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2005年6月11日 (土)

「聖母マリア信仰」の成立について

山本七平氏の「禁忌の聖書学」を手に取って読んでいるが、その2番目の話が「マリアは”処女”で”聖母”か」という。

「キリスト教に全く無関心な人でも処女降誕には何らかの関心を示す」という話から始まって、そもそも、聖母マリア信仰というものがどのようにして成立していったのかについて、氏の該博な知識を駆使して考察を加えていくのだ。

GHQの指導で、民主化の一環として、NHK放送討論会という番組があったのだそうだ。

そのとき、討論者の一人であった牧師に対して、聴衆のひとりから「あなたは処女が妊娠して子供を生むと本当に信じていますか。そんなことは科学的に言ってあり得ないと思いますが」という内容の質問がされた。キリスト教では、教義の根幹にかかわることで否定するわけにはいかず、さりとて一般論として肯定するわけにもいかず、立ち往生せざるを得ない立場に追い詰められる。司会が「それは神学的に非常に難しい問題ですから・・・」と助け舟を出して質問を打ち切らせてしまったそうで、このエピソードを想起して話を始めている。

GHQの指導というのだから占領下のことで、この文章が書かれた昭和62年(1987年)からは40年近くも前のエピソードなのだから、余程印象深かったのだと思われる。

井上靖氏が、「これは男性にとって何となく「聞き捨てならない」言葉なら、女性にとって一つの夢である」といわれたそうで、確かに「処女懐胎」という言葉には、むずがゆい思いがするのは如何ともし難いように思える。

以下、興味深い考察が続くが、この問題は、いわばキリシタン時代以来、日本においてもキリスト教への反駁の一つになっている論点で、山本氏のこの論述は、ある意味「護教論」的な感じが無くも無い。

興味深い論述は本文を読んでもらえばいいので省略するが、マリアが「聖母」として正式に認知されたことについては記しておこう。それは381年のニケア=コンスタンティノポリス信条であり「キリスト教の基本であるニケア信条」といわれるもので、これはキリスト教の諸派の殆どがこの信条を信条としている点で共通しているのだということである。以下、孫引きながら、山本氏の引用を転記する。

「われらは、天と地と、すべての見えるものと見えざるものとの創造者にして、すべての主権をもちたもう全能なる唯一の神を信ず。
 また、神の子である唯一のわれらの主イエス・キリスト、すべての世紀の前に父より生れ、神のひとり子、父より生まれ、光よりの光、まことの神からのまことの神、造られずして生れ、父と一体であり、すべてのものは彼によって造られ、われら人間のため、われらの救いのため、天から下り、聖霊によって処女マリアから受肉し、人となった。われらのためポンテオ・ピラトの下で十字架につけられ、苦しみ、葬られた。三日目に復活し、聖書にある通り、天に昇り、父の右に座し、生者と死者とを裁くために、栄光をおびて再び来るであろう。その国は終ることはない。
 主であり、生命の主である聖霊を、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、尊ばれる。(聖霊は)預言者によって話した。唯一、聖、公同の、使徒伝来の教会を、罪の赦しのための唯一の洗礼を。死者の復活と未来の生命とを。アーメン。」

一方、ユダヤ教においては、イエスは私生児であり、タルムードには「姦淫の女の息子」「娼婦の子」とされているそうである。

また、処女信仰としてはヘレニズム世界に広くいきわたっていたアルテミス信仰との関連についても触れている。

そうしたことを踏まえた上で、結論として、山本氏は次のように述べる。

「確かにマリアは、ユダヤ教徒にとっては「姦婦・娼婦」、キリスト教徒にとっては「聖母」であり、その懸隔は埋めがたいが、「聖母にして娼婦」という女性がいても不思議ではあるまい。ただマリアはその極限で、「処女にして神の母にしてかつ私生児の母」なのである。そのイメージに戸惑っても、案外、男性にも女性にも、理想化された女のイメージがそこにあるのかもしれない。」

「それが「ロゴスにしてソフィアなるものの母」であることは否定できまい。とすれば、「聖母マリア」はやはり、「聖なる書」からしま生れ出ない。聖書はやはり真理をつげているのだが、この真理が、「道学者先生」の”真理”なるものでないことは事実であろう。聖書は聖書であって、決して、道学者の偽善の書ではない。」

これは、非常に烈しい言葉である。

確かに、女性に子供を産ませることが出来るのは男性である。しかし、女性が常に一人の男性をのみ受け入れるとは限らない。しかし、子供にとって母なる存在は常に聖である。男性にとって、穢れ無き処女のイメージと、母のイメージが一つとなる「聖母」のビジョンは確かに理想かも知れない。また、男性によることなく、子供を持ちたいと願う女性の、理想なのかも知れない。いずれにせよ、その不可能性ゆえに、仰がれるビジョン、それが「聖母」なるものなのであろうか。

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