語り得たのである。彼は敵国のものでも、美点は美点として認め、自国のものも、弱点は弱点として語ることを憚らなかった。」

 ソクラテスが生きた時代のアテナイは、言わば戦前・戦中・戦後の時代であったと言える。このソクラテスが生きた時代を、敗戦直後の時代の真っ只中にあった田中美知太郎氏が想起したということは、誠に痛切な追懐であったと言わねばならないだろう。

 「如何に多くの欠点を自国民のうちに認めたとしても、愛国心は変るものではない。彼は他の住みよい国に逃げ出したりはしなかった。どんなに悪くとも、わが祖国である。愛に変りはなく、関心はかえって深まる。愛する祖国を少しでも、よりよくしようとする熱意はかえって強められる。」

 戦後何度か繰り返された愚論に、「日本は愛し得る国か」というのがあった。今もある。愚問であり、愚問でしかない、と断じ去ってよいのではなかろうか。敗戦直後の日本は、それは浅ましい人間の醜悪に満ち満ちていた。手のひらを返したような軽佻浮薄な人々が大手を振ってまかり歩いていた。過去一切をの断罪が始まろうとしていた。多くの欠点を露呈した日本国民の姿を見つつ、この言葉を刻みつけたのではなかろうか。

 祖国とは何か。この問いに対して、やや長くなるが、引用してみたい。

 『ソクラテスにとって、祖国とは如何なるものであったか。「クリトン」に語られているソクラテスの考えは、極めて単純なものであった。「祖国は私たちを生み、養い、育ててくれた親であり、また主人であった。私たちと国家との間には、丁度親子の場合と同じように、どんなことをされても、仕返しをすることが許されないような関係が存立していたのである。国家に対しては、ひとは対等の権利をもってはいない。それは両親に対しても同様である。しかしながら、祖国は母よりも、父よりも、またその他祖先の誰よりも尊いものであり、敬うべきものであり、神聖なものである。ひとはこれを敬い、祖国に対しては、父に対するよりも一層従順で、その怒りに対しては、ただただ機嫌のなおるように努めなければならない。ひとはこれを説得するか、しからざれば、何ごとにもせよ、その命ずるところをなさねばならぬ。祖国が受けよと命ずるところのことは、打たれることであれ、縛られることであれ、戦争に行って傷ついたり、死んだりすることであれ、平静にこれを受けなければならぬ。それは為すべきことがらであって、かくあるのが正しいことなのである。怯まず、退かず、命じられた持場を守るようにしなければならぬ。職場においても、法廷においても、いかなる場所においても、国家と祖国の命ずることを為さねばならぬ。そうでなければ、正義の本性にかなう仕方で、祖国を説得しなければならぬ。そうしないで、暴力に訴えたりすることは、父母に対する場合でも無道の行いとなるが、祖国に対しては猶更のことである」ソクラテスにとって、祖国とはかくの如きものであった。』

この一文は、今の感覚からすれば、大いに反発を感じる一文ではないかと思われる。親への反抗はいまや当たり前であり、むしろ抵抗こそが美徳とされているのが今である。しかし、この国家と国民の関係は、大東亜戦争という大きな戦いの終わりにあって、かくのごときものではなかっただろうか。これは、ソクラテスの国家観を示している以上に、当時の日本人が持っていた「国家」についての観方を確認したようにも思われる。
 また、アテナイは知られる通り、「民主主義」を生み出した都市国家である。世界で最初に民主主義を生み出したアテナイにあってもまた、「国家」とはかくの如きものであったのだ。

 ソクラテスにとって、この「国家」は絵空事ではなかった。「ソクラテスは、かく考え、かく語り、また正にかくの如く行為したのである。」

 ここで、ソクラテスが30代、40代において立てた武勲について記している。

 「彼は、30代、40代において出征し、ポテイダイア、アンピボリス、デリオン等で戦った」「死の危険を冒しても、命ぜられた持場を守り通した」「プラトンの「饗宴」には、ソクラテスが、デリオンの敗戦に殿(しんがり)をつとめて、如何に勇敢沈着であったかが語られている。その行為は勇名をもって知られたラケスのそれにもまさるものであって、プラトンの「ラケス」においては、ラケスその人が、もし他の人たちもソクラテスの如くに振舞ったなら、デリオンの敗戦は生じなかったであろうと述べている。ソクラテスは、ひとたび祖国防衛のために戦う時、実にかくの如き勇士であった。」

 最初に、戦場での武勲について語ったところから考えて、田中氏は、この一文を何よりもまず復員した兵士たちに向けて書いたのではないかと思われる。そうだ、俺たちもかくの如く戦ったのではなかったか、と思わしめるように書いたのではなかったか。

 しかし、田中氏は、英雄的なその「行為」そのものを評価したのではなかった。

 「重要なのは、かかる行為そのものではない。大事なのは、かかる行為が、ソクラテスにおいては、上述の思想、すなわち祖国の命ずるところに従わなければならぬという忠誠の心から生まれているという一事である。戦場における勇敢な行為に限らず、一般に単なる行為というものは、徳からも、悪徳からも生じ得るもなのである。競争心、功名心、あるいは恐怖心、社会的束縛、絶望と自棄、無我夢中というようなものまでが、後には栄誉をもたらす行為へと私たちを駆り立てることが少なくない。」

 動機が何であったか、ということが第一に来るのである。そして、「行為」だけを取り上げた場合にどうなるかについて述べている。

 「しかしながら、かくの如きは一時の勇士、英雄を作るに過ぎない。愛国ということが、例えば戦場における特殊な行為のみによって教訓される時、人々は日常生活において、あたかも愛国心なきが如くに振舞う。大事なのは行為ではなく、行為を導く思想なのである。」

 これは厳しい言葉であったと思われる。戦場において行われた行為が、真に愛国的動機によって行われたものであるのか、あるいは全く別の動機で行われたものであるのか、その場の行為のみで判断することは出来ない、とは真実であっても、そのように自己の動機まで確固として把持出来ていた人は果たして何人いたであろうか。求めるに酷であるかもしれないけれども、尚これを求めなければならない、戦場での「愛国心」を鼻にかけて、「あたかも愛国心なきが如く振舞う」人々は、あるいは多かったのではなかろうか。

 「ソクラテスは勇敢な戦士であった。しかもそれは心からなる行為においてであり、深い思想と硬い信念とに裏づけられたものであった。」のである。であるが故に、「ソクラテスの祖国への忠誠を、もっと困難な場合においても見出すことができるのである。それは何であるのか。」

 それは、「国民評議会」においてであった。

 「(前)406年のアルギヌゥサイ島沖海戦において、勝利を収めながらも、犠牲艦船の人員救助に関して、職務上の責任を問われた8人の指揮官の処罰が国民議会に動議されて、違法であったにもかかわらず、個々審理を省略して、一括これを判決に付そうとした時、ソクラテスはこれが原案を準備すべき委員会に属していて、ただ一人最後まで、その違法であることを主張して譲らなかった。」のである。

 「そのためにソクラテスは、満場の人々から嘲罵され、自分自身が告発されそうな危険に陥ったのである。しかしそれにもかかわらず彼は、「拘禁や死刑を恐れて、諸君と共に不正の議決をなそうよりは、むしろ法律と正義に従って、飽くまでもこれと危険を共にすべきであると信じた」のである。私たちはここに再びデリオン戦の勇士ソクラテスを見る。戦場においては、恐るべき敵は彼方にあり、周囲にはなお味方があって、社会的制裁や軍律が卑怯の行為を妨げ、栄誉や利益が勇敢な行為をすすめてくれるけれども、この場合には一人の味方もなく、むしろ同胞の大多数から敵視され、拘禁や死刑の屈辱不利益のみを前途に期待しなければならなかった。かかる場合において、誰がなお勇敢であり得るか?このような困難の場合においてもなお勇敢な人こそ、真に大勇の人と言わなければならない。それはもはや単なる行為として与えられることはできない。祖国に対する真の忠誠なしには生じ得ない行為である。既に見られたように、ソクラテスはかかる忠誠の人であり、かかる愛国者であった。」

 この部分を読むとき、胸に迫るものを感じざるを得ない。真の忠誠、真の愛国をソクラテスにおいて見る著者は、その背後に多くの今におけるソクラテスの存在を思い、期待し、失望しつつもなお、また望んでいたのではなかろうか。そしてまた、国民の一人一人が、ソクラテスの勇を求められたとき、それを担い得る人がどれほどいたであろうか。戦前という時代は、言われるほど「愛国」や「忠誠」に富んだ時代であったのであろうか。むしろ、戦争における惨禍は、真の「愛国」や「忠誠」の欠如がそれを助長したとは言えないだろうか。戦後、「愛国」や「忠誠」は、戦争の惨禍の責任を負わされ、濡れ衣を着せられ続けてきたが、それは、真の敵や真の原因を隠蔽することのみに役立ってきたのではないか。今の時代、国会のみならず社会のあらゆる方面において、かかるソクラテスの勇を振るい得る人が何人いるであろうか。

 敗戦・占領の巷にあっての獅子吼は、一体誰に届いたのであろうか。  (この稿続く)

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