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2005年6月14日 (火)

竹山道雄氏とヘレン・ミアーズ

ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡・日本」が角川書店から再刊された。戦後50年の時に、別の余り名を聞かない書店から出版されたものがほぼそのままの形で出たようだ。

この本は、マッカーサーによって禁書にされた「アメリカの反省」の新しい翻訳本であり、長い間、入手困難なものだった。ヘレン・ミアーズ女史は、この著書の為に不遇な学者生活を余儀無くされたといわれているが、自らの論述を曲げることはなかった。この点、アメリカの学者の凄みを感じさせてくれる。

さて、その労作を一言で言うことなど不可能であることは言うまでもないが、極めて大雑把なディティールを述べれば、「日本は西欧のマネをして、西欧のやったことを西欧よりもやや良心的に行ったに過ぎない。日本の行為が悪いというならば、それは西洋文明そのものを批判しなくてはならない」ということになると思う。

そこで、このことを裏から述べれば、日本は極めて主体的に近代という時代を生きてきた、といえるのではないか、ということである。

このことを、竹山道雄氏が「主役としての近代」という小論で書いたのだ。それが後に「昭和の精神史」に繋がっていく。

「近代性には二つの面がある。一つは人間を解放した近代であり、他は人間を拘束する近代である。日本では、ここに特殊の条件から、前者がその片鱗を示しはじめたころには、もう後者が決定的な力をもつほどになっていたのであった。
 かつては、わが国も近代化への過程にあった。天皇は意識的にロボット化されていた(これがあまりにもロボットになってしまったことが、結果的にはかえって悪いことになった)。官僚出身者はぞくぞくと政党に入った。軍部大臣は「自分は一介の武弁にすぎない」とへりくだった。さらに、言論はすくなくも一時は放恣といっていいほどに自由であり、日本人は世界でもっとも国家意識が稀薄な国民であるとさえいわれた。そうして十幾年前のわれらの社会ははなはだしい病的症状を呈していた。」

この文章は、最近のものではない。昭和二十二年に書かれたものだ。時代の証言と言っていい。ヘレン・ミアーズが「アメリカの鏡日本」を書いたのも同じ時期だ。

アメリカ人が、あの戦争は、西洋をよく真似した日本が起こしたものであり、文明的に西洋に責任がある、と告発するなら、いや、西洋近代というものを取り入れ、それを自らのものとして自らの歴史を(それは混迷したもので、爬行したものではあったが)辿ったのがあの戦争なのだ、と言い得るのが、日本人の主体性というものではなかろうか。

ミアーズの著作には、色々な意味で興味深い視点があり、特に西洋の読者に読んでもらいたいものである。日本人は、本質のある部分について悟るところがあるにしても、そこから更に自らの歴史として、改めて把握する必要があるのだと思う。

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