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2005年6月 9日 (木)

人間は世界をどのように認識するのか

竹山道雄氏「まぼろしと真実〜私のソビエト見聞記〜」所収

「人工の楽園」より

「人間は事実とは別に、事実について彼がえがくイメージをもっている。世界についての特定の表象の仕方が教えられ、それにしたがつて事実を把握し、そのイメージにしたがって行動をおこす。だから、彼の行動となまの世界とはしばしばずれることがあり、また彼の行動がなまの世界と合致している場合にも、なお彼は自分が思いうかべたイメージにしたがって行動したのである。

 世界についての特定の表象の仕方―これがゆるがないあいだは、彼のイメージは変わらない。たとえそれが事実とくいちがっていることが分って一時は混乱しても、しばらくたつとふたたびもととおなじ正確のイメージが成立する。〜(略)〜しらずしらずの選択によって、具合のわるいことは意識から排除し、都合のいいことだけをとりあげて、彼の意識の内容がつくられる。

 この表象の仕方は、理論の形をとって裏づけされる。人間は事実に即して事実を見ることはすくなく、むしろ「かくあるはずである。故にかくある」という経路を通じて事実を評価する。この経路において、事実はその体系に適合するように解釈される。このような構想力によってつくられたイメージははげしい勢いで伝播して、集団の共有財となり、聖なるものとしてあがめられる。かくて一たん成立した集合的意識は、容易にくずれることはない。〜(略)〜

 人間はさながらシャボン玉の中にいるように、彼がいだくイメージ―世界像の中にいる。ある気質の人々は、いったん成立したシャボン玉の中にとじこもって、それを外の世界とつきあわせて検討しようとしない。その人々は現実からは遮断されて、かれらのそれ自体で独立した世界像の中で、それがもつ言葉と論理によって、主観的には常に合理的である。」(「人工の楽園」より引用終)

 やや抽象的な議論のようだが、人間の認識能力のもたらす性向について、竹山氏の持論が展開されている部分であるので紹介した。

 竹山氏は、ソビエトについて書いているが、氏は常に、昭和初期の日本のことを繰り返し念じているのだが、それは(かつてわれわれはそれが一挙に全面的に崩壊したのを、八月十五日に経験した)と書いていることでも明らかである。日本を敗戦に向けて突き進ませたものは何か、それが竹山氏の終生変わらぬ問題意識であったと思われる。

 そして、帝国日本を破滅させた「集団表象」は、戦後、形を変えて益々猛威を振るっていると見た。それが、氏の戦後の評論活動の原動力になっているように思われる。

 人間精神のありようについての竹山氏の洞察は、更に、現代的な意味を帯びている。

「精神の大前提をなすものを自分でえらべという自由を与えられると、人は目標を失う。ついに病んで、目標であればいかなるものでもよいとて、自分をくるしめる自由を破壊することを情熱の目標とする。しかし、否定や破壊欲だけでは生きてゆくことはできないから、架空の幻影の中に絶対を見いだす。」(「人工の楽園」より)

 「自由の背理」「自由の悲劇」と、西尾幹二氏が指摘することに通じる。この「架空の幻影」を示しそこに「絶対」を見だすようにすれば、「カルト」ができあがるのだ。しかし、「自由」に耐えられるほど、人間は強い存在なのか、という西尾氏の疑問は、ここでは問われない。もし問われるとすれば、それは、「大審問官」の問いに近いといえようか。

 ソ連には、この種の悩みとは無縁だった。なぜなら、既に「架空の幻影」は与えられ、絶対の未来は既に約束されていたのだから。

「ここに、人類と憎悪、正義とルサンチマン―この相矛盾する人間の根本感情を綜合した体系がたてられて、幾億の人々を律している。その救済を信じている人々は、いつでも未来へと逃避することができる。「二十年後には・・・・」。まことに未来の救済の観念の約束ほど、人間を絶対服従させるものはない。

 この体系はそれ自体に完了していて、他の夾雑物をゆるさない。都合のいいものだけをとりあげて、都合のわるいものは捨てる。複雑な世界をただ一つの観点からとりあげれば、いかなる体系もたてることができるが、ここに思いうかべられた世界像は排他的で閉鎖的な硬化したものである。そこに選択されてとりあげられた一切の事実を簡明な公式によって説明することができ、それによってそれを口にする人間に自信をあたえうることが、非常な強みである。

 もし事実を説明できない場合があれば、事実の方がこの体系に順応させられる。〜(略)〜「かくあるはずである。故にかくある。もしそうでない事実があるなら、それは非科学的であるから、事実の方がまちがっている」

 それでも否定することのできない事実は、言葉と論理によってこの体系にあてはまりうるようにその性格がつくりかえられる。〜(略)〜

 ふしぎなことには、この体系を確信している人にむかって、その事実との矛盾を指摘すると、その人は非常な激昂を示す。それは自分の実存を汚された者の憤怒である。」(「人工の楽園」より)

 ある共産党の代議士が、「現実が憲法に追いついていない」という批判をしたことがある。正にここで指摘されている通りの精神のかたちをしているといっていいだろう。「日本国憲法」について見ていく場合、この憲法が、日本の現実から出発したものでなく、架空の幻影から出発したことを肝に銘じておかなければならない。それを少しでも現実に日本という国を存続させていくために最低限の修正を施し、解釈によって凌いできた占領下の政治家の苦心は並大抵でなかったと思われる。革命家にとっては、架空の現実の方が都合が良かったことは間違いない。そして、過去のものや現実は全て、間違ったもの、破棄すべきもの、としておけばよかったのだから、こんな楽なこともない。日本に真の内発的革命がおきない理由の一つは、革命家が、この怠慢を殆ど体質化しているためだといえよう。

「人間の世界についての表象の仕方を独占せよ!集団のイメージを定着させ、それを操作せよ!人間を支配するとは、ある特定の観念に対する情熱を持たせることである。一たん集合的な知覚と論理が成立すれば、それから外に出ることを敢えてする個人はほとんどいない。それを敢えてした者は、昔から磔になったり火炙りになったりした。ことに現代では、これが大衆社会の支配の方法である。精神を、何よりも精神を―。これが唯物哲学の実践的帰結のように思われる。」(「人工の楽園」より)

竹山氏は、これが共産主義国家だけでなく、自由主義国家においても現出することを指摘し、日本の例を挙げている。

気をつけて見れば、最近の中国からの執拗な「靖国参拝」への内政干渉についても、新聞各紙の論調などを見て、現在進行形の問題だということを改めて痛感させられる。

「公共意識の独占は、ただソ連のような国でのみ行われるmのとはかぎらない。自由な国でも、たくみな組織がそれを行うことがある。われわれは自分の国でそれを経験しt。多くの人々がそれを「マスコミの暴力」といって憤慨した。われわれの周囲では、ひさしいあいだ組織化された妄想が、世を―すくなくともインテリを動かしていた。〜(略)〜

 もともと人間が自分で実感をもって認識できるのは、ごく狭い身辺のことだけである。現在と離れた、過去・未来・外国・自国の全体などについての認識は、事実から生まれることはできない。その認識は、おおむね欲求が想像力をもってえがきだしたものである。人間は世界を幻のように見る。
〜(略)〜

 幻術の本質は、人間にある特定の世界像をあたえて、それにしたがった行動をさせることだった。(略)
 こういう幻術は今の世にもあるのではなかろうか。人間はつねにこういうものを求めているのではなかろうか。彼の欲求が想像力をもってえがきだすものと、現実との境には、はっきりした区別はないのではなかろうか。」(「人工の楽園」より)

 小林秀雄氏が「文学と自分」という講演の中で、切実に体験することはごく小さい世界でしかないこと、地面に触れているのはただ2本の足の裏だけであることを指摘していたことを思い出す。「頭の中に龍を飼う」という言葉を使っておられたように思いますが、それを竹山氏は「幻」と表現されたようにも思えてくる。

 日本人にとって、本当に必要な哲学とは何であろうか。「起きて半畳寝て一畳」ほどの哲学があれば、それで充分なのではなかろうか、と思われてくる。

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