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2005年6月18日 (土)

「一つの教訓・ユダヤの興亡」

「禁忌としての聖書学」を読了して、幾つか感想を書いてはみたものの、改めて、自分の無学さを痛感させられました。

大体、邦訳「聖書」一つまともに読破できていないのに、死海文書やら、七十人訳ギリシャ語聖書やら、ユダヤ古代誌やらユダヤ戦記やら、教会史やら、多少ともきちんと考えるつもりがあるのなら読んでおくべきものがこれほどあろうとは・・・。

幸い、というか、その気になれば、今はその殆どがかなり簡単に入手できるようになってはいます。


「一つの教訓・ユダヤの興亡」は、「禁忌としての聖書学」よりも少し前に出されたもので奥付では昭和62年刊となっています。

ここで始めて、山本氏が竹山道雄氏の見解について批判を加えている文章を発見しました。

竹山氏が「聖書」から反ユダヤ主義の部分を削除すべきだと論じた文章、これは竹山氏の戦後の著作の中で一貫して述べられてきた見解であり、キリスト教文明への懐疑と、日本文化の防衛という氏の生涯のテーマでもあるもののように思われますので、これに対する、山本氏の批判をじっくり読んで見たいという気になりました。

そもそも、この本の執筆動機の一つに、この竹山氏への反論というか、批判、と言うのも違うのですが、きっかけであったことは間違いなさそうです。

竹山氏の「聖書の一部削除論」への「驚きというより少々考えこまざるを得なくなった」という山本氏の当惑。

確かに、山本氏の言うことに理があるように思えます。
イエスの前からユダヤ虐殺はあるということ、聖書の文言を削れということは、虐殺の論理と本質的に同じであること、などあまりの明快さに、鮮やか、お見事、と言いたくなるほどです。

是非、これに対する竹山氏の反論を読んで見たい、と思いました。

残念ながら、単行本として出たのは氏の死後2年以上も経過してのことですから、目にしたかどうかも定かではありませんが。

山本氏の一見カラッとした文の調子と、竹山氏の水気を感じさせる文とは、これまた対照的な気がします。

比較の対象というよりも、別の思想家、思索家だと思えばそれでいいのかも知れませんが。

何れにせよ、どちらも一流の人物であり、あれこれ詮索する資格など、こちらには最初からあるはずもないので、せめて、あーでもない、こーでもないとあがいているだけなわけです。

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