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2005年5月 1日 (日)

「大東亜戦争殉難遺詠集」を読むにあたって

 「大東亜戦争」という言葉を、素直に使えるようになるには、相当な時間を要した。「太平洋戦争」という言葉で知られる、この戦争のことを日本人の立場から冷静に見つめようとすれば、「太平洋戦争」ではどうもしっくり来ない。「大東亜戦争」でなければならない、そのことに、心底納得するには、何年もの時間が必要だった。

 「はだしのゲン」という反戦マンガが、小学校の学級文庫においてあった。そこには、日本の正しさを信じる軍国少年のゲンが、実際の日本軍の残虐さを聞いて改心していくというストーリーが描かれていた。そこでは東條英機首相は、悪魔の化身のように描かれ、天皇は戦争責任があるという政治主張が込められていた。

 大学受験で世界史を選択したのには、何と無く日本の歴史を学ぶ気にならなかったせいもある。世界史の方がスケールが大きくて、日本史は何とはなしにチマチマしたイメージしか持っていなかった。

 大学に入って日本史を専攻したのは、そういう脈絡からは出てこないものだが、自分の力できちんと学び直したいという気持ちはあった。しかし、高校レベルの日本史さえ頭に入っていないので、日本史の全体像というものは中々見えてこなかった。大学の講義では、通史は無く、「歴史学」という実証史学の方法論や観念的な歴史哲学のさわりを流し、あとは極めて限定された限定的な分野の講義があるばかりだった。

 今ある知識の殆どが、大学の講義以外で身につけたものばかりであるのも、致し方ないことではあった。大学には、ただ単にものを考える時間を貰ったことだけが、感謝出来ることだった。

 最終的に、大東亜戦争を素直に受け入れられるようになったのは、靖国神社での出会いに依った。戦友連という団体が、日曜日毎に、首相の靖国神社公式参拝を求めて、広報活動を行っていた。大学の後輩に紹介されて、毎週手伝うようになった。

 往年の戦士たちに立ち混じって、合間合間に色々な話を聞いた。立ち居振る舞い、ものの考え方、大陸や南方の話。平行して多くの本を読んだ。恐らく大東亜戦争関係で100冊以上は読んだ。少ない数ではあるが、その読書の感触と、戦友連のおじいさんたちから得る感触が、重なっていくことによって、ようやく、深い洗脳の闇から脱することが出来たのだ、と思う。

 往年の戦士たちの「男のやさしさ」に触れるにつけ、この人たちの名誉を傷つける「侵略戦争論」を、心底許せなくなって行った。靖国神社に祭られている英霊の方々と、このおじいさん方は、戦友であり、どちらがどちらになっても決しておかしくない状況にあったのだ。いわば、戦友連のおじいさん方は、僕にとっては「生きている英霊」とでも呼ぶべき存在だった。

 平成4年、東南アジア諸国2週間の旅を行った。各地で、当時、日本と共に戦った方々や、現地に住んでいる日本人の方々とお会いする旅だった。無理に無理を重ねて、半年の準備を経ての旅だった。何の為にこんなことをしているのだろう、と自問自答が繰り返された。そんな時、毎週、靖国神社に参拝したとき、心が静まり、また準備を進める力を得た。
 才も能もない若輩者が、如何に意気込んで行こうと、何が判るわけもない、という自嘲も脳裏を翳めた。何の成果も得られないかもしれない、とも思った。

 タイ・マレーシア・シンガポール・インドネシアという4カ国を経巡った。多くの人々に遭った。取り分けて、タイのソムアン・サラサス氏(元外務大臣)、マレーシアのラジャ・ダト・ノンチック氏、インドネシアのオマル・ヤディ氏などは、各国の有力者でもあった。日本人でいえば、タイでは、住田さん。この方は大川周明博士に学んだ方だった。マレーシアでは土生さん。マハティール首相の下で政府顧問にもなった空手家でもある。インドネシアでは、藤田さん。インドネシア独立戦争に身を投じた日本兵の一人だった。各地で日本人墓地を訪れ、戦没者の墓に線香を手向けた。

 一つだけ得たものがあったとすれば、この無謀な行動によって、大東亜戦争の問題は、自分にとってものっぴきならない内面のものとなったことだった。

 名越先生のご好意で、先生の講義の時間の一時間を頂いて(30分といわれていたが伸びた)このことを他の学生百名位に話す機会を得たことがあった。殆どの学生が、内容に興味を持ってくれた。教条的な侵略戦争論で反論する学生が1〜2名いただけだった。「体験し、思索し、行動する」というテーマを貫いて得た体験により、観念的な反対論には全く動じなくなっていた。

 シンガポールのセントーサ島に、戦争博物館がある。そこには、山下・パーシバル会談の蝋人形が置かれている。降伏か戦うか、YESかNOかを迫った山下大将に対して、10万の軍隊を擁していたパーシバル准将は降伏した。あと数日で砲弾が尽きるという瀬戸際での交渉だった。英語と中国語と日本語のボタンがあって解説が流れる。これを評して、「この瞬間、アジアが西洋を追い出した瞬間であった」と明確に語っていた。「アジア解放」は、絵空事ではなく、現実のものとして、史実として語られていた。

 「欧米列強によるアジアの植民地支配」これは厳然として存在した。数え方にもよるが、五百年もの長い年月をかけて全世界を植民地にしてきた欧米列強の侵略の歩みに、ストップをかけたのが明治維新から日清・日露の大戦に到る歴史だった。そして、欧米列強を押し戻したのが、大東亜戦争に到る道のりであり、その後大東亜戦争を戦い抜いたアジア諸民族の戦いの歴史だった。共産主義という西欧所産のイデオロギーが、凄惨な色彩を強めはしたが、共産化という精神的な植民地化に染まり切らずに、本来の民族自立路線を貫いていくことが可能となったのは、日本というアジアの一角の国が示した範によったとは言い得る。

 日本は、戦後もその志を捨てたわけではなかった。アジア諸国の独立と発展の支援は継続された。そしてアジアのリーディング・ネイションとして奇跡と言われた復興と発展を遂げ、共産主義の脅威を跳ね返して冷戦においても勝者の側に立つことが出来た。

 しかし、先人の苦悩と努力の跡を忘れ始めたとき、この国はおかしくなった。そう思えてならない。

 歴史とは、先人苦悩の跡である、とある国史学者の言葉である。歴史は泪なくしては読めないものだ、と言ったのは、小林秀雄氏だった。余計な工夫さえしなければ、心を打つものなのだと。歴史は、既に戦前から暗記物の一つとして嫌われる傾向にあった。それは、亡国の兆しだったのかもしれない。

 明治維新以来の連続性の中に、現代日本はある。少なくとも、この140年の歴史を踏まえずしては、何も語ることは出来ない。自分は何者であり、何処に居るのかさえも自覚できなくなる。

 「歴史は人類の巨大な恨みに似ている」これも小林秀雄氏の言葉だ。この巨大な実在に対して、推参する道は果たしてあるのか。

 それが、歴史に生きた先人の言葉と心に学ぶことなのだ、と思う。切実に、喪われた人々のことを思うことなくして、歴史がよみがえることはない。その意味で、「大東亜戦争殉難遺詠集」は、今を生きる若い日本人が、自らの魂の根源にいたるための、鍵となる言葉ではないかと思われる。

 虚心坦懐に、心を澄ませること。死んだ人々に対して出来ることは、本当のところ、それくらいしかないのだ、と思う。

 「大東亜戦争殉難遺詠集」は、「わが古典」にて、毎日お一人、紹介して行きたい。

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