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2005年5月 5日 (木)

憲法論議の常識について

「憲法の常識 常識の憲法」を読了しました。

 著者の苦心は、いやというほど判りました。

 苦心の殆どが、憲法そのものと、戦後憲法学の歪みからきていると思われました。

 戦後憲法学が、何故、観念遊戯として、常識からかけ離れる道を歩んだのか。その原因を、著者は、「国家論の不在」としています。

 「憲法」が「国家」の基本法である以上、憲法を論じる前提として、国家論がなければ成り立たないと考えるのは、むしろ常識に属する問題でしょう。

 ところが、戦後憲法学は、「国家」を奇妙なまでに無視しました。

 国家論の不在が、奇妙なところで顔を出したのが、教育基本法改正における愛国心教育論議においてでした。

 連立与党を構成するさる政党は、「愛国心教育」に反対する理由として、「統治機構を愛せよということはできない」という議論を展開しました。ここでは、「国家=統治機構」ということになります。

 著者は、こうした認識に疑問を投げかけます。「国家」とは何か。「統治機構」は、「政府」のことであり、「国家」そのものとはいえません。「国家」とは、独自の歴史・文化・伝統を持つ、有機的統合体のことであることを指摘します。英語で言えば、ネイションとステイトというように区別できる事柄であっても、日本語特有の問題によって、議論を必要とするということになるのでしょう。

 憲法論議を腑分けしていくと、色々なことが見えてきます。

 例えば、国際法と国内法の関係です。

 「8・15革命説」が成立するためには、その前提として、「国際法絶対優位説」に立たなければなりません。そのため、「8・15革命説」が主流の憲法学の流れを汲んで、法学のあらゆる方面において国際動向を必要以上に敏感に引き込むことに繋がっているという点です。

 ジェンダーフリー論者は、「女性差別撤廃条約」を金科玉条として、この条約を批准したのだから、日本は国内法を全て改正すべきだ、としてきました。社会的な慣習や、文化・伝統も改変すべきだと主張する文化大革命の発想の元は、ここにあるわけです。国内法との調和主義に立つならば、このようなことはあってはならない暴走であることは、常識に照らして明らかでしょう。

 外国人参政権賛成論者は、EUでの域内による地方参政権付与の動きを見て、バスに乗り遅れるな式の早とちりな議論を展開したようです。

 しかし、「国際法絶対優位説」は、決して世界の潮流でも何でもなく、一つの学説に過ぎず、しかもそれは採用され難い、知的遊戯に過ぎないものなわけです。

 すると、戦後憲法学は、知的遊戯に過ぎなかった、ということになりますが、さすがに著者はそこまでは言っていませんが。

 憲法九条についても、第一項については、第一次世界大戦後に結ばれたパリ不戦条約を取り入れたものであり、これについて言えば戦前でも日本はこの条約を批准していたわけで、現在の世界各国でも憲法典に取り入れている国は決して少なくないことを指摘しています。この意味における「平和主義」については、日本国民の歴史的性向からしても、全く異論のないところです。

 問題は、第二項の非武装主義にあります。

 九条の制定過程について要点を書いておられますが、所謂「芦田修正」と呼ばれる「前項の目的を達成するために〜」という挿入によって、再軍備が可能になった、という点で、「自衛のため必要最小限度」という理由さえつけば、どこまでも解釈で軍備増強が可能な政府解釈の問題を突いています。

 九条問題は、マッカーサーが、世界のどこにもないユートピア的な空想的理想主義を描いたことから始まり、それをマッカーサー・ノートとして、憲法起草の責任者のケーディス大佐に指示したことに始まります。自衛権をも否定されたら国家として自立していくことは出来ないとしたケーディスの若干の修正が加わり、更に、帝国議会においても、大変な議論がなされました。しかし、GHQ監視下にあり、その日の議論は全て英訳されてGHQに提出されるという中で自由な討論は望むべくもなく、いわゆる芦田修正も、経緯がわからなければ判らないというレベルのものであり、曖昧と言われる日本国憲法の条文中、あらゆる解釈を許す、規範性さえ疑わしいものになってしまったというわけです。

 憲法九条が問題になるのは、矛盾が最露出しているためです。

 日本は事実として、戦後一貫して軍事力の空白の期間を経験していません。占領軍の圧倒的な力もありましたし、警察予備隊の創設、保安隊への改変、自衛隊の編成と、講和独立時には、既に自前の自衛力を保持するに到っていたわけです。

 この点からしても、憲法があったから国が守られた、という議論は成立しません。

 憲法があったから、戦争にならなかった、という議論ならばどうでしょう。これは、憲法前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意した」という文言を前提とした議論でしょう。即ち、日本が他国を侵略することを食い止めた、ということに他なりません。

 ここに貫かれているのは、自国への不信感であり、奇妙なことに、在日米軍について一時期アメリカで議論になった「ビンのふた」論にも繋がるような、日本悪玉論であります。

 日本国憲法は、国家性悪説、というよりは、日本国性悪説の上に書かれたものであり、であればこそ、以上のような議論がアプリオリに出てくることになるのでしょう。これは、一国の憲法としては、余りにも異常であるといわなければならないのではないでしょうか。

 憲法九条第二項に、自衛のための軍隊の保持を明記することが、大切であり、空想的、非現実的な非武装主義条項を廃棄することが、現実にも適合する必要な改正であることは間違いありません。

 九条を守る、と言っている人々に明確にして欲しいことは、それが、「平和主義」を守ることなのか、「非武装主義」を守ることなのか、であります。

 前者であれば、「平和主義」の内容については徹底した議論が必要ではあっても、大方の国民は納得するでしょうし、九条一項については、それこそ広めようなどと力瘤を入れなくても、多くの国々が了解している事項であります。何も戦前を衒って「世界に冠たるヘイワ憲法」などとうぬぼれる必要性も必然性もないわけです。

 問題は、九条二項の「非武装主義」ですが、かつての社会党党首が主張した「非武装中立」論が国民の失笑を買って見向きもされなかったことは、同党が既に消滅していることを見れば明らかでしょう。また、軍備増強を続ける中国や北朝鮮、または日本の領土を一部武力制圧下においている韓国という近隣諸国の情勢からして、非武装を称えることは、無条件降伏せよと言っているに等しい愚挙であります。

 これは、国民に、近隣諸国の奴隷になれと言っているに等しいと思われます。

 勿論、国家の現実は、そんな愚論に動かされるわけではありませんが、ホンネを隠した詭弁には、まだまだ人の良い日本人の中には騙される人がいないとも限りません。はっきりして欲しいと主張する所以であります。

 あんまりふざけていると怒られそうなので、ちょっとまじめに、論点整理を行ってみました。「憲法の常識 常識の憲法」が手元にない中で書いたので、あるいは同書の論旨と違っているところもあると思いますが、あしからずご了承のほどを。

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