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2005年5月 4日 (水)

「憲法の常識・常識の憲法」を巡って

「憲法の常識・常識の憲法」の著者が、五月三日の産経新聞「正論」欄で書かれていたので、それを紹介しつつ憲法について書いてみたい。

「憲法で最優先すべきは国柄の明記

改憲の方向では共通認識

 衆参両院憲法調査会の最終報告書も出そろい、ようやく憲法改正に向けて態勢が整いつつある。
 焦点の第九条についていえば、衆院の報告書(要旨)には「自衛権及び自衛隊について何らかの憲法上の措置をとることを否定しない違憲が多く述べられた」とあり、参院の報告書(同)でも「自衛のための最小限度の組織が必要であることには、おおむね共通の認識があった」とあるから、あえていえあ、あとは憲法にどのように書き込むか、という表現の問題とみてよかろう。
 五年間かけての調査結果にしては、いささか物足りない気がしないでもないが、こうして与野党間で、緩やかながらも憲法改正についてのコンセンサスが形勢されたことの意義は、極めて大きい。
 他方、自民党の新憲法思案要綱(要旨)では、「自衛のために自衛軍を保持する」とされ、民主党も憲法改正の論点整理(ポイント)の中で、「自衛権を憲法上明確に位置づける」と述べており、両党の間での話し合いの余地は十分あると思われる。

 現憲法が欠く日本らしさ

 ところで、「憲法」は、コンスティテューションの訳語であるが、本来は、それぞれの国の独自の歴史や伝統を踏まえた国の姿・かたち、言い換えれば「国柄」を意味する。ところがGHQ(連合国総司令部)の草案をもとにつくられた現行憲法の前文には、日本らしさはどこにも見られない。
 それゆえ、憲法改正、とりわけ新憲法の制定を考える際には、まず憲法の本来の意味である「国柄」という問題に立ち返り、わが国の個性や独自性を明らかにする必要がある。そして、それをもとに将来の国家目標なども射程に入れ、国家のグランド・デザイン(全体構想)を考えていかなければならない。具体的な条文の起草作業はその後である(拙著『憲法の常識 常識の憲法』文春新書)
 この点、衆院の報告書では「前文」で「我が国固有の歴史・伝統・文化等を明記すべき」(多数意見)と提言しており、評価できるが、問題は何をもって「我が国固有の歴史・文化・伝統」とみるかということであろう。
 これにつき自民党の試案要綱では、「日本国民は多様な文化を受容して高い独自の文化を形成した。多元的な価値を認め、和の精神をもって国の繁栄をはかり、国民統合の象徴たる天皇と共に歴史を刻んできた」というように、より具体的にわが国独自の歴史・文化・伝統の実体に言及しており、説得力があるように思われる。
 ただ問題は、このような皇室と共に歩んできたわが国民の歴史、つまり我が国独自の国柄への自覚を、いかにすれば国民の多数が共有できるようになるかということであり、そこに新憲法制定の成否がかかっていると思われる。
 しかし残念ながら、この点については必ずしも楽観を許さない。とすれば、回りくどいようではあるが、新憲法制定のためには、東京裁判史観を払拭し、自国の歴史、文化、伝統に対する国民の「自信と誇り」を回復することが先決問題である。
 そして、そのためにも教育基本法を改正し、歴史教育の正常化や愛国心教育の充実をはかっていくことは、喫緊の課題であるといえよう。

 まず軍隊の保持を明確に

 他方、憲法改正の当面の目標としては、第九条二項を改正し、軍隊の保持を明記することが考えられる。つまり、第九条一項の「平和主義」は維持しつつ、二項だけを改正するというものであって、これなら、先の両院憲法調査会報告書や自民・民主両党の改憲案から考えて、実現可能と思われるし、国民の多数の支持も得られよう。
 ちなみに、一昨年十二月に日本世論調査会が実施した憲法に関する世論調査では、「憲法を改正し、自衛隊の存在を明記すべきだ」とする国民は、59%に達している(神奈川新聞、平成16年1月1日)。
 護憲派が最も恐れているのは第九条の改正であるが、それはもちろん、第九条こそ彼らにとって最大のウィーク・ポイントだからである。現在、護憲派は全国各地、各職場に「九条の会」を発足させ、来るべき憲法改正のための国民投票に備えようとしているという。国会での攻防はあきらめ、主戦場を憲法改正のための国民投票に移しているわけである。
 戦いはすでに始まっており、これに勝利し憲法改正を実現するためにも、今後、一層広範な国民運動が展開されなければならないと思われる。

 先に「九条カルト」といういささか、過激な文章を書いてしまったが、憲法改正の焦点は、やはり九条になるという見通しが立つということである。

 それにしても、既に現実には、自衛隊の活動は国民の大多数に認知され、国連のPKOでも、カンボジアのみならず、ゴラン高原、東ティモールなど世界に展開しており、またイラク・サマーワへの派遣は更に一歩踏み込んだものであったことは誰しも認めるところあろう。

 また、一方において、北朝鮮、台湾海峡の火種のみならず、竹島、尖閣列島、北方領土など、我が国における領土問題。海底資源の問題など、領域防衛のためにも、今後一層自衛隊の活動は重要であることは間違いない。

 憲法九条は、敗戦・占領下の極めて特殊な政治状況の中で生まれたものであって、60年経とうとしている現在、無理があるのは当然のことなのだ。

 「憲法の常識 常識の憲法」は、憲法論の前に国家論がなければならないことを先ずはじめに指摘している。戦後の憲法論議は国家論が不在であったため、極めて歪んだものになってしまい、世間の常識と余りにもかけ離れてしまったことの指摘は強調してもしすぎることはないと思われる。

 ちなみに、よく戦後日本が戦争に巻き込まれなかったのは憲法九条のおかげだ、という。しかし、国が守られたのは、自衛隊の存在と、日米同盟の存在があったことを無視することは出来ない。現実は、憲法九条があった「から」国が守られた、というよりも、憲法九条があった「にもかかわらず」国が守られた、というべきである。

 「治にいて乱を忘れず」という言葉がある。平和な時代にあっても、常に戦争のことを忘れないことによって、戦争を回避する道も見出せる、ということである。「軍事力によらない平和」という空想は、少なくとも現実に軍事的緊張が存在している中にあっては危険を呼び寄せるもの以外のなにものでもない。残念ながら、世界の歴史上、「軍事力によらない平和」が実現した試しは、唯の一度だってありはしないのだから。

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