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2005年6月18日 (土)

山本七平氏の問題意識について 「禁忌としての聖書学」より その1

 ある作者が、内部に持ち続けている問題意識は、間欠泉のように、様々な作品の中で噴出するもので、山本七平氏にあっても、「禁忌としての聖書学」という、聖書学を巡る著述の中で顔を出している。

「過越の祭と最後の晩餐」という論述の最後にそれは顕れている。

(ユダヤ教徒の「過越の祭」、カトリックの「最後の晩餐」―ミサ、プロテスタントの聖餐式などの歴史について、)
「(前略)いずれも、民族もしくは民族文化、また宗教文化の継続性の保証であろう。」

と述べる。すると、「継続性の保証」という言葉が、山本氏の内奥の問題意識にコツっと当る。

「継続性の保証のない文化が果たして永続するであろうか。」

既に思いは、「聖書学」を離れ、西洋文明を離れ、文化一般の問題に思いをいたしたように思うが、そうではない。

「永続性の保証のない繁栄が果たしてつづくのであろうか。」

思いは、正確に、現在の戦後日本に飛んでいるのである。「永続性の保証」のない「繁栄」を謳歌する、戦後日本に飛んでいるのだ。そしてそれは、日本民族及び日本文化へと思いは飛ぶ。

「一体、日本民族・日本文化の永続性の保証をわれわれはどこに求めたらよいのであろうか。」

この答えを、山本氏は探求しているのだ。そしてその見当もついてはいる。だから次のようにいう。

「ヘブル大学の日本学者ベン・アミン・シロニー教授は日本の継続性の保証を天皇制に見る。そう言えた時代は確かにあったし、今もそう言えるのかも知れない。」

しかし、ここから山本氏の韜晦が始まるのだ。天皇制は、将来に渡って、日本の永続性の保証であり続けることが出来るのか、という問いになるのだ。

「だが果たして将来にもそう言えるのであろうか。と思うことは、すでに保証ではない。」

ここで、「と思うことは、すでに保証ではない」という言葉の意味は、平易ではない。山本氏は、「天皇制」が日本の永続性の保証として将来にわたって言えるのか、という問いかけの前にいる。そして、それは「保証ではない」と思うのだ。いや、疑問に思った時点で、自らの中で「保証」として感じ取れないのだ。

「一方彼らは過越の祭は永久に継続されると信じて疑わない。だがこの探求は「過越の祭と最後の晩餐」とは別の課題であろう。」

ユダヤ民族が、彼らの永続性の保証である「過越の祭」が永久に継続されることを信じて疑わない、と山本氏は確信している。同じ確信が、日本人たる自分にあるのか、という厳しく内省しているのだと思う。結びの一文をどう解すべきか。

「なぜか、私の心も、肌寒かった。そして何やら、重い課題を背負わされたような気持ちで、私は、家路を急いだ―まるで、ユダヤ教の世界から日本教の世界への「出エジプト」を急ぐように。」

「思い課題」とは日本民族及び日本文化の永続性の保証とは何か、という問いであろう。しかして、その答えが「ユダヤ教の世界」にはないと、直観するのだろうか。「日本教の世界」へ、「出エジプト」を急ぐように、家路に急ぐのだ。木枯らしの吹く、寒い年末の街中を。

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